爪を研ぐ者たち
梶原奈義が助けた少女、ヘレナ・フィッシャーは母を追うように明龍の戦士となった。アーノルドはそれを知っていたし、明龍の中でヘレナはちょっとした有名人だった。梶原奈義が消えた理由を知らない多くの人々は、同じく母の失踪の経緯を知らないヘレナに説明責任を求めた。
もちろん誰もヘレナに英雄としての役割を受け継げなどとは言わなかった。しかし、梶原ヘレナは期待されていた。あの完全無欠の英雄の残滓であるならば──と。
アーノルドは、梶原奈義がヘレナを拾った時の小型艦を運転していた。だから、「始まり」のヘレナを知っていた。
あの少女はきっと戦いには向いていない。戦闘機に乗ること自体が間違っているように思えてならなかった。
しかし今、そんなヘレナは月面防衛戦線の決戦兵器となっている。
──梶原中尉は……そんなことは望んでいない。
故に、打倒月面防衛戦線。梶原ヘレナを取り戻す。
その前提において、アーノルドは紀村ナハトとアルバ・ニコライとの協力関係を拒否しなかった。
けれど問題はその先にあった。
◆
アーノルドは人心核アダムを取り込んだ怪物、紀村ナハトを人間だと認めた。人間であるならば、当然、利己的で邪悪な側面がある。
「爆弾……?」
紀村ナハトはハワード・フィッシャーを倒すためには対面を避け、仕掛けを通じて殺せばいいと言った。八人の殺害候補がいるのならば、まとめて全員吹き飛ばせばいいのだと。
「つまり、君たちは……その……ハワード・フィッシャーの分身を全員殺そうとしているのかい?」
目の前にいる二人の少年は、反逆者だった。人体模倣を起点とした歪んだ世界に溺れまいと、足掻く者たちだった。奪われ失い、それでも諦めない。決意を瞳に宿して、立ち上がった──。
だから、だろうか。彼らにかける言葉をアーノルドは持っていなかった。
話は聞いた。二人はハワードを殺すのだろう。きっと成し遂げる。二人の覇気を感じると、月面防衛戦線の息の根が止まる未来が、目に浮かぶ。
彼らは<キューティー>から弾丸を手に入れ、怨敵を葬るのだろう。八人の中に潜む一人を殺すため、その他七人の屍を積み上げる。
それが彼らのハッピーエンド。
そもそもどうして気が付かなかったのだ。つい数時間前にアルバ・ニコライはハワードの兵隊を殺したではないか。当たり前のように殺すという選択肢が浮上する場。アーノルドの日常は、二人の少年が放つ復讐の炎にくべられた。
もはや、正義を語る人格者も、道徳を宣う聖者もお呼びじゃなかった。 アーノルドは彼らに、「報復は無意味だ」と止める術はない。
アーノルドに語ったことが全てでなくとも、きっとそれは彼らにとっての真実に近い。故に、紀村ナハトがアーノルドに事情を話したことは「知ったからには逃がさない」というメッセージが多分に含まれている。
現状を知れば当たり前のこと。紀村ナハトはアルバ・ニコライは<キューティー>の協力者が欲しいのだろう。
「ハワードを殺すにはそれが一番早い」
紀村ナハトは悪びれもなくそう応えた。
従うしか──ないのだろう。アルバ・ニコライの武力を背景にした交渉は、命令に近い。
あふれ出る汗と加速する脈動を無視して、アーノルドは聞いた。
「さっきも言ったが、協力はしよう。ただし、殺人やテロには加担できない。僕にできることは、君たちをフェンのところへ連れていくことだ。君たちがフェンとの交渉に失敗しても責任は取れない。それで納得できないのなら──」
決死の発言。魂だけは復讐鬼に渡さないと、抗うようにアーノルドは震える脚で言った。
「僕をここで殺せ」
梶原奈義を知っているというだけの、平凡な男。武装組織に似合わぬただの市民。銃口を誰かに向ける覚悟などない。否、そんな覚悟は必要ないと示したい。死が当たり前に怖い、アーノルドができる最大の抵抗が、自分の死である。
「……」
怪物、紀村ナハトは様子を窺うように、アーノルドの眼を見た。
チカチカと光る照明は、男の途切れそうな精神を煽るようだ。疾うに引き返せないことは受け入れた。
「仕事をしてくれさえすれば、それでいい」
ナハトの中できっと何かが変わった。
それは今まで微かに残っていたなにか。アーノルドはそれをきっと良心と表現するだろう。
◆
月面防衛戦線は世界を一変させた。合衆国を始めとする経済的に主導権を持つ各国は、軍事に国力を集中させ、世論はそれを後押ししている。五年前の月で起きた激戦が苦い記憶として刻まれた人民たちは、一度は戦争を忘れようと努力した。
しかし、待っていたのはテロリストの残党が起こした悲劇だった。
軍事衛星マルスの壊滅。人体模倣研究所の崩壊。国連宙軍ロサンゼルス基地の敗北。
それらはもはや隠し通せる域を越え、世界中のメディアが取り上げるほどの社会現象を巻き起こしている。
軍事に関わるテクノロジー企業の株価は急上昇した一方で、環境保護や人権団体の活動は下火になった。
戦闘機の製造は急ピッチで進められ、新たな技術は戦いを想定して開発される。
合衆国も軍事予算を瞬く間に増幅させ、多くの兵隊を宇宙へと送り出した。
その武力を人の型に託して振るわせる。
月と地球の隔たりは日に日に大きくなり、インターネットでは罵詈雑言が飛び交った。皆、誰かを悪者にしたくて仕方ないのだ。
なぜ、愛する人は死ななければならなかったのか。
そんな内容の記事やメディアが、人々の義憤に火をつける。
悲劇には理由が必要で──人を人とも思わぬ悪魔の仕業だと信じたがっていた。
その元凶が、人の心を誰より信じる聖人だとも知らずに──。
「ハワード……」
ルイス・キャルヴィンは、ネットニュースを見て、溢れる憎悪を感じていた。五年前の戦争は誰もが楽観視していたけれど、今回は違う。誰もが月面防衛戦線を恐れている。
ルイスは、それがかつての同僚、ハワード・フィッシャーの仕業であることを知っていた。
穏やかな風が吹く、小さな島で暮らす彼女は、その自宅で端末を操作する。
働いていた頃は、ハワードがどんな人物か知らなかった。否、知った気になっていた。
彼は技術者として優秀で、優しく思いやりがあり、礼節を持ち合わせた好人物だった。
そんな男が、世界の敵になることなど、誰が想像できようか。
今となっては、手遅れだ。彼女は訳もわからずヒューマテクニカ社を追い出され、人体模倣研究所で勤め、そこでもまた行き場を失った。
そして真実を掴みかけたことで、彼女は明龍に入ることとなる。
二十年も前のことだ。まだ梶原奈義が少女だった頃、ルイスはオルガ・ブラウンがハワードを打ち倒すことを目標としていることを知った。
次代の戦争は戦闘機による白兵戦が主力となると予想したオルガ。
戦術核兵器は使い物にならなくなると考えたオルガ。
ある意味でそれは現実味を帯びてきた。人類初の宇宙戦争で、各国は十五年遅れでオルガの予想に追い付いてきたというわけだ。
なにしろ、<神の代弁者>なる兵器が世に生まれてしまったのだから。
「ハワード、あなたは一体なにをしようとしているの?」
皺の多い手で、額を覆った。苦悩が顕になる表情。
明龍情報七課課長、ルイス・キャルヴィンは半年前に衝撃的な報告を受けた。
コードネーム<スピーディー>と名付けた明龍のエージェントがいた。
梶原ヘレナである。元々彼女には、宇宙での任務から遠ざけるために地球へと向かわせた背景がある。それは梶原奈義の意向そのものであるが、それが最悪の結果となった。
人体模倣研究所の事件とロサンゼルス基地への襲撃を経験した彼女は、行方不明となった。
おそらくは、ハワードと共にいる。
そんなふざけたことがあるだろうか。
奈義とルイスは自分を責め続けた。どう償えば許されるのかわからないほどの罪悪感で、歩みを止めそうになった。
しかし、彼女たちはこの小さな島で元来の目的を思い出した。
「ハワードを止めるのよ……。それしか道はない」
ルイスはそう呟くと、隣にいた客人が、付け足した。
「そのつもりだ。このままでは終われるか」
苦悶の表情で逆襲を誓う女がもう一人。
エマ・シェルベリ。国連宙軍軍曹にして、狂信者の生き残りである。




