アイ・ラブ・ユーにうってつけの日(2)
戦場で受けた傷は、身体よりも心に残る。強烈な衝撃は、時に精神に亀裂を入れる。
かといって、彼の心が悲鳴を上げたのは一週間前の任務のせいというわけではない。
とうの昔から、心は限界を超えていた。<静かの海戦争>の頃に正気など置いてきた。まともな感性など、彼を急かす狂気の前ではちり芥でしかない。
彼、アルバ・ニコライの戦争は未だ終わっていない。
苦しみも悲しみも、逃げることなく飲み込んだ。それでも歩き続ける原動力はもはや彼にとっての神だった。信じる以外の選択肢はない。疑ってしまえば、これまで犯した罪の炎に焼け爛れてしまうはずだ。
涙は枯れた。
ただ求めるものは、最愛の妹の心だけ。
命の通う生きた声を再び聴くためなら、彼はどんな悪魔にだってなって見せる。
「終わったわ。お兄ちゃん」
部屋の明かりが点いた。フローリングに小さなベッドとテーブルがあるだけの部屋。借宿としては十分な彼らの隠れ家だ。
「照明もつけずになにしているの?」
イヴは裸足のまま、もっと言えば裸のまま歩いてくる。タオルで頭を拭きながら、ベッドに腰かけた。
傍から見たら恋人同士の関係に思えるだろうか。それでもアルバにとってはこの状況自体が許容できない不条理そのものだった。
妹と同じ身体で、同じ声──そこにいる怪物を殺せてしまえば、どんなに楽だろうと思ったか。
「梶原奈義の戦闘データはどうだった? なにかわかったか?」
「んー。梶原奈義の人間性? 人となりっていうの? そこまではわからないけど、まあ、戦闘データとしては一級品ね。あれ以上の食事はないってレベルよ」
「そいつは良かった」
アルバは椅子に座りながら、うつむき加減に応えた。
「我々、また強くなっちゃったなぁ」と嬉しそうに笑うイヴ。
目の前にいる偽物の妹が、人間性などと口にすることに虫唾が走ったが、それを言い出すとキリがない。本論はそこではない。
「これからどうするの?」
「ハワードから次の任務が来た」
「早く言いなさいよ! なに?」
「梶原ヘレナの奪取だ」
イヴは目を丸くした。そして──。
「最っ高ね!!!!! さすがハワード!」
アルバははしゃぐイヴを深い瞳で見つめた。任務の意味がアルバには分かっている。彼の極限の精神が必死に答えを探そうとしている。
その視線を感じ取ったイヴは、先ほどまでとは違う笑みを浮かべて立ち上がった。
「お兄ちゃん」イヴは囁くような声でアルバの前に立った。
「なんだよ」
怪物は、人とは違う理屈で動く。かつてオルガ・ブラウンを操るアダムが愛の意味が分からなかったように、イヴも情動を歪んだ形で表現する。
イヴは座るアルバの手を引いて、ベッドの隣まで移動させた。
「なんのつもりだ」
「それはお兄ちゃん次第」
怪物はアルバの肩を掴んで、背中からベッドに倒れ込んだ。彼は引っ張られる。とっさにベッドに手を付いたら、イヴの顔が近くにあった。
押し倒されるように寝転ぶイヴと、覆い被さるアルバの構図。恋人の真似事のような時間に、アルバの頭は麻痺していた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「…………っ!」
「いいよ」
微笑むイヴは、絵画に描かれる女神のようだった。官能的な質感を見せる柔肌にアルバの吐息がかかった。
「こんなことになんの意味があるんだ」
「だってお兄ちゃん、この身体がほしいんでしょう。いつなくなっちゃうか不安だから、我々と一緒にいるんでしょう」
甘い囁きは女神を装う死神のそれだ。
「勿体ないから使っとこうよ。ほら」
アルバにはイヴの言っていることがわからなかった。まるで異国の言語のようにうまく頭に入ってこない。言葉が分かったとしても、全く別の回路を通っている思考。
「どういう……」
「鈍感ぶらないで、お兄ちゃん。ハワードにとって、きっともうこの身体は……」
ソフィア・ニコライが絶対にしない表情。どの先の内容はひどく冒涜的だと思ったから、アルバは急いでイヴの口を手でふさいだ。
「お前、二度とこんな真似するな。二度とだ。俺がお前も……ハワードも葬り去る。この世界にお前らみたいな異形は必要ないってことを分からせてやる」
イヴの眼が細くなる。まるでアルバをつまらないと言いたげなそんな瞳。
「俺とソフィアの絆を侮辱するな」
アルバの手をゆっくりとした手つきでどかして、イヴは続けた。
「絆って……我々の前で絆を語るの? 誰よりも深く繋がった、一つになった我々に対して」
「それは怪物だ。正気の沙汰じゃない」
「それならお兄ちゃんだって、正気じゃない。狂っているやつしかいない。ならそれでいいじゃない。どうせ誰も彼も……」
イヴは笑った。
「ハワードに救われる。誰一人だってハワードの救いからは逃げられない」
それは、戦いと次の戦いの合間の、ほんの少しの空隙で起きた愛にまつわる問答だった。
◆
アルバは一人になって考える。賑やかな街に吹く夜風は、やけに心地よい。きらびやかなイルミネーションが、彼の内心を皮肉るように鮮やかだった。
「梶原奈義、六分儀学、オルガ・ブラウン……ハワード・フィッシャー」
この世界に渦巻く混沌の中心にいる人物たち。彼らは絶大な力を持って巨大な歯車を回している。
きっと凡人、アルバ・ニコライはその道程に転がる石ころのようにちっぽけな存在なのだろう。
ハワードはアルバを「数年に一度の逸材」と称した。ハワードにとって、アルバはそれほど魅力的な駒らしい。
けれど、この頃はのしかかる無力感に囚われていた。イヴを始めとする自らの手に負えない異形がごろごろいる。最強を目指すイヴ。登り詰めた先は梶原奈義しかいないと思っていた矢先に現れた六分儀学という別の超越者。ままならないと正直感じた。
戦闘機を操る強さだけではない。並外れた知性を持つ存在の影は、いつもアルバの背後にある。
今、世界で起きている戦争の火種は──梶原奈義と人心核にまつわる戦いは、端的に言ってしまえば、オルガ・ブラウンとハワード・フィッシャーの戦いという縮図に収まるはず。
ならば、そこに自分が一矢報いることができるのか。
妹一人救えない自分が、世界に蔓延る異形を前に戦えるのか。
アルバは夜の街を行く歩を速めた。雑踏の中で過ぎ去っていく人々は夜空に振る星々に目も向けない。デブリの燃焼も日常と化した。宇宙の破滅にロマンチックな意味合いを乗せる人は、もはや少ない。
人気のない路地裏に入ったアルバ。街の賑やかな騒音が遠くに聞こえる暗闇で、立ち止まる。ゴミと腐臭が集まる影には、蹲る物乞いもいないようだ。
アルバともう一人を除いて、ここには誰もいない。
「そろそろ出てきたらどうだ」アルバは振り向かずに言うと、料理店の排気スクラバーに隠れていた人物が姿を表した。
フードを深々と被ったそいつの性別もわからない。声にはボイスチェンジャーによるノイズがかかっていた。
『我々はキューティー』
「──!!」
あっけなく正体を名乗った人物を、アルバは知っていた。一週間前の仕事で、死んだ中年男性が同じ名詞を口にしていた。
キューティー。マディン・オルカーが今際に言った謎の集団だ。たしか意味は──。
「狂信者、だったか」
『そう、よく覚えている』
「お前たちは何者だ。何を成そうとしている」
『二柱の神をこの世に降ろそうとしているのです』
「どういう意味だ」
アルバは目の前の人物を制圧できる武力があった。銃があるし、いざとなれば徒手空拳でも殺すことができる。
『無駄ですよ。我々は死を恐れない』
「っ!」
『あなたと喧嘩をして勝てるほど我々は強くない。皆科学者かちんけな軍人か……。格闘であなたに勝てるのは、きっとハワードくらいでしょうね』
「さっきからベラベラと知ったようなことを言いやがって」
アルバは苛立ちを隠さないまま声を荒げた。
「この際お前たちがどんな望みを持っているかはどうでもいい。意味わからん思想も語ってほしくない。ただ、俺とこの場で接触した目的だけ話せ。交渉があるんだろう」
『話が早くて助かる』
フードの人物は笑ったようだった。
『あなたは、ハワードを殺せますか?』
◆
唐突に切り出された内容はアルバが最も成したいことだった。試されているような問いに、即答できない自分がいた。
それでも──。
「できる。やってみせる」
人質ソフィアと皮を被る人心核イヴ。クローン技術により産み出された兵隊<ドウターズ>。未知の兵装<神の代弁者>。
そのことごとくを掻い潜り、出し抜き、ハワードの絶命を達成することがアルバにとっての大願だ。それでしかこの終わらない奈落を抜け出す方法はないと確信できる。
強い怒りが彼の原動力。
『だったら、我々はあなたに協力しよう』
「具体的にお前らになにができるんだ」
『次の任務は、ロサンゼルス軍基地が標的になるのだろう』
「なぜそれを知っている? と聞く権利はあるよな」
『その答え自体がイエスと言っているのが滑稽だな』
「鎌をかけたのか? そんなつまらない問答をしたいなら協力関係は築けない」
『もちろん、我々の推測だ。人心核イヴは人体模倣研究所で何か答えを得たのだろう? おそらくそれは……』
──梶原ヘレナ。
「人心核の存在も知っているのか……。お前たちのバックには何がいるんだ」
『オルガ・ブラウンという科学者が我々に託したのだよ。彼は死んだが、世界に絶大な影響を残した。……君は世界の歯車を回している存在に手を伸ばしたいはずだ。理不尽に抗うその瞳が雄弁だ』
「まずその知ったような口を聞くしゃべり方をなんとかしろ。イライラする」
『ロサンゼルス軍基地で起きる任務のどさくさに紛れて、ハワードを殺害すること。それが我々が君に願う任務。それだけを理解してくれればいい。我々に毒づくのは全く構わない』
「……ったく。なんなんだよ」
アルバは会話ができるようでできない相手に腹立たしさを隠せない。自分の影を追いかけているように捉えどころない<キューティー>。
彼は頭をかいた。
この場の最善はなにか。悪魔を殺すために別の悪魔と契約するような──多重債務を許容できるのか。考える。考えろ。
「ただし、条件がある」
『なんだ』
「お前らの目的を教えろ。ハワード被害者の会ってわけじゃないんだろう」
『……ああ、先ほど言ったのだけれどね。二柱の神をこの世に降ろすと』
「それ以上痛々しいことを言ったら殺す」
『臨界突破という現象をご存じかな?』
「あれだろ……同調率が100%を超える戦士のことだ」
『英雄、梶原奈義はなぜあそこまで規格外に強いか。兵站がものを言う戦争で、梶原奈義という「個」の力があそこまで求められるのか。考えたことはあるか?』
「梶原奈義が……臨界突破に至っていると言いたいのか?」
『そのっ通りぃ!!』
影法師は突然に声を大にした。待ってましたと言わんばかりに喜々として続けた。
『我々は臨界突破者を見出したいのだ。彼らこそが神だ。人体模倣の到達点。……そのために、ハワードが邪魔だ。彼の計画は我々と、最終的には相反する目的がある』
「……ふうん」
『わかっていただけたか?』
「つまらん奴らだな」
アルバは鼻で笑った。心底がっかりと言うようにため息をついた。
「底が浅いな、<キューティー>。くだらない。しょうもない。そんな妄想はチラシの裏にでも書いていろ。神だの、人体模倣の到達点だの……大層なことを言って結局は集団自慰行為だ。その先がない」
彼は目を閉じた。瞼の裏には、いつか遠くの少女の笑顔があった。過ぎ去った幸せだった時代、彼の妹は微笑んでいた。
本気で守りたいものがあったのが、無くしていけないと強く願ったものが、昔にあったこと。それがアルバにとっての唯一の救いだ。ただ、思い出すだけで無限の力が湧き出てくるのだ。どんな困難にだって立ち向かう無敵の心を与えてくれる。
それに比べれば、<キューティー>の動機など、矮小すぎる。
アルバは不適に笑った。
「いいぜ、使ってやるよ。狂信者」
今宵、不屈の炎が確かに燃え上がった。




