幸せになるための物語
既に取り返しのつかない火事に見回れた第33研究棟のモニター室で、アルバ・ニコライの任務は達成されようとしていた。このためにヒューマテクニカ社に潜入し、人体模倣研究所に出向したのだ。
「これが、梶原奈義の戦闘データです」
記録媒体を手渡すマディンは疲弊しきっていた。辺りは煙が充満し、あと数分この場にいたら一酸化炭素中毒によって死亡するだろう。
吸う空気は喉を焼くように熱い。
防護スーツに着替えたアルバはガスマスクをボイスチェンジャーを身に付け、顔が窺えないようにしている。二体のドウターズが彼の脇に立ち、マディンを威圧している。
目的物を受け取ったアルバは、マディンに聞いた。
「なぜ、梶原奈義の戦闘データを隠していた」ノイズの混ざる声音はアルバであることを隠していた。
「…………君はやはり、アルバ君なのですね」
「質問に答えろ」アルバは非力な中年男性の首を掴んだ。
「そもそも……梶原奈義の戦闘データが隠されていたと知っているのは、内部の人間であり…………昔からいる職員ではないことは明らかだ……。そして君のように若い体格の人間は、紀村ナハトかアルバ・ニコライしかいない」
「……おい」
アルバは手でドウターズの一人に指示を出した。機械化歩兵の大きな腕がマディンの手を握り、そのまま折った。
「……!」
「ここでお前は死ぬ。話したくないならそれでいい」
「もちろん話します。君は知るべきだ。……ハワード・フィッシャーがなにをしようとしているのかを」
今にも窒息してしまいそうな大気で、マディンはゆっくりと言葉を紡ぐ。それはアルバになにかを託すようですらあった。
「お前! ハワードを知っているのか!」
「ええ、ハワードは私に交渉した。梶原奈義の戦闘データを渡せと。そして私は断った。まだその時ではないと……」
「その時ってのはどういう意味だ。お前は何者だ!」
「ハワードは私たちを<キューティー>と呼んでいる。…………狂信者という意味………です。ああ……元々はオルガ・ブラウンが名付けたんでしたっけ……」
「ハワードはなにを……なにをしようとしているんだ!」
男は今際の言葉を選んだ。そして──。
「神はなぜ、人の型をしているのか? 考えたことはありますか?」
マディン・オルカーはその問いだけを残して、意識を失い死亡した。
◆
イヴは正に夢の舞台に立っていた。この宇宙で最も強くなれる可能性がまだあると確信したからだ。今、戦っている相手こそイヴにとっての最後のピース。人心核イヴという怪物を完成させる総仕上げに他ならない。
「ヘレナ、大好きよ。誰にも渡さない」
目的に邁進する。一つのことしか考えない。道具としての在り方に恥じない振る舞いで、ヘレナを求め続ける。
強くなりたい。
強くなりたい。
誰よりも強くなりたい。
人型戦闘機が戦争の主力になってから50年以上が経った。人類最強の創造物が人型戦闘機だというのなら、その魂に代わる戦士こそ、現代の「強さ」を担う者だとイヴは信じていた。その怪物も行き過ぎた人体模倣の成れの果てと言って良い。道具が人の真似をするように、人も道具の真似をする。
イヴはただ、基本プログラムに従う「目的」にのみ身体をゆだねる。
「さあ、さあ! まだ終わりじゃないでしょ! ヘレナ!」
イヴは歩いてヘレナが吹き飛んだ方向へ歩いた。土埃と煙と火花が辺りを覆う。視界は狭い。ヘレナが受けたダメージの程度は目視では計れない。ただそこにいるとだけイヴは知っている。
そんな、最高の気分のイヴに通信が入った。
『イヴ。任務完了だ。撤退する』
アルバの声だった。
「────────
は?」
通信上の二人に空白の末、イヴは。
激しい、激しい──情動を。内側に芽生えた。散逸的で指向性のある。けたたましいほどの情念が。
気密性の高いちいさな操縦席にいっぱいにあふれ出す。その感情が──。
言葉になるより先に。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──っ!!!!!!!」
爆発した、怒り。ただ、ただ純粋な怒りだ。アルバの命令は彼女の基本プログラムに抵触した。駄々をこねる子供に、世界を壊す力を与えたら、一秒だって万象は耐えられないと証明するように、彼女は激情を叫んだ。
「っっっっっざけるなぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
『イヴ!』
「我々が! ここで逃げる意味がわからない! そんなこともわからないの!? バカなの!?」
イヴは飛行ユニットを最大に爆発させた。飛び上がる。
「ヘレナがいるのに! 我々の前の前にいるってのに! どうしてそんなこというの!」
上空から<フレズベルク>は迫撃砲を構えて、既に炎上している第33研究棟に照準を合わせた。
「命令を取り消しなさい。アルバ」
『……!』通信の向こうからアルバの焦りがうかがえた。
こうなってしまえば、戦場は混沌そのものだ。癇癪を起す子供に蹂躙される未来が待っている。今より多くの人が死ぬだろう。そんなことはイヴには関係ない。己の目的のためなら、それ以外はゴミ屑ですらない。基本プログラムを遮るものを排除することだけが、怪物のモチベーションなのだ。
『お前はどうしたいんだ』
「ヘレナを捕まえる」
『……わかった。どれくらいかかる』
「すぐよ」
『五分で終わらせると約束しろ』
「わかったわ。お兄ちゃん」
イヴは、笑顔で言った。再びいつもの飄々とした口調に戻った。
しかし、その緊張のゆるみを狩人は見逃さなかった。空中にいるイヴに向かって殺意の弾丸が飛んだ。イヴは直感だけで、弾道を読み直撃は避けたが、右手に持っていた迫撃砲に命中。イヴはそれを手放した。
地面に落ちる一メートル以上ある自動銃。人型戦闘機の装備は頑強だ。精密に作らているにもかかわらず、上空から落としても大破しない。
そして、なおかつ、人型戦闘機はヒューマテクニカ社によって全規格が一致している。すなわち、機体が違っても装備を使える場合が多い。
この戦いで、ヘレナが勝ち残るために選んだ手段は──。
煙から抜け出すように走り出したヘレナの機体は両手に装備を持っている。<病院>から飛び出したはずのヘレナは持ちえない実戦用の迫撃砲二丁。加えて脚には簡易的な跳躍補助ユニットが付けられている。
逆転の一手はここにある。
「なるほど、さっきの……」イヴは満足そうにつぶやいた。
ヘレナが選んだ手段は、先に撃墜されたモーガン・ゴールドスタインの装備を受け継ぐこと。丸腰だった彼女が対抗できる最後の作戦が敢行された。
◆
──『いいか、ヘレナ。敵のマイクロマシンを剥がせ。あれは迷彩機能と、通信妨害。そしておそらく……物理的な力場を形成している』
ナハトが<病院>でヘレナに言った推測はおおよそ現実になった。現代戦争において物理的な攻撃を無力化できるような「力場」と呼ばれる技術は誰も実用化に至っていない完全なブラックボックスだ。しかし、これまでの戦いで、そうでもなければ説明できない現象が起きている。
ヘレナが一度目に至近距離で振りかざしたナイフによる攻撃には手ごたえがあったのにも関わらず、敵は依然として無傷。
あれをどう説明する。確かにヘレナが振り下ろしたナイフは何かに衝突した。それが敵の装甲でないのであれば、ヘレナとイヴをあの時隔てていた見えない壁ということになる。
頭痛がする。ひどく荒唐無稽に思えた。
ただ──受け入れる他ない。人心核という技術の到達点を知っているヘレナ。この世界で何者かが技術発展の歯車を無理やり回していようとも、戦わない理由にはならない。
ともかく、迷彩性、通信妨害、遠隔力場をつかさどる反則級の装備を火事の熱で剥がすことには成功した。
そしてナハトがヘレナに授けた策のもう一つが、モーガン・ゴールドスタインが果てた場所の座標だった。
この戦いに長期戦はあり得ない。ヘレナの武装から考えて、攻撃の手段がなくなったときに敗北が確定する。少しでも生きながらえるために必要な作戦だった。
ヘレナはその指示通りに、移動してモーガンの機体から迫撃砲二丁と跳躍補助ユニットを拝借して、自らの<ターミガン>に付け替えた。
これで宙を飛ぶことはできないが、機動性が向上し、なおかつ反撃に出れる。
──『いいか、今は時間を稼げ』
「一撃で仕留められなかった……!」
ヘレナは走り出した。これまで尽く不意打ちが失敗している。イヴの反応を、単純な戦士としての技量というには無理がある。そう感じてしまうほど異次元の域にある。
ブロックの合間を抜けるように疾走するヘレナに、イヴは上空から追尾する。けれど先の一方的な戦力差と比べたら幾分マシだ。ヘレナには反撃の手段がある。
ヘレナは逃走しながらも、振り向いて後方へ発砲した。イヴはそれをブロックの上に隠れるように避けた。空を切る弾丸がブロックの壁を抉った。
武装は足止めとして機能している。ナハトから授かった策は既に尽きている。後は時間を待つだけ。ヘレナに出来ることは限られている。
それでも──。
未知の怪物から敵意を向けられようとも──。
無敵の英雄が現れなくとも──。
ヘレナは戦える。
──私は、戦闘機を操れる。
ナハトが教えてくれた操縦法が彼女を解放する。自分はもっともっと戦闘機が好きになる。人型の巨人をより自由に操れる自分がここにいる。その感覚が何より尊い。
追われては逃げる。殺意の暴風雨に晒されようとも、ヘレナの内側で燃える勇気の火。
ナハトがくれた人体模倣への新たな扉が、ヘレナにとっての真実だ。
自分の命が危うかろうと、ヘレナは今、それどころではない。
嬉しくて仕方ないのだ。見つけてしまったのだ。
戦うための戦闘機が嫌いだった。目的が与えられた道具が嫌いだった。
そこまでは梶原奈義の発想で、そこから先はヘレナのオリジナルだ。
ヘレナは戦うための戦闘機を嫌ったから、戦闘機を否定せず、目的のみを排除した。
戦闘機は、人の形は、人体模倣はもっと自由になれる。
人は自由だから。人体模倣は自由を求めることそのものだと、答えにたどり着く。
──だから私は……。
ヘレナはブロックの壁を蹴り、跳躍した。空中でしなる身体を操って宙返りで弾丸を避けた。頭を下に。高度を同じくするイヴと視線が交わる。
放たれた攻撃がヘレナの横を霞め、反撃を打ち込んだ。イヴは直感のみでそれも避ける。立体機動は超絶技巧。お互いの同調率は人類最高峰を叩き出す。
『私は貴女に会うために生きてきた!』
イヴから入る通信が、歓喜に溢れていた。
情熱的に、官能的に、激しく愛撫するようにお互いを求め合う。
その殺し合いは、かつて共に過ごした古い幼なじみとのじゃれ合いだった。
イヴは99人分の愛をヘレナに。
ヘレナは人体模倣の可能性をイヴに。
二人の主張は噛み合っていない。会話にすらなってない。それでも二人は止まらない。
◆
ナハトは自分たちの命運を左右する演習場の戦いを見ていた。
自分の出来ることはやった。達成感とは程遠いが、ナハトの仕事は終わり、生存の行方はヘレナに託してあった。
それは、ここまでやったらダメだったらもう諦める他ないと自暴自棄な部分も多少はあるか。人はそう簡単には変わらない。
制御盤に繋がれたヘッドセットを外して、轟音が響く屋外に耳を傾ける。モニターには、演習場のカメラから見えるノイズのひどい映像。二つの機体が舞っている。
ナハトはそれを見て、違和感を覚えていた。
それはこの戦闘に影響するようなものではなく、むしろ不意に湧き出た小さな疑問だ。
イヴの装備の────特殊性。
通信妨害、光学迷彩、遠隔力場。
この三つを有する機体の存在が、今後の戦争をどう変えるか。それを想像せざるを得ない。そしてナハトが導き出した答えは──。
「この機能は全て……、噛み合っている」
これまでの戦争の常識が全く通用しなくなる世界がナハトには見えた。
通信妨害により、敵と味方の区別がつかなくなる。
光学迷彩により、敵を見えぬ者は戦場に立てなくなる。
遠隔力場により、通じる攻撃が限られる。
ここから僅に仄めかされた可能性。
それは──。
「こんな技術が知れ渡ったら…………戦争は、超高性能戦闘機同士の一対一で決してしまう!」
人材、戦略、資源。あらゆる戦争の枠組みが取り壊され、ただ一人の強者に、数の暴力が通じなくなる時代。
数より質の究極が、この先、未来で待っている。
そこでナハトは寒気がした。
そんな「未来の戦争」を強要する敵が地球を襲ったら、それこそ梶原奈義でしか太刀打ちする術はない。
ともすれば、この人体模倣研究所の崩壊はただの始まりに過ぎないのでは、と戦場を仰いだ。
◆
本来であれば、モーガン・ゴールドスタインから装備を引き継いだからと言って、怪物人心核イヴを打倒できる道理はない。あくまで、戦闘機として並みの装備を得たに過ぎないのだ。
梶原ヘレナはそれでも絶命しないでいられたのは、ナハトによる同調率の底上げのおかげである。
しかし、その強化を得たとしてもイヴと同調率を互角にするに留まる。
この場で、イヴを落とすのはヘレナだけでは不可能なのは明白だ。
「ねえ! どうして皆は強くなりたいの!?」
「それをヘレナに思い出させてあげるわ!」
ただ、二人の願望は敵を墜とすことではなかった。
対話。それに伴う触れ合いが不可欠だから。弾丸に込めた愛が彼女たちを繋ぐ言語のようだった。
ヘレナの機体は壁を蹴るように跳躍し、攻撃を避ける。続け様に飛び込んでくるイヴをナイフで迎え撃った。本来は接近してくる必要のないイヴ。
それが<彼ら>なりの敬意だと言わんばかりに、人工の魂たちは喜びを歌い上げる。
再び出会えたことをドラマチックに演出したいがために、イヴは低空を飛び、ヘレナに視点を合わせている。演習場は瓦礫と砂塵に紛れて二人の火花が飛び散り合う。
けれど──。
イヴと違い、ヘレナは人間だった。悲しいまでのその事実が、戦いに終わりを告げる。
ヘレナの左腕に弾丸が命中した。彼女の集中力の限界が来たのだ。
「────っく!!」
荒れ狂うように操縦席に警告が鳴る。視界を埋め尽くすアラートがヘレナの戦いの終わりを示唆した。
「はぁ……はぁ……」
ブロックを背後に追い詰められたヘレナ。人体模倣戦闘機は人型を失くしたとき、同調率の上昇に異常を起こす。
反撃の術がないヘレナに近づくイヴの足音は敗北の音色のようだ。ゆっくりと赤い機体は歩いてくる。
『残念たけど、終わりね』イヴの泣きそうな声。
ダンスの幕切れが心底悔しいというように、<99人>はヘレナの前に立った。
「ナハト、ありがとう」
ヘレナは届くはずのない相手に感謝の言葉を送った。ここで命潰える覚悟──。ヘレナはそれを持ち合わせていた。
『ひとつになりましょう』
イヴはヘレナの機体に触れた。突如として、ヘレナは戦闘機の制御を失った。モーガンが敗北した技術のひとつなのだろう。反撃の手管は──ない。
ヘレナの<ターミガン>の頭を鷲掴みにする構図は、この戦いの勝者が誰か明瞭に示していた。
死ぬ覚悟。戦士に必要な素質。ミック・マクドナルドも、モーガン・ゴールドスタインも、その他大勢亡くなった戦士たちも、皆が持っていたであろう不屈の精神。
きっとナハトはそれを幻想だと言うだろう。人は死ぬときはみっともなく泣き叫んでしまうと、彼は思うだろう。
だから──だろうか。
これはナハトが用意した作戦だ。
死を認めないナハトが立てた作戦は──、
ヘレナを絶対に死なせはしない。
瞬間、ヘレナとイヴは状況を理解できなかった。
イヴの機体の頭部が吹き飛んだのだ。
『なに!?』
──!!!
この場に、イヴを攻撃できる戦闘機や設備はない。そもそも攻撃を与える前にイヴに気付かれない方法など想像もつかない。
けれど現実として起きている異常事態。
続く攻撃を避けるために、戦闘不能のヘレナをそのままにイヴは飛び上がった。
『誰!! 邪魔をするのは!!』
ヒステリックに叫ぶ声は、ヘレナにのみ届く。
状況から察するに──。
『狙撃した戦闘機がいるのはわかってるんだよ!』
狙撃。演習場のブロックの合間を掻い潜り、イヴに攻撃を当てた誰かがいる。援軍は──空にいた。
ヘレナの機体にのみ、通信が入った。
『君が紀村ナハトか? 助けに来た。状況を報告しろ』
「あなたは……誰?」
ヘレナからは到底見つけられない遠方に、その男はいた。
『俺は六分儀学。国連宙軍大佐だ』
◆
人心核アダムが紀村ナハトの正体であるならば、今のナハトには「生前の記憶」が存在する。それはオルガ・ブラウンという天才科学者の生涯であるが、<マザー>なる存在により、オルガの人生全てを追体験することは叶わなかった。
しかし、オルガ・ブラウンにはもう一つの人生がある。
生身の──人間だった頃のオルガと、人心核アダムを取り入れた後の怪物になったオルガ。
ナハトは人間オルガの記憶は断片的にしか持ち合わせていないが、怪物オルガの記録は鮮明に思い出せた。
今でも鮮明に思い出せる。敗北の歴史。
15年前、怪物オルガは梶原奈義という人類最強に、基本プログラムを破壊された。存在ごと否定され、粉々に砕けた。
その一件が、今、この場で最強のカードを導きだした。
15年前の人体模倣研究所で、梶原奈義と六分儀学は、人類最高峰のアクロバットによって戦闘機開発の限界を超えた空前絶後の戦闘を繰り広げた。
軍配は梶原奈義に上がったが、それは六分儀学という英雄の誕生をも意味していた。奈義と拮抗して戦えた者など、彼以外に存在しない。
今、人体模倣研究所で暴れている怪物、人心核<イヴ>を倒すことができるのは二人の内どちらかだとナハトは確信した。
ナハトは人心核と目覚めてネットワークに接続した時、まず梶原奈義を探した。けれど世界中のどこにも奈義に繋がる情報は得られなかった。
次に、探したのは六分儀学だ。幸いにも学は、ここから350キロメートル離れた国連宙軍ロサンゼルス基地に駐在していた。
ナハトは軍の通信システムに潜り込み、学本人にSOSを送り続けた。部隊の編制や作戦を軍が考える時間すら惜しい緊急事態であったため、学個人にメッセージを届けたのだ。
「それに、敵は一対一でしか倒せない装備を持っている。いや……そうなりたいというべきか」
戦闘機同士の一対一を望んでいるなら、最強の戦士一人を差し向けるほうが良い。土俵はすでに敵が構築している。
──ともあれ。
「これが、俺とヘレナの生存戦略だ」
◆
イヴは、強い人が好きだ。
強い戦士を倒し、食らうことで、自らの血肉とする。それが彼らの基本プログラム。
誰にも邪魔はさせない。もし達成できなかった時は──達成できないと悟ってしまった時は、人心核の死を意味する至上命題。
だからイヴは世界最強の戦士を目指してヘレナを求める。
しかし今、イヴは自身にとって最大の危機を迎えつつあった。
「なんなんだ、あいつは!」
演習場の遥か遠く、イヴに向けられた弾丸はこれまで戦ってきたどの戦士とも異なる練度を感じさせた。およそ常人ではたどり着けない最強の一角を担う、別次元の強さ。
あるいは、梶原奈義を除けば最強であったかもしれない英雄の一撃に、イヴは困惑していた。
「知らない! あんなのが突然出てくるなんて、聞いてない!」
血の温度が上がる。偽りの脳ミソは警戒音を強く鳴らす。かつてない強敵を前に、イヴは判断を迫られた。
「来る!」
遠方から聞こえる飛行ユニットの燃焼音。迫りくる絶対強者。イヴが下した選択は──。
「受けて立とうじゃないの!」
迎撃することだった。
イヴはヘレナを置き去りにしたまま、飛び上がり高度を上げた。大空を背後に、陳列するブロックを見下ろす。敵を視認することはまだできない。どこまでも自由な空で、縛られたように硬直する機体。
緊張から額に汗が垂れる。99人分の魂を背負う怪物は、この場ではたった一人の挑戦者でしかない。
「どこにいるの……」
こぼれた言葉に返事をするように、背後に殺気を感じた。振り向くと、一機のターミガンが迫撃砲を構えていた。
──っ!!
いとも簡単に背後を取られた事実に向き合うまえに、回避行動を余儀なくされた。飛行ユニットの急燃焼。宙を舞うイヴ。対峙する敵を視界に収める。試されることなど初めてだった。
敵は一定の距離を取りながら、発砲し続ける。イヴの回避軌道を予測して、自らのリズムを手放さない。
このままではジリ貧だ。それをいち早く悟った怪物は、作戦を変えた。
「逃がさない!」
接近戦。イヴの乗る<フレズベルク>は手に触れた機体の制御を奪うことができる。神鳥の爪は敵の反撃を許しはしない。有無を言わさない一撃必殺の行動に、自らの存在を賭けた。
ブロックの合間を縫うように、逃避を反撃を繰り返す敵。追いかけるイヴは──冷静を失っていたのかもしれない。
だから、敵の技量を見誤った。
急停止から宙返りをした敵は、一瞬にして追いかけていたイヴのうなじの向かって急降下した。
振り返ることが精いっぱいのイヴ。
「………っく!」
敵の手にはナイフだ。何も射撃だけを得意としているわけではないと言わんばかりの、鋭利な一撃。イヴは回避しきれず、右肩の装甲を傷つけられた。剥離して落ちる肩部の装甲は大きな音を立てた。マニュピレーターがむき出しになる。
「なんなんだよ……」
敵からの返事はない。通信網をジャックするのは容易い。イヴの声は届いているはずだった。それでも返事のない相手は、イヴからして怪物のようだった。
「<神の代弁者>はもう使えない……! どうすれば……なあ、みんなどうすればいい!」
イヴは、かつて月が地球に圧殺された時と同じ無力感に襲われていた。月面防衛戦線の存在を世界は許しはしない。梶原奈義が不在の今でも、地球にはこれほどの戦士がいる。
窮地に陥ったイヴは──。
◆
「また……ここで戦うことになるとは思わなかった」
六分儀学は、かつて青春時代を過ごした人体模倣研究所の崩壊を目の当たりにしている。一機の未知の戦闘機が蹂躙した敷地を遠くから眺めたときは、複雑な感情を抱いていた。
学び屋を壊された怒りはもちろんある。けれど、それよりも自分にそれを咎める権利があるのか、少し疑問だった。
人体模倣研究所で、学は梶原奈義に挑み続けた。今でも思う。あの時ほど純粋に戦闘機を操縦したことなどない。けれど、行き過ぎた純度は彼と彼女の関係を壊してしまった。
友達とか、宿敵とか──あの時の関係を表す言葉を探してもどの辞書にも載っていない。梶原奈義は学にとって特別だった。ただ、かみ合わなかっただけ。二人が別々の方向を目指していただけで──。
混じり気のない執着心は、人体模倣研究所を巻き込む騒動となった。学は演習場で実弾を発砲し、爆雷をまき散らした。奈義を殺しかけた過去。
そんなことをしておいて、あのテロリストを止めるのが自分であるという皮肉に、学は笑うことができない。
冗談を言える質でもない。
しかし、冗談のような現実として、助けを求めるメッセージは「オルガ・ブラウンの生まれ変わりを名乗る紀村ナハト」という人物からだった。
オルガ・ブラウンという名を出されて、学は事態を無視することはできなかった。
自分に関係がないと思えなかったのだ。
「紀村ナハト」という人物は、場所、時間、状況、敵の装備を詳細に伝え、国連軍の出撃許可のハッキングまで手配して、学を戦場まで導いた。
訳も分からず戦闘機を駆ってたどり着いた「故郷」で、学はその操縦技術を用いて敵と対峙する。
それが何であるかも頓着せずに、ただ倒す。
◆
「くそっ! くそっ! なんでなんでなんで!!」
怪物が人間であったなら「怒り」と呼んだその情動。強くなりたい。強くなりたいと強く願ったとしても届かない理不尽にイヴの基本プログラムは悲鳴を上げていた。
攻撃が当たらない。敵が捕捉できない。そんなことは初めてなのだ。愚鈍な戦士を殺戮する絶対強者は自分なのだというプライドがボロボロと崩れ去る。
「■■■──!!!」
原始的な叫びは誰にも届かない。
このまま、負けることなど認められるか。深刻な矛盾は人心核イヴの在り方に亀裂を生じさせた。
『基本プログラムに論理破綻の兆候が認められます』
イヴの内側に良く知る誰かの声が響いた。それは、月面時代に彼らを育てた誰かのような──「月」そのものの声と錯覚できる。99人の背景にある月面の民の総意が束となって、イヴの内側に掲示を授ける。
『このまま戦えば、あなたは敗北します』
「<マザー>!! じゃあ、どうすればいいの!」
『あなたは絶命したとき、基本プログラムの論理破綻が決定的なものになるでしょう』
「死ぬ……? 我々が……?」
高みを目指して叶わず消える未来など──。
「ありえない! ありえないわ!」
『逃げましょう。敗北は、論理破綻を助長しますが、次に挑み勝てばよいのです』
月の民が言う、その報復という考え方はひどく似合っていた。地球を許さない彼らの絶叫は、「いつか敵を同じ目に合わせる」という炎に燃えていた。
『あなたは死んではならない』
「……っうう!!」
『さあ』
「……!!!!」
『さあ』
「っ……■■」
『さあ』
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■──────────!!!!!!!!!!」
地獄から轟く雄たけびが、戦場を震わせた。
◆
「なに!」
追いかけて続けてきた敵は、軌道を翻した。演習場がから逃走する道筋を描き、高速で遠ざかる赤い機体。
「……」
敵の後ろ姿に銃口を向けたが、学は周囲に燃える研究所を気にかけた。今、優先するべきは敵の殲滅ではない。そう判断した学は、飛行ユニットの燃焼を弱めて着地した。
崩壊した人体模倣研究所を演習場のブロックの合間から見る。立ち上る煙は雲の高さまで到達していた。
どれだけの人が死んだのだろう。一機の戦闘機が齎した取り返しのつかない破滅。それは宇宙で起きた軍事衛星の破壊と同様の悲しみを生み出した。地球と月の戦争はまだ終わらないと、象徴するかのように操縦席は冷たい。
学は一つ確認しなくてはならないことを思いだした。
「紀村ナハト……話を聞かせて貰わなければ」
◆
格納庫で一人たたずむ怪物、人心核アダムは屋根に開いた穴から空を見上げた。黒い煙の間から除く青色は、彼が見つけた小さな願いに似ていた。
「勝ったぞ……ヘレナ」
これで救われたとは思わない。今も彼の内側にはハリエットが刺した棘が残っている。
人心核は人の気持ちが分からない。それでも──、夢を見てしまった。願ってしまった。
いつかたどり着けるかもしれない幸せを、感じてしまったのだ。
ヘレナはそれでいいと言うだろう。
梶原奈義はきっと、人心核を許さない。人の気持ちが分からない怪物はとく死ぬべきだと、再び葬り去りに来るかもしれない。かつて殺したオルガが生きていたと知ったら顔を真っ青にするだろう。
それでも、ナハトは生きていた。
ここで、心臓を動かしている。
生存は続く。
幸せな最期を遂げるのか、夢を見たことを後悔しながら死ぬのか。
その結末は誰にもわからない。




