アルバ・ニコライの基本プログラム
今日、この日。厚い雲に空を塞がれたロサンゼルス基地。
そこで運命は確定する。あらゆるイフを排除して、選ばれた結末へ至るレールに車輪が噛み合う音を誰かが聞いた。
紀村ナハトか、梶原ヘレナか、アルバ・ニコライか。六分儀学という線もある。
この物語は主役、わき役を定義しない。観客すらもいない。ただ流れる事象としてメッセージも意味付けもない。ただ、この場所に役者は揃っている。
演出家に名乗りを上げたのはハワード・フィッシャー。これから起きる事件で、男はその手腕を発揮するだろう。
大々的に披露されるキャッチコピーはこうだ。
────これは、人々が孤独を超越するための物語。
◆
「あ、ハワード!」
炎上する第四格納庫の一角、戦闘機の頭部で足を投げ出して座る少女を模した怪物、イヴは主との待ち合わせをしていた。
そこに定刻通りに到着した男、ハワードはイヴを見上げて言った。その肩には意識のない梶原ヘレナを担いでいた。
「待ったかい」
「全然!」
感動の再会というには周囲は惨劇を呈している。それでも笑顔を隠せないイヴは、頭部から飛び降りて地面に着地した。彼女にとって──彼らにとって再会の相手はハワードだけではない。
この作戦の目的そのもの、ハワードが見出し、梶原奈義の意志を継ぐ娘、梶原ヘレナ。それこそがイヴが求めた最後のピースである。
思えば、十日前の作戦は掛け値なしの幸運に恵まれた。本来であれば潜伏する梶原奈義に至るための手がかりを探す作戦であったが、その本来の目的すらも置き去りにする新たな目標を見つけた。
とても簡単な話。梶原奈義が見つからないなら、彼女の方からこちらに会いに来てくれればいい。
梶原奈義は世界の守護者であることを望まれている。逆説、梶原奈義は世界の危機にこそ、出陣する。
つまるところ、世界そのものをひっくり返すほどの劇的な窮地が訪れない限り、彼女は現れない。
然らば、ハワードは「それ」を生み出すだけだ。
梶原奈義に会いたい。会って話をしたい。──そんな恋慕に焦がれる少年のようなモチベーションで男は狂気に至っている。
女神の出陣に値する「敵」をここに生み出す。
「こちらに来なさい」
ハワードはゆっくりとヘレナを脇に寝かせた。イヴは明るい足取りでハワードの下にパタパタと近づいた。
ハワードとイヴは向き合う。その慎重さはさながら親子のようであった。二人は見つめ合う。
そこで、ハワードは突如イヴを思い切り突き飛ばした。
「なに!? ハワード?」
イヴは尻餅をついて辺りを見た。すると自分がいた位置を貫くように弾丸が横切った。甲高い金属音が一つ、大気を震わせた。
「どうして、君がいるんだろうか」
ハワードは格納庫の入り口を向いた。そこにはお互いが良く知る人物が銃を構えていた。
「アルバ君」
決死の形相で立つ少年は、男の名を叫んだ。
「妹から離れろ! ハワードォォ!!!」
◆
アルバは基地に導いた<キューティー>の工作員、エマ・シェルベリと別れ、自分の目的のために行動していた。
自分の目的。──妹を救うこと。
アルバ・ニコライは、何故ハワードが自分を選んだのか、よく考える。静かの海戦争で自分のような境遇に陥った少年少女など少なくなっただろう。ランダムで選ばれたのか、手近に見つけたのがアルバだったのか。
ハワードの言葉に倣うならアルバが優秀だからだという。
身体は健康優良、知能は秀才。オルガ・ブラウンやハワード・フィッシャーには届かなくとも、並みの同年代と比べたらエリートとして歩むべき道があった。ハワードから教え込まれた格闘技にしてもアルバだから耐えられたのかもしれない。
そして、アルバには付け入る弱点がいた。病弱な妹という足かせが彼の意思決定に大きく影響していた。
ハワードにとっては手駒を増やすに好都合の人材だったのかもしれない。
──だから?
だから、そう。もし自分が優秀でなかったら。もし両親が月で働いていなかったら。もし──。
自分に妹がいなかったら。
────違うだろ。そうじゃない。
冒涜的かつ禁忌的な「もし」が彼の頭をよぎったとき、怒りが爆発した。それらを振り払い見据えるべき敵を再認識する。
──俺が俺の過去や境遇を呪うような感傷はいらない。
そう、本質はそこではない。
病巣はそこではない。
──極々当たり前のことを忘れそうになるんだよ。頭がおかしくなりそうなくらい、ずっと考えてきたんだ。
ソフィアがいなかったら、きっとそれは「アルバ・ニコライ」ではない。そんな仮定は彼のアイデンティティを根こそぎ揺るがす猛毒だ。だから、今、彼はここで、正しい方向性に至る。
ハワードに拳銃を向けて言った。
境遇、戦争、時代、あるいは自分や妹、それらは何ら悪くない。
当たり前のことに立ち返る。真に立ち向かうべき相手は──
「妹から離れろ! ハワードォォ!!!」
◆
「殺意がまるわかりだよ。まるで絶叫だ」
ハワードは余裕の笑みを崩さない。凶器の射線に貫かれて尚、白い男は宥めるような瞳でアルバを見つめていた。
アルバはこの期に及んで会話などする気はなかった。再び引き金にかかる指を力ませたとき、ハワードは言った。
「どうして自分を選んだのか、気になっているんだろう」
「…………!」
「どうして俺はこんな過酷な状況に置かれているのか、諦められない自分が辛くて、戦う意味が知りたいんだろう?」
「口を閉じろ……黙れ」
「ぼくはね……人の心が読めるんだ」
「……黙れ!」
「ぼくは君に格闘技を教えたね。生き抜くための術だ。けれど君はそれを使ってぼくを幾度となく殺そうと試みた」
ハワードは熱い大気を吸い込んで、続けた。
「君は一度でもぼくの不意を突けたかな」
「……」
「ぼくのこの体質は……困りものでね、偏っているんだよ。敵意や殺意、怒りや悲しみしか聞こえないんだ。」
「お前は何者なんだ」
アルバは意味の分からない言葉を紡ぐ男が、人間ではないなにかに思えてならない。まるで視認できないブラックホールが口を聞いているようですらあった。
「だからね、君を選んだ理由は、そう……御しやすかったんだよ。君の怒りは強いから。あの時、月での戦争で誰よりも理不尽を呪っていたのは、戦っていた軍人でも政治家でもなく、君だ。君だったんだ。アルバ・ニコライだけが極大の義憤を抱いていた。こと妹、ただ一人に向けられた理不尽への怒りだ。はっきり言って君は異常だよ。もし、君が人心核を飲み込んだなら、基本プログラムは「妹の救済」だろうね」
「……それだけ、の」
アルバは銃を取りこぼしそうなほど唖然としていた。
「それだけの理由で俺たちを選んだのか」
「まあ、君たちというか君だね。アルバ君。君の妹に罪はない」
──ああ、駄目だ。正気を失ってはいけない。この怪人に悟られてしまう。
気が触れそうな頭を固定しようとすると、涙が流れそうになる。しかし、彼の涙はとうに枯れていた。そんなものを流して救われたことなど一度だってなかったから。
「罪は! お前だろ! 罪はお前にあるんだろうが!!」
アルバは再び弾丸を放った。




