産声
絶対に助けに来ないで。
イヴは自分でそう言っておきながらその真意を理解できてはいなかった。表面上の意味ならわかる。紀村ナハトを拒絶する言葉。絆の戦士たちの結束は強固で、そこに紀村ナハトという不純物など入る余地などない。だから、無駄だと──。
梶原ヘレナを助けることなど無駄だから諦めろと。
そんな意味だとイヴという総体は理解していた。
しかし、なぜだろう。目の前の少年は諦めるどころか、闘志を燃やし続けている。深手を負ってなお立ち上がろうともがいている。
「絶対に助ける……! 待っていろ、ヘレナ……」
それが不思議で仕方がない。
ハワードは、人心核は人の気持ちがわからないと言った。
ならばこの少年の願望も理解できなくて当然だ。イヴに蓄えられた人格の中に参考になる情熱はない。
ただイヴは、ヘレナの本心から見つけた言葉を口にしただけ。
月から湧き出る怒りの濁流に飲まれる寸前に、ヘレナ・フィッシャーが抱いた気持ち。断末魔である。
──大嫌い。会いたくない。助けに来ないで。
「まあ、そういうことよ」
イヴにはもはや興味がなかった。梶原ヘレナとしての人格は既に沈んだ。あるのは群として主人格に座する絆の戦士たちだけだ。100分の1に希釈されたヘレナの気持ちはマザーにだって救えない。
ゆえに、この場にいる全員がイヴの言葉の意味を真に理解していなかった。梶原ヘレナが最後に残したメッセージを。
◆
「逃げよう。ヘレナ」
「ええ、ハワード」
依然として紀村ナハトは梶原ヘレナという肉体に向かって大声で呼び掛けている。肩を撃たれた悲鳴にも劣らない声量で、なにかよくわからないことを叫んでいる。
イヴはそれに無頓着に遠ざかろうとした。殺してもいい。目障りだし耳障りだ。けれど何故だか溢れる涙が止まらない。
紀村ナハトという少年に呼応するかのように、こぼれ落ちる雫。イヴはそれが鬱陶しくてたまらない。
この少年のをここで殺せば、この症状は治まるだろうか。
否、逆効果だと直感が主張する。
故に、イヴに与えられた、紀村ナハトの生殺与奪の権利を使い、言った。
「ハワード、こいつは殺さないでおくわ」
「ほう、それはどうして?」
「わからない……。でも、なんだかその方が戦いやすいと思う」
ハワードはそれを受け、見たこともない表情をした。見たこともない、そう、この場では笑顔と感動の泣き顔しか見せなかった男が初めてそれを歪ませた。
唾棄すべき汚物を舐めるがごとく、煮詰めた糞尿を飲み干すがごとく、胸糞の悪そうな顔を浮かべたのだ。
舌打ちを一つして、ハワードは「そうか」とだけ言い、歩き出した。
この場にはもう価値あることは起きないと確信した無関心の態度。
イヴは当然その反応の理由はわからない。イヴが人の気持ちに対して理解できることなどない。それは自身が一番よく判っている。それは慮ることに対する諦めにも近い。
ハワードは人心核イヴは道具であると断じている。
ならば、イヴは役目を果たすだけだ。
基本プログラムに従い、最強の戦士を打倒するだけなのだ。
二人は破壊されずに残った二機の戦闘機にそれぞれ乗り込んだ。セキュリティは既に解除されている。
飛び立つ二つの巨人は、紀村ナハトとアルバ・ニコライを残してこの場を去る。
勝敗は明確だ。命さえ取らなかったが、月面防衛戦線はこの日確かに勝利した。
それがどんな未来をもたらすのか。知る者はいない。
ただ、胸を抉られたソフィア・ニコライ、悪魔の魂が抜けた死体の顔は、やけに安らかだった。
◆
『第四格納庫より戦闘機が出動しています! データリンクが接続不可であるためテロリストが搭乗している可能性が高いです』
『セキュリティはどうなっているんだ! 内通者がいたとでもいたというのか!』
『出動してください! 敵を捕らえる最後の機会です! 市街地に逃走されれば被害が拡大します』
学は<SE-X>を撃破し格納庫に帰還、戦闘機から降りていたが、突如オペレーターの荒げた声を聴いた。そこにいた多くの者が再び緊急事態であることを認識し、せわしなく走り出していた。状況はまだ終了していない。
『二機の<ハミングバード>です! 戦闘機部隊は出撃を!』
「まだ……続けるのか……月面防衛戦線」
学も先ほどまで乗っていた<スザク>の下へ向かう。数分前の戦いで消費した推進剤の補充は十分はない。それすら関係ない。事態は急を要する。ロサンゼルス基地の事件は最終局面に突入しようとしていた。
補給管やケーブルが繋がれた機体に乗り込み、システムを再び立ち上げる。操縦補助機構はオフに、脳はクリアに染み渡る。戦闘機の一部へと肉体が溶けていく。
整備士がカメラの端で出撃可能のサインを送る。学は前を向いた。
すでに、5機ほど機体が出撃しているらしい。後を追う形で彼も戦場に向かう。
『待って! 大佐!』
そこで、戦闘機の足元に白衣姿の人物が飛び出してきた。
彼は整備士たちに怒鳴られ腰を掴まれていたが、そんな制止を振りほどき学になにかを伝えようとしていた。
吹きすさぶ熱風に髪と白衣を揺らす彼は、福原研究員だった。
『大佐! プロテクトジェルを起動してください!』
「プロテクトジェル?」
『<スザク>に試験搭載した操縦者を保護する機構です! 応力によって硬化する特殊な樹脂分散ゲルです! それがあなたを守ります!』
「それを言いにきたのか……?」
『この事件は普通じゃない! あなたは失ってはいけない人だ!』
整備士から飛ぶ拳で福原の眼鏡が吹き飛んだ。
「わかったよ」学はディスプレイを操作してそれを起動した。
学の機体はカタパルトまで歩行した。決死のメッセージを届けた小さな男を残して彼は出撃する。
「逃さんぞ、テロリスト」
人類秩序を守る神鳥<スザク>は飛び立った。
◆
人心核イヴは戦闘機に乗ったとき、自分が生まれた意味を理解した気がした。
道具であること。人間ではないこと。
道具が人に至るためには意味を捨てなければいけないこと。
ルイス・キャルヴィンから梶原奈義が学び、梶原奈義がヘレナ・フィッシャーに与えた道具と人の在り方、その通念が今の人心核イヴには流れている。血液よりも濃い概念としての継承は、今、人心核という道具の手に渡った。
だから、イヴは──梶原ヘレナを得たことで、人体模倣の意味を理解した。
「ああ……私は……このために……」
『ヘレナ、敵が来る。迎撃しなさい』
淡々と命じる声は母のものではない。けれど同じ器を持つ怪人だ。人の心の在り処を知るヘレナにとっての父である。
「ええ、ハワード」
イヴが駆る機体は<ハミングバード>。10年以上前の前世代機体である。それでも戦闘機であることには変わらない。イヴの身体が、人型の巨人の心臓へとすり替わる。イヴは笑っていた。
300メートル離れた格納庫から出撃する機体は5機、国連宙軍の最新機<ターミガン>に乗ったエースたちが、空に解き放たれる。彼らの同調率は80を優に超える猛者たちだ。軍所属の戦士は伊達ではない。
イヴは軍事衛星<マルス>を破壊した時は、光学迷彩に頼ったため、直接の戦闘は回避できた。今は<神の代弁者>を持たない汎用機体。さらに敵に控えるはあの六分儀学だ。
人心核イヴに勝てる見込みはない。
だが、イヴは笑う。
予感がするのだ。
ここで、きっと──。
国連軍機の一つが、イヴに遠距離射撃を行う。彼女は弾道を予想できた。最小限の推進剤の消費で回避する。
続く二機のターミガンが、イヴとハワードが迫撃砲で射撃しながら接近してくる。ハワードは逃亡するための軌道を確保して、イヴは回避する。そして──。
超々合金ナイフを取り出し、一機に急接近し、操縦席を串刺しにした。
「ああ、この感じ……」
敵を屠った感触が、脳を震わせた。肉体から解放された、今まで表現できたかった気持ちをアクロバットに託している。
99人分の絶叫が、一人の肉体に集約している。梶原ヘレナという英雄の教えを受けた戦士に、これまでの全てが濃縮されていた。
『それでいい、ヘレナ。さあ……』
「ああ……」
『行きなさい』
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!!!!」
イヴの内側で何かが爆ぜた。
◆
臨界突破という現象が存在する。
人間が肉体を動かすために、脳は電気信号を発する。脊髄を経由して運動神経が応答、肉体は操作される。だから、人間は思い通りに肉体を動かすことができる。
しかし、人型戦闘機を操るのは用意ではない。操縦者を包み込む電子可塑性樹脂がアクチュエータに信号を送るシステムは、人間の運動の仕組みを模倣しているが、それでも操縦者は思い通りに戦闘機を動かすことができない。それこそ、自分の肉体と同じレベルまで戦闘機を操ることは不可能である。
ゆえに、「いかに自分の肉体を動かすように戦闘機を操れるか」の指標を表すために同調率という数値が採用された。
同調率100パーセントは、自分の肉体と全く同じように戦闘機を動かせる状態を指す。
そこで、だ。
ごく稀に──ごくごく稀に、具体的には110億分の一という頻度で、同調率100パーセントを超える現象を生じさせる者がいる。
その現象は数値でしか定義されていない。しかし、何かが違う。戦闘機を操る上で、明らかに差異が出る。
曰く、その超越を経た戦士は──誰にも負けないらしい。
その境界を超えた者を、人体模倣の限界を超えた戦士を────。
臨界突破者と言う。
◆
かつて梶原奈義は臨界突破に至った。同調率のオーバーフロー。人類未到達戦力への萌芽は唐突に起きた、わけではなかった。
理由があったとハワードは予想していた。そしてそれは梶原奈義の戦闘データを入手したことで確信へと変わった。
条件は二つ。同調率100パーセントに迫る操縦技術を有すること。「人と道具の境界」を劇的に意識すること。
二つ目は実に曖昧で本人の心理状態に大きく左右される。しかし、そうとしか表現できないカタルシスが確かにある。
14歳の梶原奈義は、その時分から同調率が極めて高い数値を維持していた。90を越える者は現役の軍人でもそうはいない。梶原奈義は安定して破格の数値を叩き出していた。
その時点で条件の一つをクリアした。
そしてもう一つの条件、「人と道具の境界」を揺るがす事件を彼女は体験した。
元々、梶原奈義はあまりに人間らしく振る舞っていた。大いなる力を持ちながら役割を嫌う在り方は、ルイス・キャルヴィンに言わせれば誰よりも「人らしい」。人は意味を持たないから。
そんな梶原奈義は、目的を遂行するためだけの極限の人工物と戦闘した。道具の究極系、オルガ・ブラウンが産み出した戦闘機<ハービィ>である。梶原はその時、人と道具の対比を痛烈に感じた。感じてしまった。
これが、「人と道具の境界」が揺らいだ瞬間である。
梶原奈義の青春の終わりを意味するこの事件で、彼女は臨界突破を果たした。
では、今回は──。
人心核イヴの戦闘技術は申し分ない。折り紙つきの暴力を有している。
そして、道具であるイヴは、梶原奈義の教えを受けた梶原ヘレナを取り込んだ。
ここでもまた、目覚めが起きる。
元々人であった梶原奈義。
元々道具であった人心核イヴ。
出発点は違えども同じ萌芽を経た二人の超越者。
臨界突破を果たした人心核イヴが、今、産声を上げた。
◆
同調率130パーセントという表示に、イヴは気が付かない。道具であることを選んだ彼女は、道具として人体模倣の境界線を越えた。梶原奈義は人間としてその境地に至ったことが、皮肉でしかない。それでも梶原奈義のいない戦場で、確かに人心核イヴはこの場を支配する女王だった。
気が付けば、3機の戦闘機を撃破していた。
残りの一機がイヴとの距離を大きくとる。それは撤退というより逃亡に近かった。
「逃げないでね」
イヴは迫撃砲の一発で操縦席を撃ち抜いた。爆炎を上げて墜落する戦闘機を眺めて、何も感じない自信を自覚した。こんなものでは満たされないと思える。本当の開放は、最強の戦士が相手でないと訪れないと直感が叫ぶ。
もっと強い戦士はいないのか。人心核イヴを満足させる英雄はどうしてこの場にいない。
ここで物語を終わらせて、ハッピーエンド。イヴにとっての大団円を迎えることができない歯痒さが、苛立ちを募らせる。
「もっともっと……まだ、強くなれる私は、梶原ヘレナはこんなものじゃない!」
そこでイヴに通信が入った。
『ヘレナ、撤退しなさい。後はぼくが終わらせる』
「私はまだやれる! こんな気分は初めてなのよ!」
『君は梶原奈義にぶつける。ぼくを信じなさい。必ず望む舞台に立たせてあげる。だから今は──』
「いやよ!」
『わかってくれ、ヘレナ。君は今失うわけにはいかないんだ』
「私が負けるっていうの!? 今の私は誰にも負けない!」
『最後の敵は、臨界突破者とも戦闘経験がある。ここはぼくがいこう』
「……わかったわよ。その代わり、私を満足させてよね」
『もちろんだ』
イヴは、ロサンゼルス基地から離れる方向へ、推進剤を噴かせた。遠ざかる機体に「そうはさせない」と発射される一機の戦闘機。
ここに、今日の最終決戦の幕が上がる。
六分儀学が出撃した。




