十分間
時間は少し巻き戻る。テロリストの奇襲から数分ほど遡る。
紀村ナハトは第33研究棟から出た敷地内の広場にいた。これから始まる凄惨な未来とは程遠い浮ついた気持ちを引き下げて──。
午前中に出会った名前も知らない彼女のことを考えていたのである。
「見つからない」
もう一度会いたい。話がしたい。その一心で仕事もサボタージュして、大きなコンテナを積んだトラックを探していた。
あの数時間前に感じた電撃のような感覚はなんだったのか、確かめたい自分がいる。
ナハトはここまで他人に対して能動的になったことはなかった。
彼女の挑発するような瞳に、釣られてやりたい。底知れない怪物性が怖いくらいに魅力的だった。
客観的かつ端的にこの心の動態に名前を付けてしまえば、恋である。
ナハトは自らの内心をそう表現するほど自覚的ではないけれど、彼女を探す歩を休めることはない。
「どこにいるんだ」
『彼女を探しているのか』
「先生は居場所がわかりますか?」
『ああ、ナハト、第三十三研究棟の演習場に行け』
「演習場? 戦闘機でも乗っているんですか?」
『その通りだ』
ナハトは演習場に視線を送ったとき、空まで轟く火炎の炸裂を目の当たりにした。
────!!
続く、押し寄せる風圧と粉塵に身体が吹き飛びそうになる。ナハトはしゃがんで衝撃に耐えていた。
「何? え? 何だよ、これ!」
演習場まで四百メートル程度離れているナハトは、視界に収まりきらないほどのきのこ雲を目の当たりにしていた。焦げ臭さなんて表現では足りない硝煙でむせ返りそうになる。口にハンカチを当てて、中腰で移動を試みた。
『ナハト、逃げるぞ』
「先生!? 逃げるってどこに!」
『敷地の外だ』
「はい!」
ナハトは繰り広げられる地獄に背を向けて走った。
◆
走って数分で、オルガ先生がこれまで発したことのない怒号を上げた。
『ナハト! 反対方向に走りなさい!』
全速力の人間は急には切り返せない。反対方向とは先に爆発があった演習場方向であったこともあり、ナハトはひどく困惑した。
「なんでですか!」
『今すぐ!』
そしてその忠告が正しいことを数秒遅れて気が付いた。
ナハトの足元が弾けた。咄嗟に見ると地面が抉られていた。ミミズばれのように細い傷跡がアスファルトに刻まれている。
──銃撃!?
そして前方を見る。そこには対人用強化外骨格を纏った黒服がいた。バイザーのついた覆面を身に付け、自動機関銃を構えていた。
本能的な反応だろう。ナハトは近くにある自動販売機に身を隠した。すると、それごと貫通せんばかりの殺意の弾丸が撃ち込まれた。
「先生! あいつら誰ですか!?」
『テロリストだ。私の言う通りに逃げなさい』
重装備の歩兵が走る駆動音に恐怖感が付きまとう。障害物を隔てた向こう側にいる殺人者が忍び寄る。
『第三十三研究棟の〈病院〉を目指しなさい。研究所はすでに敵兵に包囲されているだろう。正門から出ることはできないため、外壁を登る必要がある。登る道具は戦闘機格納庫にある。まだ破壊されていない格納庫は〈病院〉しかない。そこで、コンクリート用のワイヤーガンがあるはずだ。それで外壁を登って研究所を脱出する』
「……わかりました!」
『走れ』
ナハトは言われた通りにした。自動販売機を盾にしたまま、隣の建物の裏に回り込んだ。
『右』
逃走は終わりの見えない迷路のようだった。けれど足を止めることは許されない。生き延びなければならない。死ぬわけにはいかない。
『扉を開けろ、解除コードは……』
建物から建物へ、通路から通路へ。時には計装室や掃除道具箱の中でやり過ごすことさえあった。道中で初めに会った武装テロリストを目撃することも一度や二度ではなかった。研究所内は奴らの手にとっくの昔に堕ちている。
「はぁ……はぁ……」
生き延びなければならない。生き延びなければならない。生き延びなければならない。
強烈な本能がむき出しになっているから、疲れなど感じなかった。この戦場から生存すること以上に大切なことなどない。紀村ナハトの生命が失われることだけはあってはならない。ナハトの内側からあふれ出る欲求が、彼に驚異的なスタミナを与えていた。
そして屋外に出たそのとき、研究所内に怪物の声が木霊した。妙に聞き覚えのある、危険な響きが含まれていた。それは数時間前にナハトが恋した女の子の声にそっくりだった。
『我々は月面防衛戦線。あなたたちへの要求はただ一つ。梶原奈義の戦闘データを寄越しなさい』
「あの子が……実行犯なのか!」
その事実に吐き気がした。世界のままらなさや、自分の思い通りにならない不都合がナハト眉間にしわを作った。そして妙に納得する自分にも反吐がでる。極大の怒りと共に大声を上げたい衝動に襲われた。
「あの! あのトラックは! テロの道具が詰まっていたんだ! 襲ってきたあいつらも全部全部、あの子が運んできた! ちくしょう、なんだよ、それ」
いつも空を泳いでいる鳥は、いない。異常事態なのだ。逃げたに違いない。当たり前だ。
それでも神の視点からナハトを俯瞰したとき、この少年はなんと滑稽なのだろうと──そんな感想を抱くだろう。
なにが恋だ。何が魅力的だ。何がもう一度会える、だ。
「俺の生存を邪魔するやつは全員許さない」
ナハトは目に涙を浮かべながら、再び走った。
◆
第三十三研究棟のロビーは張力のかかる糸のような緊迫した空気が支配していた。
ロビーに集まって公開演習を観ていた所員たちは、一か所に集められ三人の対人用強化外骨格を身に付けた兵士に囲まれていた。
奴らは戦闘機格納庫の爆破と同時に押し寄せてきた。威嚇発砲にとどまらず、数人の職員の足を撃ち抜ていた。うめき声と床に塗りたくられた血液が、この場を尋常じゃないものに変えていた。
それからは人体模倣研究所のプロジェクトリーダー、整備班長やその他スペシャリスト、さらにヒューマテクニカ社CEOであっても、その役職をはぎ取られ、ただの人質としての意味しか与えられいない。
皆平等に殺戮の空気に飲まれている。泣き出したり、失禁したり、皆それぞれで色とりどりに恐怖を表現していた。
暴力と武力による戦慄。ひと昔前の月面では当たり前だった死の展覧会を体験したことのない地球人らしいわかりやすい絶望だった。
その中で、エグバードは現状を打開する策を模索していた。
──助けをくるまでどれくらいだ。私たちに何ができる。
人々の上に立つ人間の意地だろうか、非常事態の専門家でもない彼は必死に考える。
そこで、隣にいる彼の秘書、マイク・ドノヴァンが小さく耳打ちをした。
「すでに国連空軍基地に直接信号を発しています。征圧部隊が到着するまでおそらく30分ほど要するでしょう」
「そうか」一瞬安堵したが、それでも現状は変わらないことを思い出した。
敵の要求は「梶原奈義の戦闘データ」ということらしい。エグバードも梶原奈義という伝説の戦士の名前くらいは知っている。けれど、どういう経緯で人体模倣研究所とその関係はわからなかった。エグバードは副主任のマディン・オルカーを見た。
敵の要求を飲むにしても、そうでないにしてもマディンの決断が必要だった。
マディンと目が合った。彼は額に汗を浮かべながら、小さく頷いた。
そして一歩前に出て言った。機械化歩兵たちの注意はマディンに向けられる。
「月面防衛戦線の皆さん」
『貴方は誰?』
「副主任研究員のマディン・オルカーと言います」
『副主任? あなたより偉い人はいないの?』
「それは……」とマディンは言い淀みながら「彼は爆発の時、ここではなく格納庫にいました」
『ああ、そう。死んじゃったのね』
マディンは続けた。
「梶原奈義の戦闘データですが、確かにあると思います。しかし、彼女が研究所にいたのは十五年前です。その時から現在まで何度も管理システムの更新をしているため、探す必要があります。それまで待ってはいただけないでしょうか」
すると、先に要求を轟かせた少女の声がロビーに響いた。
『何分かかる?』
「三十分ほどいただければ」
エグバードは三十分という数字に傾聴し、その会話を聞いていた。
──三十分さえ稼げれば……。
『駄目ね。待てない。国連が来るもの』
「……!!」
見抜かれている。
『十分で用意しなさい。それを過ぎたら三分ごとに一人ずつあなたたちを射殺していく』
──!!
今の発言でロビーは戦慄に包まれた。男性の大きな泣き声が聞こえた。運命を受け入れまいと、人々はむき出しの人間性を隠せなかった。動物は死を目の前にするとこうなるのか、とわかりやすい実験だった。
とても正気でいられない。誰もがこの場を自分の墓場だと錯覚したとき、マディンは言った。
「わかりました。モニタールームに行かせてください」
『いいわ。なるべく早く見つけなさい』
機械化歩兵の一人が、近づいてマディンの胸倉をつかんだ。
「ぐぅ!!」
そしてそのまま、足のつかないマディンを運んでロビーの階段を登って行った。
◆
ハリエット・スミスは連れ去られるマディンを眺めるしかできなかった。彼女の隣にはちょうど同僚が脚の出血でうめいていた。本当ならば止血してやりたいけれど、その自由すらこの場にはなかった。
一時間も経てば失血死するだろう。床に塗りたくられた鮮血が天井の照明を反射している。
ハリエットは周囲を見渡した。マディンを連れて行った歩兵が減ったため、この場には二人のテロリストが自分たちを見張っている。
──一体今、何ができるの。
マディンの活躍次第で死人は減らせるかもしれない。けれど彼女自身だって、敵の気分でいつ殺されても不思議ではない。
そこで思い当たる。
「アルバ・ニコライ」
現状でどうにかするためには、テロリストから支配を逃れるためロビーから移動しなくちゃいけない。武器を取りにいくとしても、監視されている現状では話にならない。この場から抜け出す算段が必要だった。
そして、ここにはあの紀村ナハトを信じられない身のこなしで打ちのめしたアルバ・ニコライがいる。
彼ならばどうにかして、ロビーを抜け出せるのではないだろうか。もちろん死亡するリスクはある。けれど、このまま何もしなくて縋れる何かなどない。
ハリエットは、注目されないようゆっくりとアルバの元まで移動した。
「なあ」ハリエットの声かけ。
アルバは眉間にしわを寄せながら「……ハリエット・スミスか」と応じた。
「歩兵が一人減った。この場から逃げよう」
「……いい考えだが、できると思っているのか。こっちは丸腰だ。威嚇射撃でなく本気で殺そうとしたら俺たちは、超高度マイクロ波銃で木っ端みじんにされるぞ」
それこそ、血袋が破裂するように原形が残らない死体となるだろう。
「だからお前に話かけているんだ。お前運動得意だろう」
「そういう意味か……」
アルバは切り返す。
「で、外にでてどうするつもりだ」
「武器を取ってくる。格納庫にならあるでしょう。まだ〈病院〉がある」
「それなら、まだ外でやることがある」
「何よ、それ」
「俺はこの事件が起こしたテロリストとの内通者を知っている。そいつを殺す必要がある」
「──!! 誰よ」
「紀村ナハトだ」
「ナハトはそんなことしない!」
「お前があいつをどれだけ信用しているか知らないが、あいつが研究所に勤めてから348回、戦闘機からデータを抜き取っている。証拠は戦闘機のログデータと推進剤重点帳簿の不一致だ。紀村ナハトが整備しているときだけそれが起きている」
「そんな、こと……何かの間違いだ!」
「別にお前がどう思っても関係ない。外に出るというのなら、紀村ナハトから情報を聞き出して、後悔させながら殺すしかない」
「……なにかの、間違いよ」
「この事件でどれだけの人間が死んだ。そのツケを払わせるんだ」
「会って確かめないと……私はまだ信じてる」
「勝手にしろ」
そして、ハリエットは虚ろな瞳のまま、決意をした。自分で答えを得ないと死んでも死にきれないのだ。なにもわからないまま、この世を去りたくない。戦闘機技師の誇りとか、同僚の信頼を守りたい。
なぜなら、彼女はそのために生まれたとすら思っていたからだ。
戦闘機を作って、多くの人を守るために生まれたと、強く信じていたからだ。
だからこそ、同僚のナハトにも同じ気持ちを持ってほしかった。
そこで、エグバードが群衆から飛び出して言った。
「あと4分で一人目を選ぶんだろう。始めは私だ」
機械化歩兵たちはエグバードに銃口を向けた。
そしてアルバはハリエットに小さく言った。
「いくぞ」
ハリエット・スミスとアルバ・ニコライ、二人は走りだした。




