誘惑という甘い嘘
次の日、朝八時の駅は、多くの人は足早に通り過ぎる。
普段と変わらない。
奈義は無人タクシーの中で音楽を聞いていた。
イヤホンから伝わるメタルロックの爆音は、とても優雅な朝には似合わない。
しかし、こうでもしないと彼女は頭がおかしくなりそうだった。
『午前中は、……のところへ納品して……午後は……』と考えるビジネスマン。
『今朝は妻の機嫌が悪い……なぜだ』と考えるレストラン店長。
『レポート出さなきゃ……』と考える専門学校生。
あらゆる考えと言葉があつまり、意味を成さずに独立に回転する。単語と単語が繋がらず、かといって譲り合わずにそれぞれがぶつかって空中分解する。
無秩序と混沌だけが彼女の頭を駆け巡った。
意味を汲み取ろうとしたら、雑音に意識ごと流されてしまう。
そうまでして、朝の駅前まで来たのは理由があった。
無尽蔵に溢れ出るノイズの中そのとき彼女は確かに聞いた。
『梶原に勝つには……』
彼女の名前をつぶやく『声』は小さく、それでもしっかりと彼女に届いた。奈義はイヤホンをはずした。
「六分儀くんだ。お願い、あの通りの向こう、コンビニの近くに男の子がいるでしょう。彼を拾って」
タクシーはその命令に従い発進した。
今日から朝は彼と登校することにしていた。
彼のバイクの修理が終わるまでの約束――それが彼女にとっては大切なことだった。
好きな男の子と一緒に登校。
それだけでただ事ではないのだ。
ぶつぶつと考え事している。
彼が歩く歩道にぴったりタクシーは停車した。
彼の顔が上がると、車内の奈義と目が合った。
自動でタクシーのドアが開いた。
「おはよう」彼女は努めて笑った。
「おはよう」彼も普段通りに応じた。
彼は「悪いな」と小さく礼を言って車内に乗り込んだ。
タクシーは発車する。
「昨日はどうやって帰ったの?」
「歩いて」
短く答える彼は流れる外の景色を見ていた。
駅から遠ざかるにつれて、彼女の頭に雑音が届かなくなる。
そこで鮮明に聞こえてくるのは彼の『声』。
浮き彫りになるように、はっきりと彼女に届いた。
『梶原に勝つには……何が足りない?』
彼は押し黙っているが、脳内で活発に議論されている内容のほとんどはそれだ。
奈義はいつも知っていた。彼女が彼に勝つたびに、この思考を繰り返すことを。
それでも、奈義にだって「六分儀学が梶原奈義に勝つには」という命題に答えを出すことができない。
なぜなら奈義自身どう想像しても彼に負けるヴィジョンが浮かばないのだ。
彼がどれだけ努力しようとも、工夫しようとも、奈義はそれが披露されるより前に知り、対策できてしまう。
――六分儀君と私は同じ操縦法……。アシストを受けずにすべて自分で操縦する技法を、六分儀君と私は身に付けている。操縦技術は同等のはず。
ならば、二人の縮まらない差は奈義の持つ能力によるものに他ならない。
加えて、奈義はわざと負ける選択肢を選べない。それはどこまでも彼を貶める最低の愚行に思えるのだ。
以上の事情から、六分儀学は梶原奈義に勝つことはない。彼らの実力差はそう定義されたように縮まらない。
タクシーは無言の二人を乗せたまま、太陽光パネルがはびこる一本道まで来ていた。
もう施設は近い。
降り積もる沈黙を払うように彼女はラジオを付けた。
『……座の君、今日の恋愛運は最高! 気になるあの子にアタックしてみよう! きっといい答えが返ってくるはずだ!』
陽気なパーソナリティの声が、車内には似合わない。
それでも彼女はその騒がしさにすがっていたかった。
車は走る。しかし奈義はもう研究所に行きたい気持ちなどではなかった。
今も彼の頭の中では『次はジャイロの感度を変えて……』『予想着弾軌道の計算法の変更を……』とか、今日の演習で実行する工夫を考えていた。
その中である程度の答えがでたところで、彼はラジオの音楽を無視して、奈義に言った。
「梶原、次は負けないからな」
◆
その日、奈義は気分が悪くなり、医務室のベッドを借りて横になっていた。
「学くんは……どうして私に勝とうとするの?」
その独り言は毛布に押し潰されて彼女以外には聞こえない。
それだけに彼女の内側でぐるぐると回った。
できないことを無理にする必要はない。自分に勝てないなら、勝てないなりに諦めてほしかった。
――諦めてほしいの? 私。
ふと沸いた自問に彼女は面食らった。
六分儀学は梶原奈義に勝つことを諦めるだろうか。それができる彼だろうか。
違う。彼にはそれはできない。
そして何より前提が矛盾していた。
奈義はそんな風にまっすぐな六分儀学だから、好きになったのではなかったか。
そんなことを考えていたら、自己嫌悪の海におぼれてしまいそうになる。
今は戦闘機に乗りたくない。彼女は毛布にくるまり睡眠が意識をさらってくれるのをじっと待った。
そこで、聞き覚えのある、不快な声がした。
「やあ、こんにちは。梶原奈義」
心臓が跳ねるほど驚いた。けれど悲鳴が出るのを必死に堪えた。
声の主に弱さを見せることを避けたかった。
すぐにオルガだと分かった。
奈義は人が近づいてくるときは、その人物が声を出さなくても足音を立てなくても、『声』がするからわかる。
彼女に不意打ちは通じない。
しかし、オルガは例外だ。
奈義にとっては口にするのも恐ろしい認めがたい異常事態であるが――この老人から『声』は聞こえない。
「演習をサボタージュするのは、君へ期待する立場として、見過ごせないな」
「だったら、期待も投資もやめちゃえばいいんです」彼女は、毛布から顔を出さずに、そっけなく答えた。
「それはできない」老人は、椅子に腰を掛けた。
「テストパイロットの募集試験を思いだしてほしい。どれほどの人間が振るいに掛けられ、今の三十四人に絞られたか。君はあらゆるプロフェッショナルを含めた二四六五人の中から選ばれた」
訥々と語るオルガに、彼女は嫌気がさしていた。
今はそんなことは重要じゃない。
奈義は自らの希少性を好きになれない。
科学の発展にどれだけ自分が重要であるか、それすら理解するつもりもない。
そもそも彼女がテストパイロットを志願した理由は、金のためである。
奈義の幼少期――それは、軍人であった父との二人家族。仕事で難病を患った父とのささやかな暮らしだった。
父と暮らすため、奈義には金が必要だった。
奈義が人体模倣研究所で勤めて半年後、虚しくも父は他界した。
だから、奈義が今この施設にいる理由は、自らの生活のため、または六分儀学がいるからに他ならない。
決して人を真似する機械の進化のためなどではない。
彼女はいつだって、身近にいる手の届く本物の隣人を愛してきたのだ。
大いなる力を持つが、小さなスケールで生きる少女、梶原奈義。
その姿勢をオルガは決して許しはしない。
「悩みがあるなら聞こうか?」
老人は歌でも歌うように囁いた。
オルガへの警戒心は消えない。相変わらず心が読めない。それがこんなに不気味なことなんて、想像できなかった。
奈義は黙るしかなかった。
しかしその沈黙が「悩みはあるのか」という含まれた質問にイエスと答えていた。
オルガは笑った。
「六分儀学のことか?」
彼女の心臓は、大きく鳴った。毛布から顔を上げる奈義。言い当てられた衝撃は、身体の動きに出ていた。
「わかりやすいな。まだ若い証拠だ」
張り付いた優しい笑みは傍から見ればいい相談役そのものだろう。けれど奈義にはそれがオルガの攻撃姿勢に思えてならなかった。
「彼のことが好きなのだろう?」
老人の囁きは、深淵から響くようだった。
「しかし、彼は振り向いてくれない。君を女性とは見てくれない」
用意していたセリフを披露するかのように、オルガは言う。
「ああ、苦しいな。それでは、演習にも身がはいらないだろう。可哀そうに」
不敵な笑みは、
「ここで、解決策を提案しよう」
彼女の心を逆撫でた。
「一度でいい。六分儀学と戦い、わざと負けてあげなさい。そうすれば、彼は君を見てくれるはずだ」