幕間 母の腕の中(2)
「それが……ヘレナとの出会いでした」
「君は彼女を失ったとき、どう思ったんだ?」
オルガは深い絶望を含んだナハトの顔に向かって容赦のない問を投げかけた。
「……必死になったさ。でも今は」
「どうしたいのか、わからないというんだな」
「結局俺は何者なんだよ。人心核? 基本プログラム? つまるところ、俺がしたいことは……本当に俺がしたいことなのか?」
「これまで、そんな疑問を抱いた人心核はいないだろうな。イヴはもとより、私や「彼」も欲求を疑うことはしなかったし、しないだろう」
元来、基本プログラムとはそういうものだ。自分がなにをしたいのか、疑いすら持たず邁進するための基本指針。生きる目的は生来的に与えられるものだった。
ナハトはそれが苦しい。生身のまま荒野に放り出されたような不安が彼を苛んでいた。
「しかし」とオルガは言う。
「それが道具なのだと、今は思う」
その優しい表情に、ナハトは瞬間的な、それでいて的外れは怒りを覚えた。
「今更何を! 先生は何を悟ったような口振りでそんなことが言えるんだ!」
この白い空間に叫び声だけが虚しく響いた。
「俺が人間じゃないんだよ! ハワードに負けたってのはそういう意味だ! あいつに反論する術なんかなかった! 俺が人間だったなら!」
──どうして、ハワードはそれを認めなかった。
「結局、20年前に起きたオルガ先生の死を……。梶原奈義に先生が殺されたあの時を繰り返しただけなんだ……」
顔を手で覆う。罪深い人間の成り損ないは、人であろうとした狂気を恥じていた。ハワード・フィッシャーに刻まれた呪印はそれほどに深い。
「怒り……はないのか?」オルガの問いは冷静だ。
「こんな感情を怒りとはきっと呼べない。これは……諦めだよ。先生。なにが生存だ。さっさと殺してくれとどれだけ願ったか」
「梶原ヘレナは君になんと言うだろうな」
それがわかったら苦労はない。
かつてヘレナは人心核アダムに光を見せた。
彼女だけがナハトを人間扱いする唯一の人だった。
今はいない彼女の影を追い求めるナハトは誰の目にも愚かに映るに違いない。
「この空間には、君と私と……彼の記憶が刻まれている」
「……!」彼、と言われるだけでナハトは罪悪感で動けなくなった。
「彼は誰かを思う強さをナハトに与えたのではないか?」
「先生……。先生だけずるいよ。先生は梶原奈義に殺された。俺はそれがうらやましいよ! 一人だけ真実に触れたみたいじゃないか! 俺だって女神に殺されたかった。そうすれば……」
「彼女は女神ではない」
「ハワードはそう言っていた」
「梶原奈義はただの人間だ」
そうでなければ、私を殺すことなど出来なかった。オルガ先生はそう付け足した。
その意味が今のナハトにはわからない。人間も道具も、自分がどちらであるかもわからないのだ。
「まだ物語の続きだろう」
オルガは感情のない声音で、そう言った。
ここでの議論は意味がない。結局はナハト自身が決めることだからだ。
「続きを話したまえ。紀村ナハトが……人心核アダムが絶望に落ちる過程を」
人生は続く。
ナハトは再び言葉を紡いだ。




