幕間 二人の負け犬(3)
紀村ナハトとアルバ・ニコライは相容れない。
それは二人がハワード・フィッシャーの打倒という共通目標を持っていても変わらない。
ナハトは、生きる目的のない悪党だ。崇高な思想などなく、守りたい信念もない。ただ自らの肉体が息をすることだけが最優先。他の何も等価で無価値、生きて死ぬだけの凡夫に過ぎない。
生きる目的を見つけ、手を伸ばそうものなら、人心核アダムの<マザー>によって阻害される。それほど基本プログラム<生存>の枷は強固にナハトを縛っている。
けれど、それこそ身から出た錆。被害者面など許されない。ナハト自身がそんな生き方を選択した結果に過ぎない。マザーはそれを遵守させようとするのみだ。
今更、梶原ヘレナという光を見たところで、ナハトが目的のない愚か者であることには変わらない。容易に鎖は砕けない。
対してアルバ・ニコライは、自分ではない誰かのために生きることを選んだ。ソフィア・ニコライという少女が望んだ平穏を取り戻すためならどんな不道徳も意に介さない、これもまた一人の悪党である。アルバ自身に内から芽生えた願いなどなく、生きる目的は「ソフィアを救う」というひどく反応的なものである。
どれだけ強く願っても、アルバの生存理由は他人から生じたものであり、失ってしまえば、残ったものは卓越した殺人技術だけ。
ナハトをも凌駕する空虚な存在へと堕ちるだろう。生きる屍とはまさにアルバのことであり、心臓だけが動き続ける生き地獄に未だ残されている。
目的のないナハトと、目的しかないアルバ。
二人の協力は、それこそ本能のレベルで生じた食い違いによって、率直にナンセンスな絵空事だ。
生に対するスタンスが異なる、二人。自覚無自覚に関わらず、彼らは違っている。
故に、今宵行われた二人の取引は、その不和と直面することとなる。
◆
「ソフィア……というのは、イヴを取り込んだ妹のことか?」
「そうだ。<母殺し>があれば、ソフィアを救い出すことができた……! だったらもう一度……」
アルバはナハトの質問に答えつつも、独り言のように言う。やっと見つけた打開策に藁をもつかむ思いだ。
「待て、一度イヴにそれを使ったんだろう? なら、どうしてそれは失敗に終わった。現にお前の妹は救えていない」
「……それは」
「そこをはっきりさせないと同じ事がまた起こる。ハワード・フィッシャーはあの時何をした?」
ナハトの指摘は尤もだ。アルバが起こした反抗は、<母殺し>を命中させたことですでに達成されたはずだった。それなのに状況は全く好転していない。むしろ、ソフィアの肉体が滅びたことで希望が消えかけた。
「ハワードは、イヴに──死ねと命じた」
「となると、ハワードは初めから人心核イヴの更新が目的でロサンゼルス基地に来たことになる。お前が<母殺し>を撃とうと、関係なかったんだ。ハワードは元々お前の妹の肉体を滅ぼすことで、イヴの基本プログラムを変更した」
「……っ!」
「やはり結論は同じ、ハワード・フィッシャーを殺さなければ、また同じようにイヴの身体が別の誰かに代わるだけだ」
◆
現状の共有はほぼ終わった。ナハトもアルバもするべきことを確認した。では、手を取り合って邁進しよう、とは──。
「おい、アルバ・ニコライ」
ならない。
ナハトは決して忘れてはいない。人体模倣研究所でアルバからされた仕打ちを。命すら狙われた事実を。復讐に燃えるというのなら、アルバも例外ではない。ここに、あの日アルバによって惨めに這いつくばった時間を巻き戻そうとした。
「お前は俺を使ってやると言ったな。立場をわきまえろ。俺がお前を使うんだ」
二人の目標は同じ。チームとなる。であるならば、リーダーを決めなくてはならない。
「その平凡な脳みそで考えろ。お前はただの格闘術に優れた人間だ。ただ、それだけでハワードには勝てない。勝てなかった。奴に一矢報いるには心を読まれない、俺が必要だ。違うか?」
「なにが言いたい?」
ナハトはうずく銃創を意識せず、強い言葉を取り消さない。
「上下関係をはっきりさせておこうと思ってな」
アルバは無表情のままナハトに近づき、ナハトの首を掴み、フェンスに押し当てた。ガシャンと、揺れる鉄線。
月の光は彼らだけを照らしているようだった。
「つけあがるな、死にたいのか?」
「俺を殺してみろ。お前はハワードに勝てない」
「だったらお前は奴を殺せるのか? 基地であの無様を晒したお前が何を言ったところで!」
「それは……」
ナハトは目の前にあるアルバの顔目掛けて、頭突きをした。
「お前もだろうが!」
「つっ!」思わずのけぞるアルバ。ナハトは負傷した身体を無理やり動かして、殺人の天才に立ち向かう。
どうして今──これから手を取り合おうという仲間との軋轢を生もうとするのか。
否、だからこそ、とナハトは思う。
おそらく自分たちを待ち受ける戦いは、半端な連携では乗り越えられない災禍となる。ここが最後の絶望だと言い聞かせたところで、敵はさらに底を見せてくる。
だが、今度は一人じゃない。ナハトにとってアルバの戦闘力は必要だ。
本当に協力し合うには、きっと──嘘をつかないことが必要であると直感した。
今まで多くの嘘を垂れ流してきた小悪党は、こんな方法でしか人と真摯に向き合えない。それでも、これは必要な儀式のはずだから。
「妹のために? 家族を取り戻す? それが生きる目的だ!? 笑えてくるぜ」
ナハトはぎこちない拳をアルバに向かって振るった。当然のようにひらりと躱したアルバ。ナハトは足払いを食らい、地面に顎をぶつけた。
──!
「おい、非人間。死にたいなら、そう言えよ」アルバは、ナハトの腕をつかみ、背中へとひねり上げた。銃創の傷口が開いた感触がある。
「ああ……! 何度だって言ってやる! お前は妹が助かればそれでいいと思っている。すると必然。自分のことはどうでもいいと、捨て鉢になる」
ナハトはアルバ・ニコライの半生を聞いた感想をそのまま口にした。
月で生まれ、妹のために足掻いた少年の道筋を聞いて、自分との差異をはっきりと意識した。
「気持ち悪いんだよ! 自分以外を目的に据えて、生きてなんの意味があるんだよ」
ナハトは人体模倣研究所で、ハリエット・スミスという女と出会った。彼女は戦闘機開発で人を救いたいと宣っていた。それはおそらくまごうことなき本心だった。ただ真っ直ぐに──自分の技術で人が幸せになると信じていた。
すると結果はどうだ。戦闘機は人を殺し、仲間を殺し、人体模倣研究所を破壊した。ナハトからすれば、自分以外の外側に目的を持ってしまったがために、現実との相違に苦しんだ。目的を果たせない道具は死ぬという。あの事件はハリエットの心を砕くのに十分だった。
──そう、生きる目的のある人間は脆い。目的が砕ければ、それは死を意味すると言っても過言ではない。
「妹を救えればいいなら、お前はどうだ!? 自分はどうなってもいいと考えているだろう!」
「当たり前だ! 俺の命など、妹に捧げている!」
「お前本気で言っているのか!? アルバ・ニコライ! ハワード相手に、刺し違えてでも、なんて覚悟で勝てると思っているのか?」
目標は常に高く設定するものだ。そこに至れなくても、進むことに意味があるから。相打ちで望める結末などたかが知れていると、ナハトは告げる。
「本当にすべてを取り戻したいんだったら! いつかまた幸せになることを夢見ているんだったら! 生き残れ! 一方的にハワードを殺せ!」
犬死にするのは本人の勝手だ。むしろ利用した果てに息絶えて貰えれば好都合と言えるかもしれない。ただし、能力を発揮せずに駒が減るのは許せない。死ぬのはそれからでも遅くはない。
「……!」
ハワードを殺すため? 妹を助けるため? 馬鹿馬鹿しい。そんなことを生存目的に置くなど愚の骨頂。使命など始めから幻想だ。
──少なくとも、俺は幸せになるために生まれてきた。
「そんな腑抜けた覚悟なら、俺がお前を使ってやるって言ってんだ。俺の指示だけ聞いていろ」
地面を舐めるような姿勢のまま、ナハトは言った。
それを受けてアルバは──。
「調子に乗るなよ、人間の出来損ない」
ナハトの腕をつかみ、吊るしあげた。撃たれた傷口からこぼれる血液が床のコンクリートを濡らした。
「ただ生きること以外に目的のない愚か者にそんなことを言われる筋合いはない。誰かのために生きたいと願ったことすらない怪物が、わかったような口を聞くなよ」
「……今は、違う」
ナハトの声には、静かで確かな熱があった。ロボットでは表現できない極大の怒りを含めた表情。
「俺は梶原ヘレナを取り戻す」
「……今のイヴの宿主か……。お前、まさか!」
ナハトは、嘘をつかないと決めた。紀村ナハトとアルバ・ニコライは相容れない。
二人は、一つの肉体から二人の少女を救おうとしているのだから。
「そうだ、俺はお前の妹を押しのけて、梶原ヘレナを救いだす」
「させると思うか?」
「こればっかりはさせるさせないじゃないんだよ。わからないのか? <母殺し>をイヴに撃ち込んで、新たに選ばれる主人格は予想不可能だ。ヘレナかもしれないし、お前の妹かもしれない」
「……!」
「俺たちの目的は同じ、<キューティー>から<母殺し>を手に入れ、ハワードを殺し、イヴに<母殺し>を撃ち込む。そこから先は誰が選ばれるかわからない!」
すなわち。
「俺はお前を許さない。お前も俺を蔑んでも構わない。敵同士だ。だがな、俺たちの争いは、イヴの基本プログラムを更新しないと、決着がつかない」
イヴを破壊した果てに生まれるのは、ヘレナかソフィアか。はたまた別のなにかか──。
その瞬間までは共闘する。今はそれしかできない。
「……いいだろう」
アルバはナハトの腕を離した。地面に落ちるナハトを見下ろして言った。
「俺がソフィアを引っ張り出す。いいや、ソフィアになるまで<母殺し>を撃ち込むまでだ」
「させねえよ。ハワードを殺した後に、次はお前を殺してやる」
ナハトはアルバを睨みつけた。二人の少年は眼光を飛ばし合う。お互いの真の敵は目の前の男だと──それはつまり、ハワード・フィッシャーを倒した先を見ていることに他ならない。
協力関係とは間違っても言えない、それでも強固な利害関係がここに形成された。




