嵐の前の
たとえば──。
オルガ先生という超頭脳が紀村ナハトに味方していなかったら、どうだろう。傲慢で背徳的な少年に力がなかったら、どうだろう。
きっと、平凡に────ほどほどに世界を呪いつつ、それでいて義憤に駆られてなにかをするわけでもない平凡な誰かになっていた、と。
ナハト自身がそう思う。
自分は大した人間じゃないことはわかっている。虎の威を借る狐。先生に頼り切りの腰巾着。
どうしてもっと真っ直ぐ生きれなかったんだろう。
ベッドに横たわって目を閉じたナハトは、そんな望んでもいない仮定を考える。あるいは本心かもしれない。
アルバ・ニコライに投げ飛ばされたからなのか、梶原ヘレナに出会ったからなのか、ナハトはこの頃、自分の生き方を振り返る機会が多い。
────そもそも俺はどうやってオルガ先生と出会ったんだ。
その問いは彼の記憶の急所とも言えた。
以降の思考は、まどろみの中で行われている。だから彼の思い出は、言葉にするより説得力を持って彼の頭に映し出される。
『ナハトは頭いいわね』と母の声。
『それは母さんのおかげなのよ』
「ありがとう、母さん」
その母親らしい人の顔は、白く塗りたくったように不自然な光が隠していた。
『いいこね、ナハト。私のナハト』
「どうして僕には、声が聞こえるの? オルガって人の声が聞こえるんだ」
『きっと良くないものよ。無視しなさい。その人よりも母さんの話を聞いてね』
「分かったよ、母さん」
そこで視界はぐにゃりと歪む。視界が開けると場面が変わっていた。
『脈拍、正常。脳波に異常なし』
激しい光を背に何人かの大人たちが見下ろしていた。診察台の上にナハトは横になっている。きっと何かの手術なんだと、今になって思う。
『埋め込みは成功した』
────埋め込みってなにを……。
僕に、俺に何を───。
そしてまた視界は歪む。時系列はきっとバラバラで、印象の強さで並び変えが行われているんだろうか。全身が乾いていくような夢だった。言葉よりも、記憶よりも、はっきりと、明確に、否、それでも意味はわからない。
ただただ、情報が情報のまま、解釈されずに垂れ流される。不確定の流体。形のない夢。
そして、次のははっきりと覚えている。病院の一室だったと思う。僕はベッドで寝ていた。目を閉じていた。でも起きていた。会話が聞こえたんだ。
『実験にご協力いただきありがとうございました』と白衣の男は言った。
『いえ、十分な金額をもらっているわ』
『ナハトくんの安全だけ気を付けてください。彼には成長してもらわなくてはならない。もちろん経済的な支援は行います』
『ありがとうございます』
母さんはなんの話をしているんだ。わからない。でもきっとこの白衣の人たちが僕に『何か』を埋め込んだ。取り返しのつかない何かを────誰か、を。
『やあ、ナハト』
「こんにちは、あなたは誰?」
『私はオルガ──オルガ・ブラ……ウ』
「え、待って。聞こえないよ。どうして僕の中にいるの、出てってよ!」
『私は君に力を与えよう。生き延びるために。生き延びるために。生き延びるために』
老人は言った。
『なぜなら、君の基本プログラムは……』
そこでまた、視界が変わる。水性絵の具を水で流すように、景色は色合いが混ざりながら消えた
再び現れる母親。
その表情は苦悶に歪んでいた。親の仇を見るような目で、こちらを睨む。怒号が飛んだ。
『どうして! どうしてこんなことするの!』
「まって、違うんだ。母さん」
『あんたは、人の気持ちがわからない!』
その言葉で、目の前が砕けた。一瞬にして現実に戻された。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
『どうしたナハト』
目を覚ますと自室のベッドから見える、見知った景色があった。荒げた息は次第に収まっていく。
頬に伝っている涙は、幼児が親に許しを請う無力の味がした。
「夢を……見たんです。先生はどこから来たのか、そんな夢を」
ナハトはオルガ先生がいつから、なぜ自分に宿っているのか、聞かないようにしていた。その問い自体重要でなかったから。どうでもいいことだったから。
だから、ナハトはこの瞬間、禁断の問を口にした。
「先生は……どうやって生まれたんですか?」
『私は初めから君の中にいた』
「本当ですか」
────嘘だ……。俺の耳に先生を埋め込んだやつがいる。
『……私は君から生まれた』
「……本当はどうでもいいことなんだけど、いいはずなのに。これをはっきりさせないと、今回の仕事で先生がどこかに行ってしまう気がするんです……」
『私を信じろ……ナハト』
「……はい」
この時抱いた疑念は、後々に萌える小さな種となって、ナハトの内側に残ることとなる。
◆
ヘレナはナハトが去った部屋で一人、端末を操作していた。彼女は現在任務中だ。現状と進捗を上官に報告しなければならない。
この場合の上官とは任務を発令した人物であり、ルイス・キャルヴィンという得体のしれない明龍情報部の者である。
「紀村ナハトに接触。人体模倣研究所に潜入」
メッセージは明龍独自の暗号化を経て届いているはずだ。
「ルイス・キャルヴィンって人は……きっと行方不明になった母さんを探しているはず。きっと、だから私なんだわ」
軍事衛星〈マルス〉へのテロ攻撃によって宇宙は緊迫している。世界はもう一度消えた英雄を求めている。それを探すことができるのは──梶原ヘレナ、自分自身だと信じている。
──母さんは、どうしていなくなったの? そもそもどうして私と一緒に暮らしてくれたの?
あの共に過ごした海と風と、凪に包まれていた生活の果てに、姿をくらましたのはどんな事情があるのだろうか。
痛みや後悔があったならば話してほしい。一緒に過ごした時間が、ヘレナを奈義へと導く動機になっている。
この世界を偽物だと言った彼女だけれど、今もどこかで生きている。ならば──ヘレナは諦めない。
そこで、ヘレナの端末へメッセージが届いた。
『ご苦労。人心核の捜索の状況を報告せよ』
ルイス・キャルヴィンから送られてくる内容は短く、感情が入り込む隙はない。本来任務の連絡はそうあるべきだが、この任務はきっと違うとヘレナは思う。
なぜなら、この任務にヘレナを選んだ理由が「梶原ヘレナならば梶原奈義に近づける」という感情的な願望に違いないからだ。
「現在、人心核の詳細を特定している人物と接触中。人心核とは……梶原奈義の少女時代の戦闘データのこと、ですね」
奈義は端末に向かってそう話した。それは文字に変換されて送信された。
返事は数分後に来た。
『人心核は、梶原奈義の少女時代の戦闘データではない。それを話した人物は誰だ』
──そんな馬鹿な! なにかの間違いよ!
だから。
──だから、私をこの任務に割り当てたんじゃないの? 私が梶原奈義の娘だから……。
「紀村……ナハトです」
端末に向かって話すヘレナの唇は震えていた。
◆
アルバ・ニコライは人体模倣研究所第三十三研究棟のオフィスで、端末のモニターを閉じた。
蛍光灯だけが明るい部屋で白衣の少年は、ため息を一つこぼして立ち上がる。彼以外の職員は皆帰宅した午後十一時。そろそろ警備員が戸締りに来る時間だ。
「この、施設には梶原奈義のデータはもう……ない」
アルバはかつて研究所にいた梶原奈義の戦闘データを探している。しかし、それらは何者かによって存在しないものとなっている。アクセスできないのか、削除されたのか。どちらにせよ、アルバは壁に当たっていた。
自分ひとりでは限界が近い。それは他でもないアルバは自覚していた。
アルバ・ニコライは月面防衛戦線の工作員である。任務の失敗は自らの破滅を意味する。州警察に捕まるのか、ハワード・フィッシャーに始末されるのか、アルバの人生は狂うだろう。
────否。
否定の言葉は地の底から響く怒りを帯びていた。
────違う。アルバ・ニコライの人生は初めから狂っている。
アルバは自分がどうなってもいい。その身が砕けても、腕がもげても関係ない。
ただ一人、たった一人だけを救いたい。世界や自分や、ハワードの思惑もこの際彼にはどうでもよかった。
「人体模倣研究所の研究員」という肩書は、彼を正確に表していない。
「ヒューマテクニカ社の出向者」という肩書は、彼を正確に表していない。
「月面防衛戦線の工作員」という肩書は、彼を正確に表していない。
すべて、アルバ・ニコライの本質を射抜いていない。
彼はただ一つの目的のために生きている。
夜の研究所の通路は暗くて、昼間よりも狭く長く感じた。人工の光は彼の顔に影を作り出す。
──もうすぐ、イヴが来る。
彼の力だけで任務を全うすることができないならば、組織は増援を寄越す。アルバはその怪物が訪れることに対して複雑な感情を抱いていた。
生理的に受け付けない痛みを、より大きな苦しみを避けるために選ぶ、そんな敗北感。
なぜならイヴに頼るということは──。
研究所棟から駐車場へ続くドアをくぐると、夜空が見えた。都市の平地を避けて建てられた研究所は、標高がやや高いことも合わせて、よく「星」が見えた。
燃焼するデブリと恒星の差は人間の眼では判断は難しいだろう。地球から見れば宇宙で起きている争いなんかそんなものである。こんなに遠く離れた場所から見る苦しみなど、対岸の火事以外のなにものでもない。
アルバの故郷は遠く離れた月にある。電波の速さでも数秒のラグが生じる遥かな真空。
月面の歴史のように、アルバの内側には苦しみと情熱が乱反射している。
自らの自動車のもとに向かって歩く、数歩の間に考えた感傷は幾度となく繰り返されてきた思考だ。
視線を地面から前方に移す。
────!
そこには、人影があった。少女のように小柄な立ち姿。忘れるはずもない。
「どう……して」
「やあ、お兄ちゃん。久しぶり」
「なんで……早すぎる! どうしてお前が」
「どうせ、お兄ちゃんは我々に頼るしかないんだから、いつ来ても変わらないでしょう?」
我々と、少女は自分ひとりのことを、そう呼んでいるらしい。我々という一人称単数は、少女の怪物性をそのまま表していた。
だから、少女を──そのまま少女と捉えることはそもそも間違っている。この怪物の名は──。
「人心核〈イヴ〉……!」
イヴは口角を釣り上げて、アルバを見つめた。今食べようか、まだ残しておこうか悩むような捕食者の瞳でアルバに言った。
「衛星をぶち壊しても、国連軍を襲っても、明龍と戦っても、骨のあるやつはいなかったわ! 強い奴と戦わせて! お兄ちゃん」
◆
その日の夜は歴史に残る日の前触れだった。
なぜなら、次の日を境に人体模倣研究所は跡形もなく、消え去るのだから。
嵐の前の、すべてが狂う前の──静かな夜だった。




