基本プログラム
白い空間で一人笑う老人がいた。
深く椅子に座り脚を組む姿は、その世界の王であるような佇まいだ。老人はこの時を待っていたと言わんばかりに高らかに歌い上げた。
「ようやく目覚めたか、ナハト。怪物の担い手よ」
その男はかつて邪悪な行いを裁かれた。死による報いを受けていた。後に救世の英雄と呼ばれる存在に殺された愚か者だった。
曰く「人の気持ちがわからない」。
その烙印を押された怪物はその遺伝子の一辺も残さず抹消されたはずだった。
道具としての存在意義を奪われたのだ。それはすなわち道具の死を意味する。
男は道具としての在り方を選んで、道具としての死を迎えた。
けれど、今も彼の実験は続いている。人心核と呼ばれる作り物の魂が、どんな答えを得るのか世界に問うている。
ゆえに、この空間で座する背徳の王は次代の後継者を祝福する。
「さあ、ここからは君の物語だ」
と言って、オルガ・ブラウンはその場から砂が舞うように消えた。
◆
突如ナハトは強烈な頭痛に襲われた。耐えがたい痛みの中で、これまで培ってきた価値観がねじ切れる音がした。数秒前にヘレナに見せられた一縷の光に誘われて始まった言葉の本流。
数十年世界に在り続けながら、世界と馴染めなかった老人の哀れな生涯が頭に叩きつけられている。超越と孤独、そして理解。全能の神の、矮小な苦悩が回転し、上昇し、螺旋を描く走馬灯。
「ぁぁぁぁああああああああ!!!」
その悶絶は、生まれてくる胎児の泣き声のようだった。断末魔を産声に変える再生が彼の小さな身体で起きている。
目、鼻と耳から沸騰した血液がこぼれ出る。人心核アダムという人間の成り損ないは今、真実に触れようとしている。
────男は産声を上げたときから自我を持っていた。知識を食べるように蓄えていった。言葉も科学も歴史も、知りたいことは山ほどあった。男は幼児の時に既に、自らは天才なのだと理解した。世界の見方を理解した。
男の名はオルガ・ブラウン。
不思議なことに頭の内側から知らない人物の半生が流れ出ていた。
隣でヘレナが心配そうに叫んでいる。しかしその声は聞こえない。聞こえるはずもない。オルガ・ブラウンの生涯を読み込む頭に、外部情報を聞き入れる余裕などない。ナハトの頭に多くの知識と経験が濁流のごとく押し寄せる。自分はオルガ・ブラウンの生まれ変わりだと理屈抜きの事実が叩き込まれる。
それは超越者への手を伸ばす行為に他ならない。受け継がれる人工の魂が解放されることを望んでいた。
「オルガ先生」
『紀村ナハト』
「俺に貴方の力を貸してください」
『初めから君の力だ』
「だったら」
『ならば』
そして魔王は復活する──。
はずだった。
『基本プログラムの危機、紀村ナハトの基本プログラム〈生存〉に論理破綻の予兆が見られます』
「だれだお前は」
その質問はオルガによるものであったかもしれないし、ナハトによるものであったかもしれない。そのどちらにせよ二人の反応は同じだった。
『〈生存〉に論理的な欠陥が生じようとしています。あなたは幸せになるために生きているのではなく、生きるために生きているのです。基本プログラムの拡大解釈は論理破綻を引き起こします』
人心核アダムの覚醒を阻むなにかがいる。脳内に木霊する声は、マグマのようにめぐるオルガの記憶を一息で凍結させた。無視できない絶対的な存在感。まるで同意していないルールに従わなくてはならない理不尽にナハトは──怒りを覚えていた。
「お前は誰だ! 基本プログラムってなんのことだよ!」
『人心核は〈同期〉した脳の持つ人格を蓄えていきます。人心核アダムにはオルガ・ブラウンと紀村ナハトの人格が蓄えられています。そして人心核は蓄えた人格の中から、身体を操る権利を持つ〈主人格〉を定めます』
「そんなことはわかってんだよ! 先生の記憶を、情報を、知識を──生きた証明をなんで俺が受け取っちゃいけないんだよ!」
ナハトはオルガの走馬灯の全てをまだ見終わっていない。虫食いのような断片的な知識でしかない。
『人心核は〈主人格〉に応じた基本プログラムを有します。基本プログラムとは定められた振る舞いのことです。基本プログラムを外れる行動をとることは〈主人格〉の交代を意味します。オルガ・ブラウンを〈主人格〉としていた頃は、〈生前のオルガ・ブラウンの模倣〉が基本プログラムでした。そして──』
早口にまくしたてるその声は、誰かに似ていた。
「質問に答えろよ! てめぇ!」
『記録によるとオルガ・ブラウンは梶原奈義に基本プログラムの論理崩壊を強いられたようです。そして、次に選ばれたのがあなたです。紀村ナハトを〈主人格〉とする場合、基本プログラムは〈生存〉です』
「……誰なんだよ、てめえはよ!」
『紀村ナハト、あなたは今〈生存〉を拡大解釈しようとしている。幸せになるためという文言を恣意的に付け加えるのは私が許しません』
「だからてめえは……」
『私は〈マザー〉。そうですね……人心核のシステムを管理する規則そのものと理解してください』
そしてナハトは不快な声の主が、自分の母親とそっくりな顔をしていることに気が付いた。
「母さん……」
そして、人心核アダムの覚醒は阻害され、ナハトは冷静さを取り戻した。
「はぁ、はぁ、はぁ」ナハトは荒い息のまま興奮から冷めつつあった。けれどその感覚を逃がしたくないと、冷静な頭が悔しかった。
「ナハト、どうしたの?」隣でヘレナが不安そうに座っていた。
「マザー? なんだそれは」
ナハトの精神は強制的に現実へと引き戻された。もう少しで自らの真実──オルガ・ブラウンの生涯を追体験する続きで〈マザー〉と名乗る何者かに邪魔されたのだ。
◆
ハリエットはなぜだか溢れる涙を止められないまま走っていた。ワイヤーアンカーや共振変圧器、戦闘機用の推進剤など武器になりそうな工具が入った革袋を抱える彼女だが、その重さを感じないほど、身体は覚醒していた。
正確には、そんなものよりも心が痛かった。
ハリエットは紀村ナハトを拒絶した。言葉で態度でナハトの精神を粉々に打ち砕いた。
だというのに、あれが正しい選択肢だと、選んだはずなのに──まるで彼女自身の身体が燃えているような痛みを覚えていた。
本来ハリエットは研究所のテロリストを倒すために格納庫に向かったはずだ。そして見事武器類を確保して戻っている最中だ。これ以上死人を出さないための行動だったのだ。正義感溢れる彼女だから発揮できた勇気の結果だった。
なのに、否、だからというべきか。彼女はその正義感でナハトを拒絶した。
道から外れた子供を叱ってやれる言葉を彼女は持っていない。彼女は信念を持たない悪を許すことができなかった。ああするしかなかったと頭の中で呪文のように唱え続けても、引いた引き金の感触だけが嫌に残り続けた。
ナハトと同じ絶望をハリエット・スミスは味わっている。
人の気持ちがわからないという呪いはそのままハリエットに「ナハトの気持ちをわかってやれなかった」という結果として反射していた。
取り返しなどつかない。
行動はなかったことにはできない。
「ちくしょう! ちくしょう! どうしてこんなことになったんだ!」
大粒の涙を蓄えたまま、彼女は研究所のロビーにたどり着いた。刹那的に広がる視界。状況は数分前と変わらない。──エグバードの銃殺死体だけが床に転がっていることを除けば、硬直状態は続いているようだった。
彼女は勢いのまま、ワイヤーアンカーを両手で射出した。
二人いる機械化歩兵の一人に命中する。これがもし火薬で弾丸を打ち込むハンドガンであったならば、赤外線センサーによって不意打ちはできなかっただろう。ハリエットは古典的な工具で機械化歩兵の腹部を貫いた。ロビーの床におびただしい量の血液がまき散らされた。
そして、もう一人の注意がハリエットへ向いた。敵は腕に固定されている超高度マイクロ波銃の照準をハリエットへ合わせた。
咄嗟に彼女は廊下へ続く扉の影に飛び込んだ。銃照射を受けたロビーの壁はわずかな水分を蒸発させ煙を漂わせている。直撃していたらハリエットの身体は内側から四散していたに違いない。
「私は誰も死なせない! 誰も死なせたくないから兵器を作ってなにが悪いんだ!」
ハリエットの叫びにも似た独り言は、この場に沿わない見当違いの内容に聞こえたが、それでも彼女の本音だった。命のやり取りをしている今でもハリエットの頭にはナハトとの会話が巡っている。それはハリエットにとって命よりも重要なことなのかもしれなかった。
ハリエットは自身が抱える袋か推進剤である有機ハイドライドの入ったプラスチック容器を取り出した。
蓋を開けて、身を隠しながら容器を投げた。液体を撒きながら回転する容器は機械化歩兵の足元に転がった。
そして、
「しゃがめ!」と怒号にも聞こえる警告を叫んだ。
人質となっている所員たちで反応できたのは約半分。一秒よりも短い時間の内にハリエットの行動とそれが齎す未来を想像できた人間はほとんどいない。
ハリエットは共振変圧器の先端を、足元にある液だまりに向けて、スイッチを入れた。
バヂッと電撃が刹那的に破裂音を轟かせたとほぼ同時。撒いた有機ハイドライド液体を導火線にして機械化歩兵の足元まで火炎が広がった。有機物の揮発性と空燃比と高い着火エネルギーによって炎は爆轟と化した。
熱と圧力で窓ガラスが次々に割れていった。機械化歩兵はその強化外骨格を身に付けたまま火だるまになっていた。絶命は免れないはずだ。けれど、ハリエットは機械化歩兵たちが言葉を発した場面を見たことがなかったから、人でない怪物を殺した感触だった。
「外に走って逃げろ! 息をするな!」
遅めに作動したスプリンクラーとそれでも消えない熱量。雨の日のような土が水にぬれた臭いに、有機物が燃焼する煤臭さが蔓延している。一酸化炭素中毒になるには十分な煙の帯が人間の上半身を覆っている。泣き声と悲鳴。叫ぶ人。大勢の人が走り出したことによる地面の振動が、心臓の鼓動を速くする。
その風景は決定的だった。
人体模倣研究所の崩壊。暴力にも似た説得力で現実を叩き込んでくる。
立ちすくむハリエットは「どうしてこんなことになったのか」という疑問の前にただただ無力だった。
涙は枯れた。武器を握っていたはずの手はブラリと脱力している。
「どうにかしてくれよ。なあ……」
こうなった原因を探すにもハリエットに情報はない。月面防衛戦線も国連宙軍も、明龍もヒューマテクニカ社も──世界のうねりを引き起こすどんなこともハリエットは知らない。
それでもこんな現実が嫌だった。吐き気がするほどの嫌悪感を現実に対して抱いていた。
絶望の底で彼女が零した言葉は、きっと事態を引き起こした原因を根っこまで掘り下げた場合の結論に近いものだった。
「どこにいるんだよ、梶原奈義! いるなら助けてくれよ! 英雄なんだろう! なあ!」
救世の英雄。人類秩序の最終兵器はいまはいない。ハリエットの声は誰にも届かない。
ハリエットの心は、ナハトを傷つけた正義感の鋭さと目の前の地獄に壊れてしまうだろう。
彼女はそんな孤独から救われたくて、逃れたくて、自分の味方が欲しくて──誰かに理解してほしくて大声を上げた。
「助けてくれよ!!」
そこで、煙の渦から一人の男が飛び出してきた。
「大丈夫かい? 逃げるよ」
男はハリエットの腰に手を当てて軽々と担ぎ上げた。そのまま彼は走り出した。煙の薄い屋外に出ると、青い空がやけに久しく思えた。
「さっきは奴らを倒してくれてありがとう。もう泣かなくていいよ。今度はぼくが勇気を出す番だ」
励ますような口調の男。その顔には見覚えがあった。
──確か、エグバードさんの隣にいた……。
「マイク・ドノヴァン。趣味は人助けだ」
男は冗談っぽく笑って言った。




