最愛の再会
人体模倣研究所で起きた事件から十日後、つまり梶原ヘレナが長い眠りから覚めた翌日。国連宙軍ロサンゼルス基地における梶原ヘレナの扱いはまだ完全に決定していないようだった。
六分儀学が言うには、明龍の工作員としてのヘレナの処遇は極めてデリケートな問題とのことだ。
もちろん、ヘレナ自身が人体模倣研究所に対して虚偽の身分で潜入していたこともある。テロとの関連を疑われても不自然ではない。
これまでヘレナの病院替わりになっていた国連宙軍としては、明龍への義理作りという側面もあるだろう。
ナハトと同様秘密の多い身分には相違ない。
ナハトは軍に対して有用性を示すことで立場を得ようとしているが、ヘレナは「明龍からの客人」というわけにはいかない。
なぜなら──。
「君は、梶原奈義の義娘……?」
学は目を見開いて驚きを隠せない。
「はい。母からは六分儀大佐のことは聞いています。正直な人だと……」
「そうか……」
ここは軍基地にある取り調べ室。ナハトとマイク・ドノヴァンもここで話をした。先のテロが迎えた顛末を語る順番がヘレナにも回ってきたのだ。小さな机にヘレナと学が向かい合わせに座っている。部屋の隅で腕を組みながら立っているのはエマ・シェルベリという学の補佐官。
「梶原は……今どこにいる?」
「特秘事項ですので答えられません。明龍との交信を要請します」
ヘレナの返答に、学の隣に立っているエマ・シェルベリ軍曹が「そうでしょうね」と感情をこめずに言った。
「君と明龍との交信について、許可は難しい。軍が必ず間に入るだろう」
「ならば──私が軍に提供できる情報は、10日前の人体模倣研究所で起きたテロについてだけです」
毅然とした態度で応じるヘレナは軍人然としていた。ナハトが見たら笑うかなと、ヘレナはつまらない想像をした。
「話題はそちらに移そう。君はあの時なにをしていた?」
「私は────」
ヘレナは事件で感じたことを話した。明龍の任務で研究所に潜入していたこと、修理中の戦闘機で戦ったこと、その際に紀村ナハトの協力を経たこと。
それがヘレナの供述の大枠だ。一方でヘレナが特に描写しなかった事項が二点。「ナハトが取り込んでいる人心核<アダム>の存在」、「自らが月面防衛戦線に所属する人心核<イヴ>と面識があったこと」だ。
二つは人心核という共通項を持ち、事の顛末を左右した中心だ。
人心核。
ヘレナでさえ、あるいは明龍でさえその全貌を掴めていない、現代科学の枠を超えた産物が元凶であるという前提が繰りぬかれた状態で語られた物語。その内容では、ヘレナはその場に居合わせた被害者のように聞こえただろう。
それでいい。まだ世界の明るみに晒すべきではない、それがヘレナの偽らざる本音だった。
自身の安全のためというより、目の前にいる学のために、そしてナハトのために。
人心核は世界に対する劇薬だ。人心核を知ったとき、オルガの知性を求めてナハトを狙おうとする人物は少なくないだろう。
それほどに危険な力だ。科学技術の根底を揺さぶる発明に他ならない。
その点、ナハトの「あらゆる武力圏からの逃走」という提案は現実的かつ効果的だ。ヘレナに同行してほしいという条件を除けば──。
────ナハトは私を好きだと……ついてきてほしいと言った。
では、ヘレナはどうなのか。すぐに答えは出せない。恋愛がどういうものか知らないわけではないが、ナハトに向けた感情に名前を付けるのは難しい。
きっと、愛は一緒に歩んで行きたいと思える気持ち。恋は抗いがたい引力のこと。そのどちらもヘレナはピンと来ていない。
あの格納庫で抱いたナハトへの気持ちは──死にゆく愚者を引き留めたいというある種の同情だったのかもしれない。あるいは自身が持っている人体模倣への答えの正当性に対する証拠が欲しかっただけなのか。
人心核を人間扱いする態度そのものが、ヘレナには譲れなかった信念に依る部分があったから、ヘレナはナハトに夢を見せた。
もちろん、そこから先は自分の足で歩け、依存するなと突っぱねることもできただろう。
選択は先延ばしにされた。
関係は変わる。変わらざるを得ない。
「どうした? なにか重要なことでも思いだしのか?」
「いえ、別に」
ただ、とヘレナは続けた。
「まだ事件は終わっていないんだろうなって、思います」
◆
梶原ヘレナの処遇については「国連宙軍と明龍との交渉により決定される」ことだけが明確になったらしい。組織に忠誠心がないナハトやマイク・ドノヴァンはそのような扱いはそもそも受けないが、ヘレナは半ば要人扱いだ。
梶原ヘレナを中心にした勢力図は複雑化した。国連宙軍が、明龍が、そして月面防衛戦線が彼女に求めるものが異なっているだろう。
そして、その暴力の坩堝からヘレナを連れ出すのは簡単ではない。
けれどそれがナハトの望みだから──。
唯一求めた幸福の手がかりだから──。
『それでは、紀村ナハトの扱いを決定するブリーフィングを始めよう』
手錠がかけられたナハトに向けて強烈なライトが各方位から当てられている。彼を中心に囲うよう座る軍士官たちは逆光で顔が窺えない。罪人を裁かんとする瞳の数々は鋭い。彼らの端には六分儀学の姿もあったが、それもこの場では単なる味方ではない。学もナハトを試している。
『私はバーンズ。ロサンゼルス基地司令と勤めている。私の両隣に座っているのが、サンダース中将とミリー少将、それと六分儀大佐にはすでに会っているな』
マイクで拡声された言葉が部屋で反響している。大仰な雰囲気がナハトを委縮させようとしている。背後の扉には武装した兵士が二人いた。
『では、始めようか』
バーンズ司令の進行により始まった会議。最初の話題は先の事件で起きたことの振り返りだ。バーンズが提出された調書を読み、ナハトがその内容と相違ないか応える。
六分儀学の協力もあり、それは淡々と滞りなく進んだ。
けれど、問題の項目に差し掛かる。ナハトを試す質問が突き刺さった。サンダース中将は身を乗り出してナハトに問を投げた。
『私は不思議なのだよ。紀村ナハト、君は六分儀大佐にどうやって連絡を取ったというのだ? あの状況だ。正規の手段で緊急要請を出すのには時間がなかったはずだ。しかし、記録上不自然な点は見られない。けれど、六分儀大佐は最善最速の出動した場合よりも早く現場に到着した。これはどう説明する?」
ナハトは生唾を飲み込んだ。当然ではあるがこの指摘は予想されていた。
「サンダーズ中将。私は合衆国の通信システムの脆弱性をこの場で証明することができます」
ナハトの言葉で学は目を見開いた。「ここでやるのか」とでも言いたげな驚いた表情。学の性格上、この場面で声を上げなかったことは賞賛するべきだったが、それどころではない。
ナハトは額に汗を浮かべながら、続けた。
「なんでもいい、オンライン端末を一つ私に貸していただけませんか?」
バーンズは兵士の一人に端末を用意するように命じた。
今、ナハトの手元にはラップトップ型の端末がある。左手で抱えながら、打鍵する。
──<頭>に繋げれば一瞬なんだけどな。
待つこと五分。よどみなく動かしていた右腕を止めて、ナハトはモニターをバーンズたちに見せた。
『ほう……』
そこにはライトに当てられたナハトの後頭部が俯瞰されていた。
「この部屋には監視カメラが4つありますね。そのうちの一つ、出入り口のカメラ映像を自由に閲覧する方法があります。もちろんパスワードは知りません。六分儀大佐と協力関係を疑うなら今この場で別のパスワードを設定して頂いても結構です。基地内の監視を現行システムで運営している以上、私は基地の監視カメラを自由に見ることができます」
『……なるほど』『危険すぎる能力だ』『取引を持ち掛ける気か?』
驚いた三人の将校は思い思いのコメントを呟いた。六分儀学は成り行きを見守っているようだった。
「私は……」
ナハトはゆっくりを言葉を紡いだ。
「月面防衛戦線の壊滅を願っている。この能力をそのために使いたい」
演技であることはナハトだけが知っている。彼はヘレナとの日々を思い描いている。ささやかな幸せをつかむための最初の試練がこの会議だ。今求めるのは軍からの信用だ。
『君はどうして月面防衛戦線と敵対しようというのだ』
「私が……オルガ・ブラウンからそれを託されたからです」
ナハトがいう内容はナハト自身が嘘だと信じていた。けれど、それを嘘と断定する情報も現状ない。ナハトは人心核アダムを通じてオルガの記憶を垣間見たが、すべてを知っているわけではない。とりわけ、晩年、人心核に纏わる思惑のほとんどを知らない。だから──ナハトがここで話した嘘が嘘である判断は誰にもできないのだ。真実は生前のかの悪魔的な老人のみが知る。
『なぜこの場でオルガ・ブラウンが出てくるのだ。彼はヒューマテクニカ社の経営者だった。その人物が今、君の口から出る』
「オルガは戦闘機開発を通じて世界の平和を願っていました。オルガは私の師です」
『信じられるか』とミリー少将が言った。冷静な口調だったが、怒鳴りつけたかのような気迫があった。
「オルガは天才で、私は彼に育てられた」
『君はその力で、国連宙軍になにを要求する?』
ナハトはバーンズ司令の目を真っ直ぐ見つめた。
「安全と武力です。私に大願を果たさせてください」
強烈な目的意識を有している人々がいる。ナハトはそれを知っている。
だから、ナハト自身が狂人として振る舞うこともできる。
ゲームは続く。
──必ず、生き残る。ヘレナと一緒に。
誰にも悟られないように、ナハトは決意を胸に秘めた。
◆
同時刻。
エマ・シェルベリ軍曹は士官室のデスクでモニターを睨んでいた。紀村ナハトに関するブリーフィングが実施されている裏で、出席権利のない彼女にもできることがあった。
眼鏡には青白くモニターが映る。
「紀村ナハト……。マイク・ドノヴァン……」
現在、ロサンゼルス基地で確保している事件の参考人の二人。彼らの経歴をエマは見ていた。
紀村ナハトはオルガ・ブラウンの後継者を名乗り、マイク・ドノヴァンはヒューマテクニカ社の秘書ということになっている。
紀村ナハトを疑う余地は大いにあるが、そちらは能力が明確な分、味方にする価値があるとも考えられる。場合によっては通信システムの改良や戦闘機開発に携わらせるシナリオも考えられるだろう。
マイク・ドノヴァンはヒューマテクニカ者の要人という扱いだが、本当にそれだけだろうか。
──マイク・ドノヴァンは見張りの兵士とも打ち解けている節がある。
仲良くしている。楽しく雑談をしている。マイク・ドノヴァンに悩みを相談する者までいるらしい。
それほど基地の人物と友好関係を築いているマイク。それをエマは不自然に感じている。
軍属している人間が軽々しく捕虜と会話することの、らしくなさ。マイク本人の人当たりの良さが成しえる業だとでもいうなら、それはそれで紀村ナハトと同様危険な存在である。
月面防衛戦線によるテロをきっかけに入り込んだ異分子たち。六分儀大佐が懸念を持たないならば、自分が警戒する必要がある。
──20年前にヒューマテクニカ社に入社。その後は総務部、法務部を経験し秘書業務へ……。
マイク・ドノヴァンの経歴を見ると、なんてことない勤め人のように思える。実際その通りなのかもしれない。
けれど──。
「20年前?」
その数字に引っかかったエマ。
ナハトが口にした人物、オルガ・ブラウン。オルガがヒューマテクニカ社のCEOを辞めたのも20年前だった。
そして彼が辞職するきっかけとなったルイス・キャルヴィンによる人体模倣研究所での事件も20年前。
オルガがヒューマテクニカを出た後に入社したマイク・ドノヴァン。
「考えすぎ……かしら」
エマは嫌な予感を抑え込むように、モニターから目を離した。
◆
男は大股な歩幅で通路を歩いていた。その足取りは単調だが力強い。彼は前だけを見ている。目的地は決まっていた。
一定のリズムで刻まれる足音。男自身の迷いのなさが窺える。
けれどそれは悲しみを乗り越えた強さだった。諦めを超えた真っ直ぐさだった。
この場にいる誰も見捨てないと誓った正義の心だ。緩やかに静かに──確かに男は歩んできた。
強烈な目的意識を有する人々がいる。例えば彼のように。
紀村ナハトなら卒倒しかねないほどの鋼の意志で目的へ邁進する男。誰の邪魔も許さないと強く誓った覚悟には一遍の曇りもない。
危ういと──常人ならば言うだろう。あまりに行き過ぎた情念は、目に見えるほどの怒気となって彼の周りを覆い包む。
人当たりが良いと、言われることがある。人の弱さを分かる人だと言われることがある。
けれどそれこそが男を孤独にする根源とも知らずに。
男は優しい人を演じてきた。誰も本性に気が付かない。演じるなどとは生ぬるい。極限の極限の極限のさらにその先の深度を持って、彼は真実優しいのである。
マイク・ドノヴァンはその扉を開けた。
その部屋は病室。昨日目覚めたばかりの梶原ヘレナがいた。
ヘレナはマイクの顔を見た。
大きく開いた瞳は亡霊を見ているような驚きを隠せない。
「やあ」
マイク・ドノヴァンは気さくに言った。
「ハワード……?」
梶原ヘレナはマイク・ドノヴァンのもう一つの──真実の名を口にした。




