梶原奈義の恋愛事情
人体模倣研究所で雇われているテストパイロットの内、国が定める18歳までの教育期間を終えていないのは、奈義と学だけである。
他の三十二人は、軍隊上がりや宇宙飛行士、技術者であり、皆成人済みだ。そのため彼らは「研究補助員」という名目でのみ雇われている。
けれども奈義と学は、通信教育課程を履修する学生である。学生兼業テストパイロット。それは卓越した技能とは別の、研究所における二人の唯一性だ。
であるから――訓練以外の時間は授業を受けなければならない。
歴史の映像授業を受ける二人。部屋正面のホワイトボードには「遅刻厳禁」と記された力強い文字がある。
ルイス・キャルヴィン博士は彼らの予定を埋めるように、授業の監督役を担っている。
といっても、同じ部屋で彼女は彼女の仕事に取り組むだけなのだが――その心中は穏やかでない。
(※読まなくてもOK)
『2090年、国連より宣言された石油資源の完全枯渇。それに伴って残る化石資源のエネルギーとしての使用を制限しました。そこで世界的な競争力を急速に失った中東諸国は、先進国の実質的な植民地となりました。これを国際援助とする意見と文化的侵略とする意見とで未だ対立が続いています。一方で我が国はガス田の発見と採掘技術の発達によって、世界のイニシアティブを取り戻すことになりました』
長々と続く退屈な歴史。目の前の端末から流れる単調な声と、それを説明する教師が移るモニター。思わず講義映像に眠りそうになる奈義。
(※読まなくてもOK)
『世界指導者としての我が国は、110億人を超える世界人口、なお増え続けるそれに対処するべく、AFN(Advancement of forefront of noosphere:人類最前線の拡大)計画を発表しました。これは増える人口と限りある資源、土地の問題を解決する最も有効な手段だと捉えられました。それがすなわち、人類の宇宙移住です。しかしながら、月に構えられた新たな居住区、そこに移動させられたのは、先に述べた中東の民族たちでした。宇宙移民の第一世代は混迷を極めた宇宙開発初期の犠牲者と言えます。ですから、今日の対地球テロ組織、「月面防衛戦線」の台頭は自然な成り行きといえます』
もう駄目だった。奈義は前に突っ伏して睡眠姿勢に入ろうとしたとき。
「はい、そこ寝ない! 授業中ですよ!」
と、ルイス・キャルヴィン博士の叱咤が飛んだ。
ビクッと奈義の肩が小さくはねた。けれど、声の主の目線は隣の学に向けられていた。
「授業が退屈だからといってそんな態度では困るわ。ただでさえあなたたちが遅刻したことで、午前の運転試験のスケジュールに変更が出たのだから……」
説教の手前、未だ鳴りやまない低いいびき。
「あなたに言っているんですよ! 六分儀学!」
奈義はそちらの方向を見やると、背筋を伸ばして、けれども瞳は白目を剥いている学がいた。寝ている。それはわかる。
ただ、寝顔が怖い。白目が怖い。
奈義は学の肩を小さくゆすって、
「学くん、起きて。授業中だよ」
「っは!」と学は目を見開いた。
「申し訳ありません、博士。寝ていたようです」
「知っています」と低い声で応じるルイス。
「ご存知でしたか!」
「いいから、よだれを拭きなさい」
「はい!」
いい返事で応じる一方、本能には勝てなかった学である。呆れ顔のまま博士は自分の仕事に戻った。
奈義はルイスの心情を察する。
『この子たちの遅刻のせいで実験計画の延期は避けられないし、ほかの仕事もあるわ。予定が狂ったからといって、オルガさんの実験は先延ばしできないし、それに……』
大変申し訳ございません。奈義は心の中で繰り返すばかりだ。その思考から博士の多忙さに頭があがらない。
だからこそ、疑問が残った
――普段、勉強の監督はマディンさんなのに。どうして今日はルイス博士なんだろう。
ルイス・キャルヴィンは人体模倣研究、情報セクションのプロジェクトリーダーの一人である。
彼女はなにかと忙しい。それは今更確認するほどのことでもない。では、普段部下であるマディン研究員に任せている、奈義たちの勉強監督という雑用に当たっているのか。
理由を探るべく、奈義はルイスの思考の続きを聞いた。
専門用語が多く、奈義の知らない知識が渦巻く彼女の脳内。それでもいくつかの単語を拾い上げた。
『オルガ、子供、脳、心、偏桃体、テストパイロット、選ぶ、二人から――ハービィ』
「ハービィ?」
思わずつぶやいた。どこかで聞いたことのある響きの固有名詞。
「え?」とルイスは奈義の顔を見た。
ーーしまった。
「なにか言った? 梶原さん」
「なんでもないです!」
「そう……」ルイスは数舜訝しんだが再び自分の仕事に戻った。
◆
「午後の演習には参加できそうだな」
口数の少ない学が珍しく呟いた。そのまま開いた口で弁当のミニハンバーグを頬張った。なんだか少し嬉しそう。
「そ、そうだね」
対する奈義は、弁当の味がわからないほど緊張していた。夢のようだ。これは彼女の思い切った行動の結果に他ならない。
これから三日間通学を共にするのだ。これくらいの接近は自然。なんでもないこと。普通、通常、平均的。
奈義がいつも昼食を食べる場所に学を誘うことなど、彼女にとってまったく簡単なこと――では断じてない。
学は提案に対して「わかった」と短く答えただけだった。
奈義は夢のような現実を飲み込むのに必死だというのに、彼は普段通りだ。
彼女はその差に理不尽な怒りを覚えるも、周りを見渡すとそれさえどうでもよくなった。
奈義はいつも同じ場所で昼食をとる。
ここは演習場とは二百メートル離れた、第二十四実験棟の屋上に設営されたビオトープだ。
この時節柄、アゲハチョウがそよ風に乗り、鼻先を通り過ぎる。
奈義は、土と草の匂いに紛れて生命が息づくこの場が、施設の中で一番好きだ。
少なくとも戦闘機のコックピットよりも、自分の居場所のように感じた。
サンドイッチを口に運びながら、この時が続けばいいと、彼を見た。
「梶原はここによく来るのか?」
「うん、……どうかな?」
彼らのようなテストパイロットは、特別な用がない限り、実験棟に足を踏み入れることはない。
演習場の付属した施設内に食堂や売店があるので、昼食であっても、屋外に出る必要がないのだ。
学は弁当を持参しつつも、いつもそこで食事をしていた。
「悪くない」
たまにでかい虫がいて驚くが――と彼は微笑んだ。
彼女は、食堂も売店も苦手だった。
大勢の人が集まる場所にいくことは、彼女にとっては、騒音の渦中に飛び込むのに等しい。
『声』は近くにいる人ならば、遮断することができない。
そして、騒音というだけであれば、まだいい。
奈義は知っている。
多くの人の心は、現実に口にしている言葉とはかけ離れている。
誰しもが、大小あれど、やましい気持ちや隠したい内心から、嘘をつく。
奈義は、その小さな嘘が苦手だ。
彼女は、そんな誰とも共有できない潔癖症をもっていた。
彼女は、この場、この時間を愛していた。
彼は奈義にとって特別だった。
――学くんは……嘘をつかない。
思ったことは口に出てしまう。
だから彼女は、そんな真っ直ぐで、嘘みたいに本当のみで生きる彼が好きだった。
奈義は今朝、タクシー内で聞いたラジオの内容を思い出した。
「自然の美しさ、か……」
声に出すと、凡庸なセリフのような気がした。それでも、きっとこの美しさは、言葉以上の意味を持つ。
「そろそろ、演習場に戻るか」と彼は弁当箱を閉じた。
奈義ももう食べ終わっていた。
彼女は今、心底残念そうな、捨て犬のような顔をしているだろう。自分でわかる。
だって、手が動いたのだ。
「梶原?」
彼女は座ったまま、彼の袖を小さく掴んでいた。
「もう少しだけ……ここにいよ?」と、申し訳なさそうに彼女は言った。