笑う男
マイク・ドノヴァンという人物は確かに存在していた。
38歳でヒューマテクニカに入社し、20年が経った今。リタイアを目前にした初老の男性。有能ではあるが一般的な社員と変わらない働きぶりであったことは、彼の周りにいた誰もが認める共通認識だ。
ヒューマテクニカ前の経歴を詳細に調べるリソースも割かれていない。書類上は複数のメーカーを渡り歩きながら義務仕事をこなしてきたビジネスマンであったらしい。
入社当時はともかくとして、20年後の積み重ねで得た信頼は確かなもので──誰も彼が世界を揺るがすテロリストの頭脳であることなど疑いはしなかった。
ハワード・フィッシャー。
オルガ・ブラウンと袂を別った科学者。オルガ以外に人心核の開発段階を知る唯一の人物。そして、月面防衛戦線の技術顧問。
ではなぜ、ありふれた男、マイク・ドノヴァンが怪人ハワード・フィッシャーと同一人物であるのか。
その答えは少し複雑だ。
ただ、ハワードは初めからハワードであったし、マイクは初めからマイクであった。
ハワードは、一人の人間から同一人物を作り出す、クローン技術を有している。それ自体はこの時代でも畜産分野で利用されているものではあるが、ハワードにはヒト・クローンを生み出す応用ができた。
彼はそれを<ドウターズ>と呼んでいる。
そこで、先の問の答えが示される。ハワードは自らのクローンを生み出し、マイク・ドノヴァンと名付け、ヒューマテクニカ社に忍び込ませた。知識は一般的なレベルのみを与え、ごく一般的な市民として生きる傀儡を産み落としたのだ。いつか時が来たときに自分と入れ替われるように──。
いつ、どこで入れ替わったかは重要ではない。いずれ差し出される生贄であったというだけ。今となってはハワードによって生み出されたマイク・ドノヴァンは、ハワードの手によって殺害されているだろう。
マイクのように、ハワードが生み出した自らのクローンはこの世界に複数存在している。ハワードと同じ顔を持つ無垢な一般市民たち。
彼らは何も知らず、ハワードに収穫される時を待つ。
それがマイク・ドノヴァンという哀れな男の真実であったが、この状況では梶原ヘレナはそれを知ることはない。
相対した遠い昔の育ての親。感動の再会とは程遠い、歪な雰囲気が二人を支配していた。
「元気そうだね、ヘレナ」
その声はめまいがするほど遠方から放たれているようであったが、脳に直接届いているように錯覚した。
「ハワード……どうして? いや、今までどうしていたの?」
「宇宙で暮らしていたんだ。そう、月でね……」彼は天井のある小さな部屋で上を指さした。
「月面防衛戦線は……世界の敵よ。私もあなたも本当は裁かれるべきだった。だけど──」
「今はこうして生きている」
男は笑う。その瞳にヘレナはどう映っているのだろうか。裏切者か、愛しい我が子か。ハワードにのみ知りえる内情をヘレナは察することができない。
「ぼくは、まだ戦っているんだ。地球とね」
「だったら、ハワードは私の敵になってしまう……。そんなの、私は嫌よ……!」
「ぼくをまだ、親だと思っていてくれるのか」
「そんなの……当たり前よ!」ヘレナは今にも泣きだしそうだった。それほどに感情揺さぶられる人物が、彼女にとってのハワードだった。
「私は、まだ愛している。あの時の仲間たちも、ハワードも! 大切な家族だって思っているから……戦うのだって本当は……」
「そう、君はそういう子だ」
ハワードはベッドの上のヘレナに近づいてくる。ヘレナは警戒したがその接近を許した。そうせざるを得ない魔力がこの男にはあった。昔も、今も。
「優しいんだね。よくわかるよ」
ハワードはまるで空白の時間などなかったかのように父親然としてヘレナの頭を、その大きな手で撫でた。
「ぼくは一貫してその優しさを君に説いた。表現は少し違うが今も変わらないようで嬉しいよ」
優しさ──ハワードに言わせればそれは、愛と絆だ。
絆の戦士たちは、徹頭徹尾それを教え込まれてきた。時には罰を、時には慈愛を──ともすれば、それは普通の、ごくありふれた親が振るう道徳と同じであったかもしれない。
けれど。
「ハワードの言う愛や絆は、きっとどこか変よ。うまく言えないけれど」
「どうしてそう思う?」
「それは母さんが……」
ヘレナは、ハワード・フィッシャーの教えに加えて、梶原奈義から与えられたものがあった。
それはきっと道具と人の在り方の本質で──。だからこそ梶原ヘレナはハワードに異を唱える。
「誰かのためだけに生きていたら、それはきっと道具と同じになってしまうから。人はもっと不安定で自由で、変幻自在な、目的のない、意味もない──」
「幸せになるだけの動物かい?」
「……!」
「梶原奈義のことはぼくも良く知っている。それこそ心の奥底まで、ね」
ハワードは訥々と語りだした。その姿は初恋に酔う青年のようだった。
「彼女は人体模倣が嫌いなんだ。人の真似をする道具がありふれたこの世界で、どうしてそんな窮屈な趣向を持っているか? それは人と道具は違うから。道具は絶対に人にはなれないから。不気味の谷は超えられない。一種の冒涜だと梶原奈義は考えている。まあ、感性は人それぞれだ。だが、それが彼女の歪みで、梶原奈義は心の底から病んでいる。あの英雄は完全無欠の超人などではないんだよ。どこにでもいる少女だ」
「……」
ヘレナはハワードの言葉に納得してしまったがゆえに、沈黙した。
「対して、梶原奈義もぼくを良く知っている。彼女なら僕をこう表現するだろうね。『人に道具の模倣させる男』だとね。人体模倣の逆と言えば、分かりやすいかな。人はなにかのために生きていると信じて止まない狂った男。わかるかい? ぼくと梶原奈義は全くの裏返しなんだ。表裏一体でありながら、両極端。直線の端と端に立っていると思ったら、実のところ僕たちは円上にいたんだ。一歩間違えば──梶原奈義はぼくになったし、ぼくも梶原奈義になっていた」
傲慢にも聞こえる言葉は無視できない結言で閉じた。
「ぼくたちはどうしようもなく分かり合ってしまったんだ。あの戦争で」
「……ハワードは、母さんになにをしたの? どうして母さんはいなくなったの!?」
「ぼくたちは5年前の戦いで、宇宙で出会ってしまったんだ。ぼくは月面防衛戦線。彼女は明龍。敵同士だ。梶原奈義の敵は誰一人として彼女に勝てない。あれは最強だ。こと戦場において、梶原奈義に本気で狙われて生き残った者など皆無だ。そう、ぼくを除いてね」
「なにを……」
「ぼくと梶原奈義は、戦闘機で放ちあう弾丸とは別の共通言語を持っていたんだ。ぼくたちは出会うまでは、二人とも孤独だった。こんな能力はいらないと、生まれたことを呪ったときだってあった。きっと梶原奈義も同じだろう。それほどにぼくたちは孤独だったんだ。宇宙で独りきりというのは、どう表したって足りないくらい悲しいんだよ。常人では耐えられない。狂う他なかったんだ。ぼくも彼女も」
「……したの」
「孤独は怖い。孤独は辛い。誰だって独りではいたくない。だから、ぼくにとって彼女は、きっと彼女にとってもぼくは──」
男は恍惚とした表情で続けた。
「運命の出会いを果たしたんだ」
「ハワードは……母さんに何をしたのよ!」
「語り合った。それだけさ」
「それならどうして」
「梶原奈義が消えたのかって? きっとぼくから逃げたかったんだろうね。ぼくらの対話に言語はいらないから」
「どういう意味なの……?」
「ああ、そうか。話していなかったね」
ハワードは胸ポケットから電気銃を取り出した。
「ぼくは、否、ぼくたちは人の心が読めるんだ」
ハワードは、ヘレナに電気銃を発射した。一瞬の痛みと痙攣の後、ヘレナは意識を失った。
◆
ハワードがヘレナに接触した時からさかのぼること数時間前。
早朝、アルバ・ニコライは晴天眩しい田舎道を車で走っていた。目的地は30キロメートル離れたロサンゼルス。
「次の作戦が始まる……」
月面防衛戦線の工作員である彼は今となっては追われる身だ。先の事件の主犯として国連軍から捜索されている大罪人である。その彼が国連宙軍ロサンゼルス基地に向かうのには訳があった。
あるのは焦りと不安と、小さな希望だ。彼の大願が叶う日を今日にする決意に燃える。
アルバは今回の任務から外されている。詳細も知らされてはいないが、大きな目的は察しがついていた。
──梶原ヘレナの拉致、だろうな。
アルバはそれ自体に興味はなかった。勝手にやればいい。ただ、付随する結果がアルバは怖くて仕方がない。回避するべき最悪のシナリオが想定されていると感じている。
先日、アルバは<キューティ>と接触した。
『これを貴方に渡す。人心核を殺す道具だ』
アルバは車の助手席に置いた革袋を一瞥した。拳銃と一発の弾丸だ。
人心核を殺す、その意味はまだわからないがアルバは可能性にすがる他ない。もし、この弾丸でソフィアからイヴを取り除くことが出来れば。そんな期待が彼の希望だ。
たとえハワードに歯向かうことになったとしても、奴からソフィア以外の全てを奪われることになっても、アルバは怯む訳にはいかない。
この身は、ただそれだけのためにあったのだから。
キューティと密会した夜、弾丸を受け取った後にすぐさまイヴに使用するつもりであったが、隠れ家に戻ったときにはイヴはいなかった。
別れは突然で──だからこそイヴはアルバを身体で誘ったのかもしれない。
これが最期だと、言いたかったのだろうか。
「追ってこいと言うなら、その通りにしてやる。だがな、全部が思い通りになると思うなよ」
アクセルはうねりを上げた。加速した車体は復讐者を乗せて走る。
ハワードとイヴ。世界を揺るがす巨悪。けれどアルバにとってはどうでもいい。たったを一人を救いだす。世界など関係ない。
アルバは走る。今こそ破滅に向かう車輪の進路を変えるのだ。
「待っていろ、ハワード」
彼は最終兵器を携えて戦地へ向かう。
弾丸に仕組まれたプログラムは<母殺し>と呼ばれていた。
今、アルバ・ニコライの人生最大の戦いが始まろうとしていた。




