愛の告白
二つの呼ぶ声がした。
暗闇の果てから遠く聞こえるその声たちは、彼女が最も会いたい人物たちのそれだった。
「ヘレナ」
自分の名前を聞いて、まるで自分が何者か思い出したようだった。むしろそれまで忘れてしまっていたのかもしれない。
本当の自分を手放した覚えなどないが、それほど長く眠っていることの証左だろうか。彼女は声に感謝した。
「ありがとう、母さん」
梶原奈義は言葉なく微笑んだ。ヘレナの描く母はそんな人。善悪含めて理解して、許容する姿は女神を称して差し支えない。
けれど、奈義に超常を求めるのは間違いだとヘレナは知っていた。人は神にはなれない。きっと多くの人が奈義にその役割を求めている。
対して、もうひとつの声は──。
「ヘレナ」
泣きそうなほど救いを欲していた。
人々の善悪を許容するという共通項を奈義と同じくしながらも、人々の孤独を誰より嘆く姿は女神とは対照的だ。路傍にうちひしがれている物乞いに等しい。
ハワード・フィッシャーとはそんな人。
人体模倣を奈義とは別の解釈をした貧しい人。孤独の果てに救済を願う、救世主になれなかった紛い物。真実の神は梶原奈義だと、敗北感を内包しつつ、本心から宣える聖人。
二人の育ての親はヘレナを導く光になっている。
どちらに手を伸ばしているか、ヘレナはとうに決めていた。
◆
目をあけるとそこには紀村ナハトがいた。ここはどこだろうとか、あの後どうなったのだろうとか、そんな当たり前の疑問を抱く前に、彼の顔に目が行った。
「ナハト……」
弱々しくも生気の宿った言葉に、ナハトは──。
「遅いんだよ、馬鹿野郎」と八つ当たりのように返した。
それでもナハトの表情からは確かな安堵が窺えた。まるで死人が蘇ったかのような反応にヘレナも内心驚いている。
「私、どれくらい寝ていたの?」
「9日だ」
「……そっかあ」ヘレナは力なく笑った。
彼女はあの戦いを敗北として捉えていた。もはや科学の枠を超えたかのような性能を見せた未知の化け物を相手にしてヘレナはかつてない覚醒と共に対峙出来ていた。けれどそれでは全く足りていなかった。六分儀学とナハトの協力なしでは今この場で生きていられていない。
挙句の果てに、同調率の急上昇に脳が耐えられず眠りこけていた。情けない。なまじ彼女は意識を失っていたから、あの戦いが昨日のことのように思い出せる。
「それでも……最後は勝ったのよね」
「ああ」
「良かったあ」
イヴを撃退して、地獄からの生還を果たした二人。けれどヘレナにとっては息長らえたことそのものよりも大切なことがあった。
『二人で勝つよ……! この戦い』
ヘレナはあの時強くナハトに言った。あるいは自分に言い聞かせたのかもしれない。ただ、少なくともその宣誓は、二人だけが共有した約束だった。
──違えずに済んだ。ナハトに道を示して、絶望から救い上げたことの責任、とまでは言えない。そんなのナハトが勝手に決めることだ。
──それでも、あそこで負けたら格好つかないじゃない。
ヘレナは笑った。
「ほら、私の言った通り。諦めないで良かったでしょ?」
「なにを偉そうに」
ナハトはヘレナの額を指で弾いた。
「痛ぁ!」
「まだ病人だろう? うるさいんだよ。寝てろ」
「なによ! 私が起きてすっごい嬉しい癖に」
「……」ナハトは場にそぐわない神妙な表情をした。
そして、ヘレナに聞こえるか否かの微か声で──。
「ああ」
と小さな頷いた。
◆
紀村ナハトは梶原ヘレナの願望を知っている。ヘレナは最愛の母親、血は引き継いでいなくとも世界の見方を変えてくれたその人、梶原奈義との再開を望んでいる。
それは出会った頃から感じていたことであり、ナハトの基本プログラムに齟齬を発生させた光を与えた今でも変わらないだろう。変わる理由がない。
すなわち、ヘレナにとって梶原奈義もまた、光である。ナハトにとってのヘレナが、ヘレナにとっての梶原奈義であること。
その関係性にナハトは頭を悩ませている。
きっと言ってしまえば簡単なことで──。
ただ変化は必ず訪れる。
マイク・ドノヴァンが言うほどシンプルな話ではない。
二の足を踏むのは当然だ。
なぜなら、ナハトは彼女に出会うまで、誰かを求めたことなど生まれて一度も経験したことがなかったのだから。
人の気持ちがわかれば、こんな思いもしなくて済むのだろうか。
ありえない仮定がナハトの女々しさを浮き彫りにする。
──選ばされるのではなく、選ぶ。
マイク・ドノヴァンが言う決断の形は早急なのと道義ではないのか?
頭の中は迷路のようだ。オルガ・ブラウンの頭脳があったとしても、単純な問いに答えが出ない。
オルガの人生にきっと愛はなかったから。
なにもかもが初めてのこと。
勇気が欲しい。
そんなことを考えていたら──。
「なに黙っているの?」
ヘレナが言った。
紀村ナハトは傲岸不遜で大胆不敵。プライドの塊のような男だ。しおらしく悩むなんてらしくない。
そう言いたげな瞳にナハトは──。
「例えば」
口を開いた。
「明龍を辞めることで母親に会えるとしたら、お前はどうする?」
「……どうしたの? 急に」
「明龍は給料がいいのか? 戦士としての誇りがあるのか? 人助け、正義の傭兵部隊に属しているのが誇らしいと思ったことは?」
「…………ナハト、質問の意味がわからないよ」
「答えてくれ」
「そうだね……。母さんともう一度暮らせるのなら、辞めちゃうかもしれない。私が明龍に残っているのだって、また母さんに会えるかもって期待しているから……なのかな」
「だったら」
ナハトは生唾を飲み来んでから、続けた。
「俺が見つけてやる」
「それってどういう……?」
「この世界のどこにいたって、電子機器を使わないなんて不可能だ。誰かがどこかでネットワークにアクセスしている。俺ならどんな情報も調べることができる。少ない手がかりだってやってやれないことはない」
「それはありがたいけど、ナハトらしくないよ。もっと君は悪魔みたいな考え方をするでしょ? 悪魔は言い過ぎか。こう悪党みたいに……。対価を求めるはずよ」
ヘレナは笑って言った。きっと「誰が悪魔だ」と指摘して欲しかったのだろう。
けれどナハトは「対価なら求める」ときっぱりと言った。
初めて人を真剣に見つめた気がした。
誰かに気持ちを伝えることがこんなにも勇気がいるなんて、考えもしなかった。
「頼む。俺と来てくれ」
◆
「え?」
ヘレナは聞き返す他なかった。発言の意味が分からないままナハトの表情を見つめていた。
目の前にいる彼は、悪の科学者の脳を継承する天才でも、情報を操る超越者でもなく、ただの気弱な少年だった。縋るような瞳に移るヘレナはどんな姿をしているか、彼女はなんとなく理解できてしまった。
「俺と来るって……」
「人体模倣研究所も国連軍もヒューマテクニカも、明龍も月面防衛戦線でさえいないどこかへ、俺と一緒に来てくれ……! あらゆる暴力からお前をどこまでも守るから! 絶対に損はさせないから! 母親探しも協力する! 俺がいれば不可能なんかない!」
叫んでしまうのを堪えるように言葉を探すナハト。狂おしいほどの葛藤がきっと渦巻いているのだろう。もしかしたら先の事件でもここまで彼は追い詰められてはいないのかもしれない。
それだけに、ヘレナは残念に思った。
「ナハトらしくないよ」
「……わかってるよ。それでも、初めてだったんだ。お前だったから俺は……」
「ナハトは私のことをどう思っているの?」
ヘレナは知っていた。彼女だけはナハトの心を知っている。梶原ヘレナは人心核の理解者だから。梶原奈義が人間の心を読めるように、梶原ヘレナは非人間の心が読めるとでも言うべきか。ヘレナは人心核アダムの機微を見逃さない。
問いかけはナハトの答えを試すように病室の空気に溶ける。
「俺は……お前が好きなんだ」
「それは本当?」
らしくないと言えばヘレナの方もらしくない。普段の彼女ならきっとはぐらかしていただろう。モーガン・ゴールドスタインからの告白を軽く流した彼女は、同じシチュエーションにも関わらずナハトを視線で射抜いている。
「……嘘だと思うのか?」
「そうじゃない。でもきっとナハトの好きは……私の好きと違うよ」
「わ」
ナハトの表情は苦悶にあえぐ遠い誰かのようだった。かつて愛を理解できない科学者がいた。愛する誰かを持つ戦士は強くなると本気で考えるほど、愛のなんたるかをはき違えていた愚か者がいたのだ。
だからこそ、その男は梶原奈義に殺された。
オルガ・ブラウンは人の気持ちがわからない。ならばこそ、ナハトも──。
「わからない」
──ああ、惜しいなあ。もう。
少しの沈黙を経たのち、ヘレナは小さく笑ってから。
「考えさせてほしい」
と言った。




