エピローグ 彼だけの気持ち
白いベッドと脇のラックにおかれた文庫本。締め切った窓の向こうは風が木々を揺らしている。マットレスに横たわるだけの生活はやけに永く感じられた。景色は変わらず照明の明暗だけが移り行く単調な一日。
ハリエット・スミスは病室のベッドでなにを考えるわけでもなく、天井を見つめていた。個室ではないが、他のベッドは空いていた。
頭を働かせると、十日前の景色がフラッシュバックする。見たくない光景が思い出される。叫びだしてしまうほどの負荷が彼女の心に刃を向けるのだ。何も考えない。それが今のハリエットができる唯一の防衛手段だった。
簡易診察の時間になると、「看護婦」が病室を訪れる。ハリエットは目だけを動かして時計を見た。そろそろかな、と単調に呟いた。否、呟いていないかもしれない。彼女は言葉を発する機会がなく、独り言と考えの境界が曖昧になっていた。
予想は当たり、ポンと「open」のランプが灯り自動ドアが無音で開いた。
一人の看護婦が部屋に入ってきた。
『お身体の調子はどうですか?』
「…………」ハリエットは沈黙した。
『なにかあったら何でも申し付けて下さいね』
優しい口調で看護婦は言うが、慰めにはならないとハリエットは知っていた。
この世界は人体模倣の王国だ。医療の現場は当の昔に人型ロボットの領分となった。
生身の人間は医師と「看護婦たち」の管理者だけである。
ただ、人体模倣は人の心を癒さないと結論付けることは乱暴だ。今の言葉を生身の人間が言ったとしても、ハリエットの気持ちを理解できたとは思えない。
ハリエットは孤独だった。
◆
十日前、彼女の職場はテロに遭った。百人弱の死傷者が出た大事件だ。各報道機関は、直前に起きた軍事衛星<マルス>への襲撃と関連付けて、月面防衛戦線の復活を危惧していた。
ハリエットは病院のロビーのモニターで見た知識しかないが、どうにも興味が湧かない。ある意味被害者当人であるにも関わらず、関心がないのはどういうわけだ。
彼女はこの感情を「諦め」なのだろうと、客観的に考えた。
自分がなにをしても世界は変わらない。どんなに理想を掲げたところで、彼女はたった一人の少年の心に寄り添うことすら出来ない無力な技術者だったのだ。
人の気持ちがわからない。
彼女が放った言葉。ハリエットは少年の心を砕いたと同時に、その破片で、自らの心にも致命傷を負っていた。
ならば、自分はわかるのか。
自分に善悪を決める権利はあるのか。
彼女はもはや何もわからなくなったいた。
あの日、マイク・ドノヴァンという人物に助けられた。彼は少なくともハリエットよりも人の気持ちが理解できているようだった。
救出されたハリエットは救急隊に引き渡され、マイク・ドノヴァンとは別れた。彼と会うことはまたあるだろうか。機会があれば聞いてみたいと思う。
「あなたなら、人の気持ちがわかりますか」
◆
「誰に話かけてるの?」
天井に向かって溢した独り言に反応する声がした。少年か少女か判別できない高い声が鈴のように鳴った。
ハリエットは身体を起こした。
そこには、車椅子に乗った髪の長い子供がいた。訝しむようにハリエットを見つめる瞳は、水晶のようだった。
「あなた誰?」
「僕はアーサー。今日から入院するんだ」
「私は…………」
自分の名前を思い出すまでに時間があった。長い間「人間」と話していなかったからだろうか。普段の彼女なら暑苦しいほどの元気で応じているだろう。
「ハリエット」
「今日からよろしく」
──そう言えば、僕って。
「あなた、男の子なの?」
「そうだよ! 悪いかよ」
「いや……気分を悪くしたなら謝る。ごめん」
沈んだハリエットに内心困りながら、アーサーは話題を切り出した。
「お姉さんはどうして入院しているの?」
「私は……火事に遭ってね。職場が燃えちゃったの」
救急搬送の直後は、炭酸ガスによる中毒症状で意識を失っていたがそれも回復した。退院は近い。今あるのは心の傷だ。
あの日、機械化歩兵を倒しながら勇敢に戦ったハリエット・スミスの影は今はない。
アーサーはそれを「ふーん」と受け流して、
「そう……僕は交通事故で、足が動かなくなったんだ」
落ち込むわけでもなく淡々と言った。
心理的な負担はないのかもしれない。ツいてない、その程度の認識のようだった。
彼は自分で車椅子をベッドまで移動し、備え付けのアームから伸びるベルトを腰に引っかけた。自動で持ち上がり、ベッドに寝る少年。
ハリエットと向かい合わせのため、視線が合う。彼女は何故だか少年を直視できなかった。ゆっくりと目を閉じた。
数分の沈黙のあと、病室に一人の男が入ってきた。
◆
「あ、父さん」
アーサーは男をそう呼び、寝ていた身体を起こした。
「アーサー、寝たままでいいぞ。元気か?」
何気ない会話。耳だけで聞いたハリエットは薄目で、アーサーの父親を見た。
────!!!
彼女は目を疑った。
あり得ない。否、あり得ないことはないのか。でも、どうして。疑問符と驚愕の嵐に、ハリエットは聞かざるを得なかった。
「マイク・ドノヴァン! どうしてあんたがここに!?」
男はアーサーの頭を撫でながら、振り向きハリエットを見た。
その顔はまさしくあの日、ハリエットを救った人物のそれだ。間違えるはずもない。
聞きたいことが山ほどある。孤独と向き合う鍵は彼が持っていると確信があったのだ。
止まった時間を動かしてほしい。話を聞いてほしい。ハリエットは矢継ぎ早に問い詰めた。
「あのあとどうなった?! ナハトは?! アルバは生きているのか?」
──そして、私はこれから何をすればいい?
しかし、男は。
「誰かと勘違いしているのでは? 私はマイク・ドノヴァンではないし、「あのあと」と言われてもなんのことだがわからない。私は貴女に遭ったことがない」
──え。
ハリエットは梯子を外されたような気分だった。
他人の空似というやつだろう。それほど彼女はマイク・ドノヴァンを求めていたのかもしれない。
◆
少年、アーサー・ガルシアの父、ジョンソン・ガルシアは確かにマイク・ドノヴァンとは別人だった。彼は息子とハグをして病室を後にした。
──話してみて嘘はなかった、と思う。
ハリエットはあの男の存在自体幻だったのではないかと、思っていた矢先、アーサーに話かけられた。
「父さん、誰かに似ていた?」
「え……ああ。私の命の恩人……かな」
「へえ。珍しいこともあるんだね」
「お母さんはお仕事?」
「死んだよ。僕と一緒の車に乗ってて、僕は大怪我。お母さんは死んだ」
あっさりとアーサーは言った。
「…………」
「何でしんみりするんだよ。僕のことだろう?」
「いや、だって……」
「お姉さんもそう言うんだ……!」
「そうって……どういう意味?」
「僕にもっと悲しめって言うんだろ? 薄情だって! 人の心がないって!」
──人の心。
「僕にだってわからないんだ。実感が湧かないんだ。お母さんは大好きだったはずなのに、涙が……」
アーサーの顔はあまりに悲痛で、ハリエットは自分が裁いた少年の顔と重ねていた。
「涙が出ないんだ」
「…………」
二人の間には、確かな壁があった。別々の悲劇を抱える違う人間。当然ながら、同じ心は持ち得ない。
それでも、病室に二人だけが存在したいた。
◆
その夜、寝静まった病院で、ハリエットは寝付けずにいた。
代わり映えのしない病院生活で、今日は変化があったからだ。
マイク・ドノヴァンにもう一度会いたいと、願い続けていた行き場のない心に別の風が吹こうとしていた。
「ねえ」
暗闇からアーサーの声がした。
「起きてる?」
「起きてるよ」とハリエットは応じた。
「昼間は怒鳴ってごめんなさい」
「いいよ、別に」
それだけを言うために声をかけたのだろうか。ハリエットは小さな友人と話がしたくなった。
「君のお父さんは、その……君がお母さんのことを悲しめないのを責めたりしたのか?」
「ううん、そう言ったのは僕の友達。親が死んだのに、涙ひとつ流せないなんておかしいってさ」
「……」
「でもね、お父さんはこう言ったんだ。お前はお前のペースで悲しめばいいって。自分の心は自分で決めていいんだって」
────!
「だから、僕は泣けない自分を恥じたりしない。共感してほしいとも思わない。僕の悲しい気持ちは僕だけのものだ。誰にも渡さない」
いつか本当に泣きたくなったときに思い切り泣いてやるんだ、とアーサーは付け足して笑った。
ハリエットは孤独だった。人の気持ちがわからないことが苦しかった。誰かに理解してほしかった。
しかし、この少年は共感を拒んでいた。自らの輪郭を手離さないことを「孤独」と名付けていた。
愛や絆だけではたどり着けない誇り高い自己を、孤独と──。
ハリエットは受け取った。
この出会いは、人心核を取り巻く物語に影響しない。
世界の隅で起こった小さな出来事。
二人だけの秘密。
ただ、それでも。
ハリエットから、マイク・ドノヴァンに会いたいという気持ちは、不思議なことに跡形もなく消えていた。
Howard Fisher, the lover of bonds, the end
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