オルガ・ブラウンの基本プログラム
演習も終わり帰り支度を済ませた午後五時。
夕方の日差しは影を伸ばす。
演習場にも赤い光が届いていた。夜が徐々に空を侵していくようだった。
「学くん、もう遅いよ。帰ろう?」
彼のバイクは今朝故障したから、町まで帰るのにも彼女のタクシーが必要になるはずだった。奈義の提案は真っ当だった。
「いや、俺はもう少し残っていく」
施設には戦闘機操縦のシミュレーターが三台導入されている。学はシミュレーターを使って自主練習を行うのだろう。
そう断る彼はいつもの無表情だ。
奈義にはわかる。彼の悔しい気持ちが、頭の中に渦巻いていることを。
どうして梶原奈義に届かないのか、と必死に自分に足りないものを探す。
彼は独りになりたかった。
「それなら、わかった」奈義は努めて明るく言った。
先に演習場の建物を出る。
夕日はやけに赤い。町に戻るまで、タクシーの中でまたラジオでも聞こうと思った。
駐車場まで行く。
すると、そこに老人がひとり立っていた。
猫背で、杖をついた小さな老人。
「やあ、梶原奈義さん」
「こんにちは」
――誰だろう。スーツにこの施設の訪問者バッチを付けているから、研究員というより、スポンサーの偉い人かな。
奈義は、いつもどおり、疑問を確かめようとしたその時だった。異変に気づく。
――なに、この人?
異変は恐れに変わる。施設内で最強のパイロットは、この小さな老人の前で動揺していた。
――この人、心の『声』が聞こえない!
そんな人物に、彼女は今まで出会ったことがなかった。
「どうした? 私の顔になにかついているか?」
「い、いえ」彼女は、自分専用のタクシーのドアを、遠隔キーで開けた。
心が読めない、というそれだけのことが心底恐ろしかった。
普通の人間はこの能力を持っていない。
これが通常の会話であり、人との付き合い方だ。
頭ではわかっていても、彼女は老人の持つ底知れなさの前に、暗闇の迷路に放り込まれたようだった。
すぐにでもこの人の前から立ち去りたい。
「じゃあ、私はこれで」となにがじゃあなのか分からないまま、車に乗り込もうとしたとき。
「梶原くん」と呼び止められた。
「今日の演習を見たよ。見事なものだ」
「ありがとうございます……」そう言って老人を置いてタクシーに乗ろうとしたとき。
「今日は話があるんだ」と呼び止められた。
「……なんですか?」
「自己紹介が遅れたな、申し訳ない。私はオルガ・ブラウン。この施設に出資している投資家の一人だ。割合は言えないが、国の助成金を僅かに下支えする額だ。つまり私は」
と、老人は顎に手をやり、彼女を見た。
「君に期待する人間のひとりさ」
「私に?」彼女はいきなり自分の肩に重荷を乗せようとする老人に、違和感を覚える。
「この研究所は、人体模倣技術の研究をしています。色んな人がたくさんいて、私と関係ない研究をしている人だってたくさんいます。それをどうして、私ひとりに……そんなお金の話をするんですか?」
「まあ、たしかに戦闘機のハードウェア自体には、君はそれほど影響を与えていない。しかし、君の能力は、ソフトウェアの研究で非常に重要だ」
「それは……聞いています」
彼女のような研究所に集められたテストパイロットたちは、人型戦闘機の自動操縦ソフトを作成するサンプルの役割がある。その中でひときわ優秀なパイロットが、梶原奈義だった。
「梶原奈義、君の戦闘技術を持つ自動操縦ソフトを作られさえすれば、この世界の戦争は大きく変わる。想像できるかい?」
奈義も人体模倣研究所でテストパイロットとして雇われたときから、幾度となくそれを思い描いてきた。――そのおぞましい未来を。
奈義に由来する兵器が人を殺すことを嫌悪しているのではない。
そんな綺麗ごとはすでに捨ててきた。彼女は自ら選んで研究に協力している。
ただし、自分の偽物が許せないという、倫理とは遠く離れた美意識によるものだ。心の衛生上の問題に過ぎない。
むしろ奈義を倒すくらいの兵器を作ってくれた方が随分喜ばしい。
奈義の感性は自らの模倣をひどく拒絶する。
「勝手にしてください。私は戦闘機に乗ります。お給料を貰えるなら、乗りますよ。でも研究は私の仕事じゃありません。私を好きなだけ調べたら良いと思います」
そこでオルガは、いたずらを明かすように鼻で笑った。
「ふふふ、あはははっは。いや、冗談だ。そう肩を怒らせんでくれ」
「ど、どうしたんですか、急に」
と奈義の質問にはたどたどしさがあった。
普段なら心を読んだ先に答えを得られる。ただ、今はそれができない。
「いや、なに。ルイスには心底同情する。これはそう……気の毒としか言えないな。なぜなら!」
芝居臭い口調は加速した。ここからが本題といわんばかりに。
「その計画は間違いなく失敗する。君の模倣は作れない、作れるはずがない!」
「……」
研究棟を丸々否定するような、突拍子もない発言に奈義は驚かなかった。
それは奈義も考えてきた。
奈義を模倣した自動操縦ソフトは、間違いなく形になることはない。
なぜなら施設最強の戦士の、その最強たる所以は――その『声』を読む能力にあるのだから。
博士には申し訳ないと感じる。
けれど奈義はこの能力を生涯隠しきると誓っている。
「私は君の強さの秘訣が正直わからない。解析不能だ。
けれど、分かったことがある。それは永遠に我々にはわからない。
この研究所の連中にだって到底及びつかない神秘、それが君の強さだ! だから機械でそれを再現できるはずもない。
分からない、分からないといってはいるが、分かったことが一つだけ。ただ一つ、解析不能であることが分かったのだ。君の強さは説明がつかない。
直感で話すのは、科学者ではないかな。
そう! 私はもはや科学者ではない! では、経営者か。それも違う!」
一息おいて。
「私は今日から、君のファンだ」
満を持して放たれた告白に、奈義は絶句した。
あまりの衝撃に奈義の意識は遠のきそうになる。
空へと視点は飛び、大気圏を飛び越え、合衆国の大陸を俯瞰し、地球はやっぱり青かった。
世界の中心で――老人は叫んだのだ。
「……き」
――気持ち悪い! 気持ち悪いし、怖い!
初対面の老人に告白されるという珍イベントを体験した奈義の感想はそれだけだった。
あまりにこの場から立ち去りたくて、締めくくる挨拶をして、車に乗る。
「それはありがとうございます。おめでとうございます。では私は帰るのでさようなら!」
彼女はタクシーに乗り、ゆっくりと発進させた。
「梶原奈義……ようやく見つけた。奴に敵対できる存在を」
アスファルトの上、老人はひとり、夕日に照らされていた。
夕日に照らされたその影は伸び、ただただ大きいなにかに見えた。
◆
人体模倣研究所の職員寮の一室。十三階建てのビルディングの十三階全体が、ルイス・キャルヴィン博士の部屋だった。
リビングの大きな窓から見渡せる研究所の夜には、いまだ点々と灯る光があった。
ルイスは窓に映るガウン姿の自分と、隣にいるオルガ・ブラウンを見た。
「というわけで、梶原奈義から振られてしまった」オルガは悪びれもなく、椅子に深々と腰かけていた。
「またあなたは」とあきれるルイス。
晩酌時の彼女は上司に対して砕けた態度がとれた。酔っているわけではなく、彼女の打算的な生き方ゆえだ。酔っているわけではなく。
「梶原さんに惚れこんでいるようですけど、仕事のことは忘れてないですよね? ハービィに搭乗するテストパイロットは決まったのですか?」
「ああ、それは……」
オルガはそれよりも大切なことがあるというように、また考え事に耽る。
ルイスはため息をつき、グラスに残ったウイスキーを飲み干した。
次はなににしようかと、キッチンまで歩いた。数秒物色した後に、そこから顔を出してオルガに聞いた。
「オルガさんは何飲みます? 好きな銘柄ありましたよね、なんでしたっけ」
「いや、私はいい」
「あら、珍しい。お酒を断るなんて」
まあ、いいわと再びキッチンを探った。
彼女は、再会した上司との五年振りの酒宴に懐かしさと小さな違和感を覚えていた。
活力に溢れていたオルガ・ブラウンという怪傑が、あの病を経て、人並みの老人になってしまったことが残念で、それでいて少し安心した。
今なら彼を理解できる錯覚を得た。
「オルガさんは、梶原さんを見て、なにを感じたんですか?」
キッチンからは窓に向くオルガの顔は見えない。
「君は否定するだろうが、これから戦争は劇的に変化する」
「私の疑問はそれです。人型戦闘機による個別戦力が雌雄を決する戦場を想定できません」
「それはこれまでの戦争だ。地球上での戦争における前提にすぎない。
君の知る通り、人型戦闘機の実践投入の役割は、偵察と爆撃と奇襲作戦の援護だ。
そもそも人型戦闘機同士の格闘戦なんぞ、実戦では稀。そんな訓練が活きる状況ではすでに自軍は敗北している。
この施設で戦闘機同士の戦闘を行う理由は、操縦補助機構への負荷が大きい状況だからだろう。試験は過酷な状況で行うべくだからな。
しかしな。
現代の地上戦の要は、戦術核をいかに敵陣地に浴びせるかに依るところが大きい」
オルガのグラスの氷がカランと鳴った。
「ゆえに、君の言い分は正しい。人型戦闘機の格闘性能を上げて、戦争に勝利できる。そんな未来は予想できない」
だが!と力んで語るオルガ。
「それはあくまで地上の戦争だ」
「地上の……?」
「いずれ、宇宙で戦争が起こる。決定的な戦いが――」
「月面防衛戦線ですか?」
ルイスは宇宙で最も活発なテロ組織の名を口にした。
「そうだ……」
その返事は低く重く、地の底から響くようで――ルイスは、初めてオルガの本音が聞けた気がした。
「なぜ、宇宙戦争は人型戦闘機が主戦力になるとお考えですか?」
「宇宙では戦術核が使えないからだ」
「…………!」
「戦術核は、機械的な衝撃と熱量、さらに放射線が威力となる。この放射線が問題なのだよ。宇宙から降り注ぐ電磁パルスはあらゆる通信系が甚大な損害をもたらす。考えてみたまえ、太陽風による通信網の断絶を。月と地球での戦争で戦術核を使うというのは、近くに太陽が発生するようなものだ」
「その予想は……」
「したがって、通信機が使えない状況下でスタンドアローンに作戦をこなせる戦力は、人型戦闘機しかない」
「その予想は……合衆国の官僚や、他の専門家たちは指摘していないのですか?」
「いるにはいるが、誤った試算で主張する論文、また危機感のない指摘が多く、まじめに考えている活動家もほぼいない」
「だから、オルガさんは……あなたはハービィという戦闘機の操縦技術の革新に取り組んでいるのですか」
「そうだ」
「私から、一つ指摘します」
「どうぞ」
「合衆国や他国の専門家が宇宙での戦争を想定していないのは、月面防衛戦線をそれほど脅威に感じていないという理由があるのでは?
仮に、他の専門家たちの中で、オルガさんの言う戦術核を使えない宇宙戦争を想像できた人がいたとします。それでも月との開戦を問題視していないのは、勝てる自信があるからでは?
宇宙移民たちは6分の1Gで育ちました。成長期を6分の1Gで過ごした人間は地球の重力に耐えられない。それくらい彼らは加速度に弱い。一方で人型戦闘機のパイロットには加速度耐性が不可欠です。つまり、月面から人型戦闘機の戦士は生まれないことになります。それで、我々は月との戦争に負けるでしょうか」
「……最もな意見だな。私はそれでも備えずにはいられないのだ」
「それはどうして?」
「君だから、話そう」
「現在の月面防衛戦線にいる技術指導者は――ハワード・フィッシャーだ」
「……!!」
――バカな。
ルイスは眉間に弾丸を打ち込まれたようなショックを受けた。瞬間的に押し寄せた吐き気に耐えたルイス。顔色が明らかに悪い。
ハワード・フィッシャー。
ルイスは、オルガと働いていた五年前を思い出す。ヒューマテクニカ社新事業開拓室での思い出。忙しさと苦悩と、やりがいに彩られた記憶。
だから、この場でこんな形で、その名を聞きたくなかった。
――かつてオルガを共に支えた同僚の名を。