幕間 二人の負け犬
半年前、国連宙軍ロサンゼルス基地での襲撃直後。
アルバ・ニコライは基地への移動に使った自動車で、逃亡を図っていた。
人と兵器、設備の多くに打撃を受けた武の要塞は、悲鳴のようにサイレンを上げていた。衛生兵が駆け回り、外付けのスプリンクラーが忙しそうに回り狂う。死の瘴気が晴れた後に残ったものは、惨憺たる情景だけだった。
そんな戦場後を飛び出して逃げる二人。
アルバが用意した車の後部座席で、紀村ナハトはハワードから受けた銃創に喘いでいた。多量の出血が判断力を奪い、動物のように「痛い、痛い」と喚き散らしていた。とても、人体模倣研究所で起こしたテロに立ち向かった生き残りとは思えない、愚鈍で間抜けな無力な少年。
今はただ、無くしたものの大きさを確かめるばかりだ。
「ヘレナ……」
そんな様子を、運転席のアルバ・ニコライが舌打ち混じりに釘を刺した。
「喚くな、鬱陶しい」
アルバはそれでも嘆くなとは言わなかった。言えなかった。彼もナハトと同じくあの場で何もできなかった一人だったからだ。
アルバがナハトを拾ったのは、ハワードに打ち勝つために必要だから、ではない。これまで一人で戦ってきた。不屈の意志は、妹を失った現在も折れてはいない。それを失くしてしまえばそれこそ、ただの無為に生きる肉塊となる。今のアルバは、妹の救済を、復讐へとすり替えただけの、動く死体だった。ソフィアのいない世界で息をしている現状がなにより認められなかった。
生きる意味など、つい数時間前に砕かれている。それでも歩みを止められない自分が不気味なほどだった。
だからこそ、打ちひしがれるナハトが邪魔で、そして傍に置く価値があると判断したのだ。
──追っ手が来たら、こいつに罪を着せて逃げればいい。役に立つなら、使ってやる。
その車は、敗走のためだけに加速する。
◆
ナハトは服を引き裂いて用意した布切れで止血された肩と脚の傷をさすりながら、今後のことを考えていた。
アルバ・ニコライは何故か自分を助けた。「ハワードを殺す」という名目で、自分を協力者として扱おうというのか。少なくとも連れていかれる先は月面防衛戦線ではなさそうだ。
ナハトは、アルバが油断した隙に背中に弾丸を撃ち込んでしまう自信があった。人体模倣研究所でされた仕打ちを忘れてはいない。今は負傷中、従っておくには違いないが、ただ何も思わずに手放しで助け合える関係ではない。
そもそも、ハワードを殺すことは、ナハトにとって過程でしかない。ハワード・フィッシャーを葬ることは、ナハトの目的を達成するための手段だ。
大前提となる目標はヘレナの奪還。その道程で、あの怪人を轢殺する必要がある。
人心核イヴを取り込んだ彼女は、もはや梶原ヘレナという輪郭を失いつつあるだろう。ナハトも経験したオルガ・ブラウンとの同期は、恐ろしく痛烈でありながら、抗いがたい意識の混同が伴う。それこそ、<マザー>に邪魔されていなかったら、発狂していたかもしれない。それはもちろん、オルガの持つ密度が原因かもしれないが、同様の感触をヘレナも覚えたに違いない。
人心核に蓄えられてきた「誰か」の人格とミキサーにかけられならが堕ちていく。
では、これから取り戻すと誓ったヘレナの肉体は、そもそもとして誰なのか。
それは梶原ヘレナと言えるのか。ナハトの生きる意味を規定した彼女なのか。
「主人格を選びなおさなきゃいけない……」
ただ連れ戻すだけでは意味がない。梶原ヘレナと共に生きるには、「愛している」の続きを伝えるには、正真正銘のヘレナが必要だ。
「人心核の主人格を選びなおす方法を……」
探さなければならない。
そこで──運転席にいるアルバ・ニコライはポツリと呟いた。
「お前、人心核を知っているのか?」
◆
アルバ・ニコライは、紀村ナハトから聞きなれた、それでいて不吉な単語を聞いた。人体模倣で回る世界の中心にあるであろう技術の名を、言ったのだ。
聞き逃せるはずもない。アルバにとって、紀村ナハトは巻き込まれただけの哀れな男でしかなく、自分が罪を着せるには丁度いい具合の悪党で、非力なキャラクター。ハワードや狂信者が暗躍する世界の裏側とは何の関係もない、ただの被害者──のはずであった。
それがなぜ、人心核を知っている。
「……」ナハトは、アルバの問に答えない。
「なぜ、黙っている」
「お前らは……人心核のことをなんでも知っているんじゃないのか?」
「何のことだ? イヴをどうして知っているんだ?」
「それは……! ハワードがヘレナに人心核イヴを埋め込んだからだ。この目で見たんだよ」
「……!」
──俺が気絶していた間にそんなことが起きていたのか。……こいつとは情報を共有する必要があるな。
「紀村ナハト……人心核のことを知ったのは今日が初めてか?」
その質問を受けて、ナハトは。
「……なるほど」と呟いた。
◆
ナハトは、基地でハワードが起こした惨劇の細部を分析していた。これから戦う相手なのだ。小さな所作から情報を得なくてはならない。頭を動かせ、痛みを無視しろ。
──ハワード・フィッシャーは、俺を見て、オルガ・ブラウンを見出した。
『そこにいたのか、オルガ主任』
ならば、ハワードはあの瞬間に紀村ナハトが人心核アダムの後継者であることを知ったことになる。オルガ・ブラウンが人心核アダムの初代であると知っていた理由は分からない。その情報は、きっとナハトの中にあるのかもしれないが、ナハトはオルガの記憶を閲覧することはできない。<マザー>の妨害に遭い、人間オルガの生涯の全てを追体験することはできなかった。わかっていることは、オルガはヒューマテクニカ社に勤めていたこと、人心核を生み出したこと、そして梶原奈義に基本プログラムを破壊されたこと、のみだ。
そこから、導き出されることは、月面防衛戦線ハワード・フィッシャーは人心核アダムを脅威と見なしておらず、端的に興味がないということだ。
すなわちアルバが知っている人心核とは、イヴのことであり、人心核アダムが盤上にある駒だとすら思っていたなかったことになる。
まったく良くできたドラマだ。自分は巻き込まれるべくして、巻き込まれていると感じてならない。
──ハワードは、どうして俺を撃った? 撃った後に人心核だと確信した?
そこで導き出される結論は一つ。
かつて、自らの前世、オルガ・ブラウンは梶原奈義に殺された。道具として存在を奪われた。
人間オルガの模倣を暴かれたことで、基本プログラムは論理破綻に追い込まれた。
梶原奈義はどうして人心核を見破れたのか。記録によれば、梶原奈義は読心能力を持っているという。それはヘレナが言っていた「母への評価」にも付合する。
ヘレナは言った。
『母さんは人の考えを感じ取ることが人一倍得意だった』
この言葉がそのままの意味だったなら、読心能力は実在し、オルガ・ブラウンは梶原奈義に殺されたことになる。
──人の心が分かるなら、逆説、人でない者の心はわからない。
「ハワードは……読心能力者なのか?」
ナハトは、これから討つべき怨敵の能力が途方もないものに思えた。
梶原奈義と同等の怪人を、人心核アダムは相手取ることになるのだから。
◆
紀村ナハトは「なるほど」と呟いてから黙り込んだ。一人で思考しているナハトの様子にアルバは苛立ちを覚える。その後、ナハトは──。
ハワードが読心能力者と言った。
『声が聞こえるんだよ。君の心が叫んでいる。無念だと』
アルバは、かの怪人に不意打ちが通じないこと、格闘で勝てた試しがないこと、そして「心が読める」と堂々と言ってのけたこと、それらを思い返す。
人の心を読む。きっとそれはファンタジーでしかなく、研究者としての能力のあるアルバは、疑うことなく飲み込むことは到底できない。けれど、「ハワードに心が読まれている」と前提を置かなければ説明できないことばかりだったのだ。
紀村ナハトは、それを知っている。
お互いのピースを合わせなければ、完成しないパズルの全体像。
使い潰すだけだと認識していた負け犬、ナハト。
同じくハワードから敗北を期したアルバ・ニコライ。
アルバの孤独な復讐劇の登場人物は、ソフィア・ニコライとハワード・フィッシャーだけであった。
ここで、新たな役者が舞台にあがった。




