エピローグ 凪ぎの終わり
怒号舞う苛烈な宙。宇宙は死が蔓延る地獄と化した。
「ぼくは君を愛してる! 梶原奈義ぃ!」
「私はお前を許さない! ハワードォ!」
二人の怪人がぶつかり合った五年前の戦争。
その戦いで奈義は決定的な傷を負った。
今でも夢に見る、人と道具の相克を──。
◆
その島は、世界の果てのように遠い場所だと錯覚される。
風のせせらぎと潮の満ち引きだけが耳に届く悠久の地に思えた。
22世紀であっても、人と自然の関わり変化はないと断言するような遥かな場所。
その島の小さな平地、木の下で車椅子の老婆は本を読んでいる。紙の本はこのご時世珍しい代物だったが、彼女が読む分にはお似合いの娯楽だった。
この風景を時代遅れと言うか、未来の情景と言うかは見る人に委ねられる。
少なくとも少女は、将来世界中がこの穏やかさに包まれたら良いと願っていた。
「ルイスおばあちゃん」
老婆に駆け寄り少女は聞いた。
「奈義どこにいるか知ってる?」
ルイスと呼ばれた老婆は、本から視線を上げて少女に微笑んだ。
「奈義は……あの丘の上にいるはずよ。でも、今は独りにしてあげて欲しいの」
「どうして?」
「悲しいことがあったからよ」
「だったら独りにしたくない。奈義が可哀想だもの」
「優しいのね」
そう言ってルイスは少女の頭に手のひらを乗せた。
「もう既に、あなたの優しい気持ちはきっと奈義に届いているわ。気持ちだけで十分よ」
悲しいことがあったなら、苦しいことがあったなら、誰かと一緒にいるのが良いと少女は思った。
そう教えられてきたし、実感として正しいことだと思えていた。
「でも、行くわ。私が行きたいの」
「そう」
木漏れ日が差し込む草原でルイスは優しく笑った。
◆
視界には蒼穹のみが広がる丘に立つ。
雲一つない大空を前に澄んだ空気を吸い込んだ。それは自分自身を浄化しようと試みているようだった。
穢れてしまった部位を切り落とすことはできない。それも自分の一側面になってしまったから、なかったことになどできない。
自らに植え付けられた闇を飼いならす他ない。けれど、潔癖症の彼女にとってひどく屈辱的なことに思えた。
多くの人は、彼女を昔のままだと言った。変わらず揺るがず、強い人。世界最強の地球の守護者であってほしいと願う人は大勢いる。彼女と会ったことない人でさえ、名前を聞いただけでそのように想像する。
──私は元からそんな器じゃない。私に使命なんかない。
ただ一人の人間だ。嘘が苦手な、偽物が嫌いなただの人。
そこで彼女の中に件の声がした。
『私は女神になれる。私だけが人類の救世主になれる』
それはおかしなことに彼女と同じ声色をして、彼女と同じ口調で言った。傲慢な祝詞を本心から歌い上げる自分がいる。誘惑のように囁く言葉は、彼女の信条に真っ向から反対する内容だった。
奈義は、奈義のことを全てわかったような口振りに腹が立った。
「違う! 私はそんな人間じゃない!」
大声を出した。すると背後からガサッと草を踏む音がした。
「どうしたの? 奈義」少女は怯えた顔をしていた。
「緑ちゃん」
「変なところを見せてごめんね」奈義は自然な返しができたか不安だった。
「奈義、悲しいことがあったって聞いた。大丈夫? 怪我でもしたの?」
「問題ないわ」
奈義は、緑が心から心配していること、そして奈義に拒絶されるかもれない恐怖を抱いていることを感じた。
「ありがとう。優しいのね」
突き放すのは簡単だ。なにも知らない子供なら尚更だ。
『私に同情するなんて思い上がった子供ね』
──黙って。
奈義は内に潜む何者かを押さえつけるのに必死だった。迷路で異形のなにかに追われているような不安な想像が払拭できない。潔癖なはずだった奈義の世界で侵略者がじわりじわりと版図を広げていた。
ただ、それを少女に知られるわけにはいかない。
『結局、緑ちゃんにも話せずにいるじゃない。最愛の娘、ヘレナを突き放したときと同じね。私頭がおかしいのって相談すれば済む話でしょう? それができないのは相手になにも期待していないから?』
────黙ってって。
『それとも、本当に傲慢なのはそれを偽る私の方だったりして』
「黙れって言ってんのよ!」
「ひっ」
奈義は声を荒げて辻褄の合わない内容の怒号を飛ばした。それに緑は怯え、たじろく他ない。緑は奈義が抱える問題の見当すら付かなかった。その苦しみが緑が理解できる大きさを優に超えているだけ感じ取った。
もちろん、その緑の思考も奈義の元に届いている。
不安にさせて申し訳ない気持ちだけが募っていった。だから奈義は少女から離れるしか、彼女の不安を取り除く術がなかった。
「緑ちゃん、ごめんね」
と短く言って、奈義は立ち去ろうと緑の隣を過ぎようとした、その時。
「待って」と小さな少女の力強い言葉が飛んだ。
「奈義が辛いなら、私いっしょにいたい。いっしょにいるだけでいいの」
──この子の本心は強く願っている。だったら私も。
「少し独りにさせて。でもありがとう。私もっと強くなるね」
奈義も同じように本心から強く誓った。
◆
「調子はどう? 奈義」
「最近ひどいわ。頻度が高い」
「そろそろ対策を考えなくちゃいけないわね」
「五年も逃げ切れた。まだ大丈夫だとは思うけど、奴が私を見つける前にどうにかしないと」
奈義とルイスは彼らが住んでいる小さな家の地下室で、深刻な表情で話し合っていた。部屋にはモニターの数々と人の背丈くらいはあるワークステーションが幾つも鎮座している。そこが他ならぬ武装組織明龍、情報部七課の本拠地だった。
「今回の件だって私のせいよ」奈義は今にも泣きそうな顔でルイスに訴えかけた。いっそ罵ってくれたほうが奈義自身が楽だった。それほどに今の彼女は冷静さを欠いている。
「それは違うわ、奈義」
「ヘレナを人体模倣研究所に行かせたのは私よ。宇宙は危ないから」
結局のところ──梶原ヘレナが終始抱いていた疑問、「なぜ人心核アダムの捜索を梶原ヘレナに依頼したのか」の答えはこれである。
奈義が梶原ヘレナを宇宙から遠ざけたかった。
ヘレナは弱いから。弱い戦士は宇宙で死ぬだけだから。
ただそれだけのことだった。少なくとも奈義はそう思っている。当初の狙いとは大きく離れた結果だけが残った。
人体模倣研究所へのテロ。月面防衛戦線の再起。人心核アダムの発見。
「それに私も賛同した。不誠実はお互い様よ。自分を責めるなら、私も同じ罪を背負ってる」
「私の罪は二つある。ヘレナを信用しなかったこと。ヘレナを危険な目に合わせたこと」
奈義はその二つが矛盾していることに気がついてない。愛する人を信用すればこそ危険があっても送り出す選択があることに、奈義は気が付けない。今の彼女には到底無理だった。
奈義は幼い頃抱いていた、大人になっても離したくなかった不合理さな感情を半ばなくしていた。ここにいるのは戦場から遠ざかる弱い女だ。
今の梶原奈義はヘレナを信じていない。それが奈義にとっても不本意であることには変わらないが、それでも奈義の精神はそれほど汚染されていた。
ルイスも奈義の苦しむ様子を五年間見てきた。今の奈義が普通でないことははっきりわかる。彼女が〈静かの海戦争〉で負った傷はそれほどに深い。
潔癖なほど真実を愛した彼女が今、娘に対して不誠実であった事実。
────奈義がヘレナに与えた<スピーディ>というコードネーム。あれは確か、臆病者の意ね。センスがオルガ先生に似ているわ。あるいは……ハワードかしら。
「早くなんとかしないと……ハワード・フィッシャーに見つかる前に」
◆
家の窓から白いカーテンが風に遊ばれている。入り込む西日は温かい。ソファで横になっていた緑は寝てしまっていた。開いたままの絵本をお腹に乗せて小さな寝息を立てている。
少女はまだ知らない。その家の地下室では世界の命運を左右しかねない二人がいることを──武装組織明龍の幻の情報部7課課長ルイス・キャルヴィンと人類未到達戦力、梶原奈義がいることを。
冷たい地下室。二人の話し合いは続いていた。
『人心核アダムの新たな担い手、紀村ナハト。人心核イヴの襲撃。ヘレナの覚醒。──六分儀学。〈キューティー〉』
奈義はルイスの内心からその単語たちを読み取った。今回の事件についてルイスは話そうとしている。それは奈義にとっても大いに興味があった。興味──そんな言葉は不適切だろうが、今の奈義にはそう言うほかなかった。
「博士は今回、人体模倣研究所で起きたことをどう捉えていますか?」
「まずハワード・フィッシャーが血眼になりながら貴女を探していること。そして、まだ手がかりすら掴めていないことがわかったわ。15年前のデータを探しているくらい、奈義に関する情報が敵には不足している」
ルイスは一息おいた。
「けれど……人心核<アダム>は予想外だったわ。ハワードの側に寝返る可能性も考えられる」
「それはないわ」奈義は強く否定した。
「オルガ・ブラウン……今は人心核<アダム>と言うのね。彼はハワードを倒すことしか考えていない」
「どうしてかしら」
「分からないわ。それは博士のほうが詳しいんじゃないの?」
ルイスは腕を組んで、天井を見上げた。
「主任とハワードの関係ねえ……どうだったかしら。見るからに険悪ではなかったけれど、二人ともなにかこそこそ裏で進めるのが好きだったわね」
奈義はルイスの内心に小さく灯る懐古の念を感じた。
「今は確かなことは言えない」とルイスは言った。
「博士。今はなにより、得体の知れない連中がいる」
ルイスは目を伏せた。言葉にしなくても奈義には伝わる。
『<キューティー>。自らを狂信者と呼んだ連中』
ルイスはヘレナに「紀村ナハト」の正体を伝えた。では、ルイスたちはナハトの正体、人心核アダムの存在をどう知ることができたのか。
「一昨日、我々に連絡を取ってきた謎の組織<キューティー>は、紀村ナハトの情報を伝えてきた。ハワードですら奈義がいるこの場を探し当てることができないのにも関わらず、彼らは私たちにたどり着いた」
「口ぶりからして、オルガ・ブラウンの身体から紀村ナハトに人心核を「移動」させた連中である可能性も高いわ」
奈義は険しい表情を隠せない。五年前まではできなかったその憂い顔は、戦争で起きた事件の影響だろうか。ルイスは無邪気な奈義を懐かしく思った。
「……はは。博士は私に大人になってほしくないの?」奈義はルイスの心象を読み取って軽く笑った。
「いや、違うのよ。私は……」
ルイスは続く言葉を紡げなかった。変わってしまった奈義を、ルイスは心苦しく思っていた。<静かの海戦争>で梶原奈義の聖性は壊された。
「大丈夫よ。博士。ほら……私、最強なのよ?」
そうお道化る奈義。ルイスは知っていた。人類最強のこの戦士は、心まで強くないことを。何も迷わず、躊躇わず、敵を屠れる機械ではないことを知っていた。だから、苦しいし、悲しい。涙を流さなかった戦いなどなかったほどに、奈義の心は強くない。
梶原奈義は──。
五年前、<静かの海戦争>でハワード・フィッシャーと対峙したとき、ハワードの「思想」に触れ、共感してしまった。その精神汚染が今でも彼女の心を蝕んでいた。
最強の英雄はハワード・フィッシャーから身を隠す。その精神に触れることを恐れて──。
May the artificial soul be happy someday, the end.
いつか夢見る人心核「紀村ナハトの生存戦略」おしまいです。
結構な長さになりました。お付き合いいただきありがとうございました。
オルガの次はナハトです。人心核は幸せになれるでしょうか。お楽しみ




