紀村ナハトは人の気持ちがわからない
全速力で走るアルバ。その後ろに続くハリエット。不意を突かれた二人の機械化歩兵。
その疾走はなぜだか、ゆっくりと動く世界の中で周囲を鮮明にした。
思えば──アルバのこれまでは怒りと共に走ってきた物語だった。
人心核イヴ。ハワード・フィッシャー。その二人に心臓を掴まれている極限状態をもう五年続けている。その間、少しも憤怒の火が衰えたことなどない。
正義感とか世界平和とか、月の権利問題とかそんなものの一切に興味がない。
月面防衛戦線がどんな組織であろうと、ヒューマテクニカがどんな兵器を作ろうと、どうでもいい。
たった一人を救えれば──それだけで。
◆
アルバ・ニコライは月面で生まれた。両親はヒューマテクニカ社の研究員で月面研究所に勤めていた。
父親は寛容な性格でおおらかな笑顔を思い出せた。母親は間違ったことが許せない性分で知恵と勇気を教えてくれた。
アルバは彼らの元に生まれて後悔したことなど一度もなかった。
子供時代、当時の宇宙を考えると裕福な暮らしを享受していた。清潔な部屋で十分な電力を使い、美味しい食事にいつでもありつけた。親の会社の制度を使えば、格安で高度な医療を受けられた。
医療。
そう、アルバ達家族は目的があって月面に移住したのだ。
アルバには妹がいた。
名前はソフィア・ニコライ。彼女は筋肉の病に侵されていた。少しの運動で筋肉が破壊されうるジストロフィーに似た症状を呈している。彼女は月面の6分の1という弱い重力下においても車椅子で生活することを余儀なくされていた。また、神経に作用しているが分かっており、機械化手術も効果が望めないことが予想されていた。
彼女の幸せな生活のためにはヒューマテクニカの医療技術と低重力環境が必要だった。
「お兄ちゃん」
「私は大丈夫だよ」
「一緒にいてくれて、ありがとう」
そんなささやかな言葉をアルバは何万回と聞いてきた。小さく、不完全な身体で必死に生きる姿を見ているだけで、アルバはどんなことにも耐えられた。彼が妹のために生きることを選択したことに、劇的なきっかけはない。
けれど、子供の頃の記憶の数々が、日々の積み重ねが、彼にそう思わせた。宇宙がどんな環境でも、地球が妹を拒絶しても、アルバだけは味方でいると、幼い決心を育てていた。
そんなアルバの覚悟を試すように、五年前に月で戦争が起きた。
──〈静かの海戦争〉。
月面防衛戦線というテロ組織は、地球ごと相手取る一大抗戦を決行した。一夜で月は地獄に変わった。
月面防衛戦線によってヒューマテクニカの研究所は襲撃されたらしい。アルバとソフィアは帰らない両親を家で待っていた。
戦争終結後、父親は研究所で銃殺されていること、母親は減圧でミイラになっていることがわかった。
親の愛も、庇護も、思い出も、感謝も、この日を境にアルバにとって過去のものとなってしまった。幸せだった日々は終わりを告げた。
けれど、既にそこに存在しない感傷に浸っている暇など彼にはなかった。
まだ、ソフィアが残っている。世界で最も守らなければいけない人が、彼の隣にまだいること、それがアルバの覚悟を鋼鉄の強度へを押し上げた。
しかし、現実問題としてソフィアを存命させる手段がない。医療施設は戦争で機能を失っていた。加えて、両親の死によってそれらを受ける資格も彼らにはなかった。
そこで、アルバの元に、正体不明の怪人が現れた。
名をハワード・フィッシャー。
アルバはその悪魔の名を一生忘れることはない。ハワードが、アルバとソフィアにしたことを、なかったことにできるはすもない。
ハワードは言った。
『アルバ君、君は優秀だ。ぼくに協力してほしい。対価はもちろん支払う。君の妹をぼくが救おう』
救うと──その白い男はのたまった。その男はあまりにも救世主然とした風貌に似合う、言葉だと思った。その実、救うという言葉の通り、奴はソフィアの病気を対処療法や延命処置ではなく、完治させるという意味で使っていた。
アルバは、その提案を疑わなかったわけではない。完治させる手段とハワードのメリットを考えた。
ハワード曰く、『君の妹に〈人心核〉というデバイスを埋め込む。すると神経系が回復する。その後は全身の機械化手術が施せる。リハビリも含めて三か月で治療が終わるだろう』
ハワードは続けた。
『その代わり、完治した妹もぼくに協力してもらう。月面防衛戦線、テロ組織だ。世界の敵になる覚悟があるなら、ぼくのもとに来なさい』
まさに悪魔の交渉だった。どうしても妹を助けたい。ソフィアと、倫理や正義感を天秤に乗せた。
答えは────始めから決まっていた。
そして、アルバはハワードに協力することを選んだ。この選択をアルバは一生後悔することとなる。
ソフィアは数十分の手術を終えて、そのまま機械化手術を受けた。一週間意識を戻さず安静にしていた。そして目が覚めたソフィアは──。
「我々はイヴ。あなたの妹さんの身体貰ったわ。ありがとう」
屈託のない笑顔で怪物ははにかんだ。妹は人心核イヴに精神ごと喰われた。
アルバを怒りが支配した。よくも騙したな。ソフィアを返せ。誰が別人を復活させろと言った。
その直後、アルバはハワードをの殺害を試みた。しかし、イヴはハワードを守る盾になる。妹の身体を使ってアルバを阻んだ。
「ハワードに何かしたらお兄ちゃんを殺すわ」
「殺すのは困る。アルバ君には働いてもらわなければ」
ハワードとイヴ。怪人と怪物に主導権を握られたアルバ。
その日からアルバの目的は「ハワードの目を盗み、イヴから妹を開放する」こととなった。
◆
その後、イヴとの作戦が多くなったアルバ。イヴは自らのことをこう話した。
「人心核ってのは、言うならば寄生虫ね。
難しい理屈はわからないんだけど、人間の身体の中に入ると、その人の脳みそを食って脳みその代わりになっちゃう。そして宿主から新たな宿主へ移って行って、たくさんの脳みそを食べていくってわけ」
「どうしてそんなことするんだ」
「そんなの我々に聞かないでよー。ハワードがそうしろって言ったのよ」
「……お前はこれまで何人喰ってきた」
「今、ちょうど100人。99人とあなたの妹ソフィア」
「お前は、その百人の内の誰なんだ」
「さあ? でもソフィアちゃんを取り込んだ後と前であんまり変わらないから、ソフィアちゃんの魂は弱かったのかな?」
「お前……!!」
「そんなに怒らないでよ。お兄ちゃん。また、ソフィアちゃんに会いたかったら、彼女の魂に期待することね」
◆
「抜けた!」とハリエット。
「ああ!」アルバは言った。
人体模倣研究所の第三十三研究棟の廊下を走る二人。アルバ・ニコライは死地から逃げ延びた今でも、冷静だった。
──〈ドウターズ〉が俺を傷つけることはない。あの場からテロの首謀者とバレずに抜け出すにはこうすることが最も自然だった。
アルバはあの機械化歩兵たちをドウターズと呼んでいた。ハワードは用意した量産兵士らしいが詳細は知らない。作戦に使えるツールだと思って扱っている。
「裏口から出て、〈病院〉に向かおう!」
「わかった!」
とは言ったものの、アルバは一人になるためにハリエットから別れたかった。
──ドウターズの一人をこちらに向かわせるか。
アルバは、手首の皮膚に埋め込んだ通信機のボタンを押した。
すると、背後からガシャンガシャンと機械音を立てながら追跡者が走ってきた。
「くっ……! 速度をあげるよ、アルバ!」
「いや、いい」
アルバは立ち止った。
「死ぬぞ!」
「先にいけ! ここは俺がくい止める!」
「……」ハリエットは、数秒アルバの顔を見た。そして「わかった」と再び走り出した。通路の先で小さくなる後ろ姿を見送って、アルバはため息を一つ。
隣にいる機械化歩兵に向かって「仕事の時間だ」と告げた。
◆
ナハトは〈病院〉に行くまでの道中で繰り返される回り道にスタミナが切れかけていた。
「はぁ……! はぁ……!」
言葉すら紡げないほど荒い呼吸。膝に手をつくと、地面に汗が数滴落ちた。
生き延びるという強烈な意思だけでは肉体の限界を超えることはできない。第三十三研究棟2階の西側にある掃除用具ロッカーで一分ほど休憩する。〈病院〉まではあと少し。渡り廊下を超えた先にある。
『ナハト、早く移動しなさい。敵がいる。もう一度屋外に出る』
「……! はい、先生」
『いや、待て。状況が変わった。今は──』
ナハトはがロッカーの扉を開けると、そこにはハリエット・スミスがいた。大きな荷物を背負っていた。そこからは銃のマガジンがはみ出ていた。多量の武器が入っているらしい。
彼女も走っていたようで、息を切らしていた。
「ナハト……」
「ハリエットか。みんなどうしてる」
彼女は質問に答えない。停電した廊下では彼女の表情に暗い影ができる。そして静かに、言った。
「ナハト……、いくつか聞きたいことがある」
「なんだよ。緊急事態だ。早くしてくれ」
「お前が戦闘機データを抜き取っていたって聞いた。本当か?」
「……!!」
ハリエットの表情は今にも崩れそうな少女のそれに見えた。きっと何かを強く信じているんだろう。誰かを信じるというのは、きっとこういうことなんだとナハト自身が知っていた。期待が身勝手なものだと知っていながらそれでも、あなたの在り方はこうであってほしいという願望。
涙までは見せないハリエット。彼女はナハトの答えを待った。
「誰から聞いた」
「私の質問に答えろ。戦闘機のデータを抜き取ったのか?」
「……ふう」
ナハトは息を深く吸い込み、天井を見た。
──俺の何を信じているんだ。始めからわかっていただろう。あの行為自体、俺の生活を潤すための小遣い稼ぎだ。別にそれ以上の目的があるわけじゃない。俺は悪党だ。それ以上でも以下でもない。
そんなことは、始めからわかっていた。
だから、今更、目の前の女がどれだけ怒り、むせび泣いたところでナハトの知るところではない。
「事実だ」
とナハトは短く言った。
そこでハリエットはナハトを睨みつけた。楽天的な彼女でもこんな顔ができるのか、感心した。
「抜き取ったデータはどうしていたんだ」
「高値で売れたんでね。俺の小遣いになった」
「どうして!」
ハリエットはそこで声を荒げた。
「どうしてそんなことをしたんだ!」
「どうしてって……」
ナハトには強い動機は何もなかった。誰かを守るでも、貫きたい正義もない。犯罪を正当化できる理由が何一つなかった。
そして特段それが良くないことだという発想もなかった。目的のない人間だっている。
ただ、なんとなく生きて、目的もなく生存するだけの人間だって、確かにいるのだ。
だから正直に答えた。
「理由は……特別ないな」
「お前は! 今! 研究所が襲撃されていることと無関係だって言えるのか!? 兵器の情報を売り渡して、敵が攻めてきた!」
「そりゃ飛躍だ。俺は関係ない。だって俺がデータを売っていたのは明龍だ。月面防衛戦線じゃない」
「月面防衛戦線が明龍を騙っている可能性は!? お前は戦争屋に情報を渡した。それは事実なんだろう!」
「だったら! だったらなんだっていうんだ!」
ナハトもつられるように大声を上げた。そこには紛れもない本心が含まれていた。
「──………………!!」
ハリエットの頬に液体が伝っていた。絶望によりも深い、苦悶の表情だった。
そしてナハトには、その顔が、かつての母親の顔に見えた。
ナハトは戦闘機技師という役割を与えられた。しかし、それはただの期待だ。応えるかどうかは自らの自由であることには変わらない。
だというのに、ハリエット・スミスは──紀村ナハトを諦められずにいた。
「私は、お前は悪い奴じゃないって信じていたよ。弟のように思ったときだってあった」
「だからどうした」
「お前の仕事は見事だったよ。その若さで立派だって感心した」
「だからどうした」
「お前は意外と根性あるし負けず嫌いだから、結構好きだったんだぜ」
「だからどうした」
ハリエットは消えそうな声で、か弱く笑った。
「だから、お前を殺す。死にたくなかったらさっさと失せろ」
彼女は荷物から銃を取り出した。
ハリエットの放った銃弾は床を抉った。
「……!」
彼女はゆっくりと歩いてナハトに近づく。
「もうこの際、お前に改心してほしいなんて思わないよ」
その瞳は、戦闘機技師の誇りや研究所を守りたいという思いによって澄み渡っていた。
強烈な目的を持って生きる人々がいる──例えば、このハリエット・スミスのように。
「だが、これだけは言わせてもらうぞ。どんなに技術があって、どんなに若く未来があったって、目的意識のない悪党は何も得ることはない。お前はそんなこともわからない。お前はわからないんだよ」
そして次のハリエットの言葉でナハトの情緒は木っ端みじんに砕かれた。
「お前は、人の気持ちがわからない!」
◆
「あああああああああ!!!」
ナハトは身も世もなく大声を上げて走っていた。ハリエットから逃げ出した彼は、研究所を走る。
意味もなく、目的もなく。
ただ生き延びるために。




