今までの話
紀村ナハトという明龍の工作員の名前をアーノルドは知っていた。
彼は合衆国立人体模倣研究所の戦闘機開発データを伝達する役目を担っていた。
重要なデータではあるが、明龍にとっては世界の兵器開発情勢を知る一つのオプションに過ぎなかった。
そして、その処遇は情報部7課という、明龍の中でも極秘性の高い組織に引き渡された。
アーノルドの管轄を離れた今、その後消息を絶ったという情報しか知らされていない。
情報部7課が関わっていることを除けば、工作員が行方不明になることは珍しくない。
だから、アーノルドにとっては、この場で出会った彼はまさに青天の霹靂だった。世界の真実にも似た深淵を除いた先に、この少年が待っていたことをただの偶然と断ずることは直感が許さない。
<神の代弁者>を中心に廻る、人の型に憑りつかれた狂った世界で、紀村ナハトはその当事者であると思えてならないのだ。
「アーノルド・パーマー」
年相応の青さの残る声。紀村ナハトはその名を呼んだ。
「ノイマン博士から聞いたこと、話してもらおうか」
「話したら、帰してくれるのかい?」
「それは次のステップの話題だ」
「返答次第ってことか?」
「……まあ、そんなところだ」
すでに怪物の腹の中にいるアーノルド。紀村ナハトの後ろに控えているアルバ・ニコライを一瞥した。彼の戦闘力を鑑みれば、アーノルドに選択肢はそう多く残されていない。
「わかったよ」
アーノルドは自身の頭を整理するように、訥々を語りだした。
技術レポートともに送られてきた招待状。そこに待っていたノイマン博士。人型に感応する重力偏極量子。それに狂わされたヒューマテクニカ社の職員たち。人心核と呼ばれる「なにか」を生み出したオルガ・ブラウンとハワード・フィッシャー。<神の代弁者>に見せられた狂信者たち。
そして、ノイマン博士を殺害に来た暗殺者たち。ハワード・フィッシャーによる狂信者狩りに遭ったノイマン博士。そして現れたアルバ・ニコライ。
アーノルドは覚えている限りのことを正確に話したつもりだった。
あまりに多くのことが起こった。
なぜ、自分は一夜にしてこんな状況に陥っているのか理不尽に思えてならない。どうしてだよと叫びたくなるのをじっと我慢してアーノルドは話終えた。
「で、ここに連れて来られた」
「そうか」
「…………」アーノルドはこの場の主導権を握っている紀村ナハトの様子を窺う。
「………………」黙り込む彼。嘘は言っていない。生殺与奪を握られて生きた心地がない時間が数秒。
そして──。
「ふざけるなよ、狂信者ども…………」
彼は怒っていた。地の底から這い出るような声音が何よりも憤りを表している。
「アイツらが、やっぱりそうか。俺に埋め込んだのか……」
「埋め込んだ?」
呟いた内容をオウム返しにするアーノルド。意味が分からない一方で、この少年も被害者の一人であることは理解できた。
では、何の被害者だと言うのか。オルガ・ブラウンとハワード・フィッシャーか。<キューティー>か。それとも、人体模倣が蔓延るこの世界そのものか。
きっと、それは全部正解で──。その小さな身体には抱えきれないほどの情動が渦巻いていた。
「はははは」
とナハトの隣にいたアルバ・ニコライが笑い出した。きょとんするしかないアーノルドは、アルバの言葉を待った。
「……」
「ああ、こいつな」とナハトを指を差した。「人間じゃないんだよ」愉快に笑うアルバにナハトは舌打ちをついた。
「<神の代弁者>を利用した発明の一つ、人工の脳みそ。機械仕掛けの寄生虫。人心核って聞いたろ?」
「ああ…………ってまさか」
「そう、こいつは狂信者にソレを埋め込まれた可哀想な奴ってわけだ」
「…………!!」
ナハトは流石に黙っていられず、アルバに言った。
「お前は黙っていろよ」
「なんだ? 事実を言われて頭にきたか? 非人間」
「お前ひとりで奴が殺せるのか?」
「こっちの台詞だ。モヤシ野郎」
突如発生した剣呑なやり取りに、アーノルドは口をはさんだ。
「ちょっと! まって! お前らで喧嘩するなよな! それにそんな重要そうな情報をさらっと伝えないでくれ! もう何がなんだか……」
頭を抱える中年男性は、泣きそうな表情で懇願した。
「僕にもうこれ以上、情報を与えないでくれ! たくさんだ! 知りたくない! これ以上は関わりたくないんだ!」
ナハトは打ちのめされたアーノルドの様子を見てから「人心核というのは二つあって、片方はハワードの手元にあってだな」と意地悪に続けた。
「やめろって言ってるだろ!」
ここまでのやり取りでわかったことは、紀村ナハトとアルバ・ニコライは強い絆で結ばれているわけでないが、暫定的な協力関係を築いているらしいことだ。さらに言うと、二人とも似た者同士でプライドが高く、不遜で、──端的に性格が悪い。
◆
ナハトは、自分の起源をあっさりと知った。オルガ・ブラウンがノイマン博士に重力偏極量子を発見させ、その技術を応用して人心核を生み出した。オルガは死に、<キューティー>がオルガの遺言を興味本位で実行に移した。かくして、紀村ナハトは非人間<人心核>になったという運びだ。
狂信者たちの行動が、ナハトを現状まで追い込んだ。本来であれば、日本で普通の学生であったかもしれないのに──。
──本当に?
人心核アダムでない自分なら、人の心が分かり、友と家族と、隣人とささやかに暮らせていたと。そう言うのか? そもそもとしてそれを望んでいるのか?
人心核がない紀村ナハトがどんな人物であったか、誰も知らないというのに。その「もしも」を明確にしない限り、<キューティー>への怒りは全く無為なものになる。本来の姿を想定し、現状を否定しなければそんな憤怒など生まれてこないはずだから。
元々自分はこんなやつだったのかもしれないと思うと、あらゆる前提が壊れてしまう。オリジナルのナハトと怪物ナハトはそんなに違わないのだとしたら。
それは、不思議と──絶望的な問ではないと感じる自らを発見した。ナハトは先生と出会わなければよかったとは思えない。ヘレナと出会わなければよかったとは──思えない。
地続きにある現在を少年は受け入れていた。
咄嗟に沸いた疑問を振り払い、ナハトは続けた。
「ここで、本題だが梶原ヘレナという戦士の名前を知っているか?」
「…………!」アーノルドは息をのんだ。
「明龍の戦士。梶原奈義に引き取られた月面防衛戦線の生き残りだ」
「君がなぜそれを」
「知りたいか?」
「それは────」
この男は先ほど、知りたくないと言った。駄々をこねる子供のように、引き返したいと切に願った。
故に、この質問は彼の進退を自ら決定づけるものとなる。
ここから先は自己責任だと、ナハトは強く迫った。
「知りたいなら教えてやる」
◆
「ヘレナは……ヘレナ・フィッシャーという娘は、梶原奈義が見つけ、僕が操縦していた小型艦に乗って、明龍まで運ばれました。あの娘は、梶原奈義に育てられ、戦士になった……」
アーノルドの瞳に強い力が宿った。
「ヘレナは、君たちの企てに何か関係があるのか? 彼女は今、どこにいる?」
梶原ヘレナは、明龍情報部7課の作戦に参加しているはずだった。それは現在も継続中。管轄が同じなら紀村ナハトと繋がっていてもおかしくはない。アーノルドの中で想像の糸が結合されていくようだった。偶然に導かれながらも、この場にいる自分に意味があるかもしれないと、思い始めていた。
──救世の英雄、否、あのただ優しく強い人。梶原中尉がもし、今も世界のどこかにいるならば。
きっと、無関係ではないはず。
そんな直感が彼を動かした。
「教えてくれ。なぜ君たちが梶原ヘレナを知っているのか」
「…………これを話したら、お前は俺たちに協力する。約束できるか?」
──!!
これが取引ならば、自然な流れだ。暴力に屈するでもない、世界の真実に慄くのでもない。ただ、もう一度梶原奈義に立ち上がってもらえるなら。
「わかったよ。何ができるかわからないけれど、協力しよう」
◆
明龍情報部7課の作戦。梶原ヘレナを地球に派遣し、人体模倣研究所に潜入させた。人心核の捜索を経て、ヘレナはナハトと出会った。同時に月面防衛戦線のテロに研究所は崩壊。国連宙軍に身柄を確保された二人。しかし、予め潜入していたハワード・フィッシャーにより、基地は崩壊。
その場にいたアルバとナハトは負傷。ヘレナは人心核イヴを取り込み、月面防衛戦線に取り込まれた。
これが、ヘレナが歩んだ道程であり、彼らが辿ってきた物語だった。
「そして、俺たちはハワード・フィッシャーを打倒するべく、協力関係を結んだ」とアルバは締めくくった。犬猿の仲のようで、面白くない様子であったが、一応は仲間と思っているのかもしれない。
そしてアーノルドは──。
「そんなことが…………」
言葉を失っていた。二つある人心核の片方をヘレナが取り込んだという事実。そして今は、世界の敵、月面防衛戦線の戦士であること。それではあまりにも──。
「梶原中尉が報われない」
「そう思うなら、やることは一つだ」ナハトはにやりと笑った。
「明龍を出し抜け。奴らを利用し、ハワードを殺す」
◆
アーノルドは、一通りナハトからの指示と今後の流れを聞き、「確かに自分ならできる」と納得したところで、益体もない会話を切り出した。
「紀村ナハト」
「なんだ」
「アルバ・ニコライからは色々と言われていたようだけれど、なんだか僕が思うに──」
アーノルドは気分を害するか探るように言った。
「君は人間だろう?」
「──」
「いや、信じられないんだよ。オルガ・ブラウンが生み出した人体模倣の結晶体、機械仕掛けの寄生虫だと聞いてみれば、どんな人間離れした存在かって思っていた。けれど、人心核とやらを埋め込まれたからと言って、君には感情がある。怒りもするし、誰かを求める気持ちだってある。小難しい言葉を並べたところで、それはなんだか──普通だ」
「ふうん」
「なんだよ」
「明龍にはお前みたいな奴が多いのか?」
「僕みたいなってどういう意味だ?」
「…………」ナハトは少し黙ってから。
「バカってことだよ」
と素気なく言った。




