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いつか夢見る人心核  作者: かめったろす
一. 紀村ナハトの生存戦略
16/134

紀村ナハトのデュアリティ

 強烈な目的を持って生きる人々がいる。


 何かのために、誰かのために、引けない願いを叶えるために。


 それは結構、どうぞそのままでいてくれればいい。けれど、その推進力を他人にまで要求する行為には反吐が出る。


 自分の生きる理由はこれだと瞬き一つなく真っ直ぐ言える人種は、意外にもこの宇宙に大勢いるらしい。生きている熱量をそのまま一つのことへぶつける特攻野郎。大願の前には自分の命さえもかなぐり捨てる覚悟の亡者。


 はっきり言って、理解を超えている。付き合いきれない。


 紀村ナハト。十八歳の少年は人体模倣研究所、第三十三研究棟の職員食堂でモニターに映るニュースを見て、そんな感想を抱いていた。


 甘みの強いエビチリを口に運びながら、繰り返し表示される一大報道を眺めていた。


『国連宙軍の所有する軍事衛星〈マルス〉が大破しました。死傷者はいまだ人数が確認できていませんが、相当数であることが予想されます。現在、大破前の警備映像の解析が行われているようですが、生存者の証言によると、一機の戦闘機が旋回していたとのことです。また、現在までテログループによる犯行声明はありませんが、軍はいずれかのグループによる襲撃を受けたという見解を示しています。追って現場からの中継を続けます。デブリの様子ですが―――』


 テロ組織は、現状に対して不満があるから行動を起こす。それは目的意識がなければできないことだし、命をかけるほどの熱意が不可欠だ。


 ナハトはそういう「すべてを犠牲にしても成したい目的」を持つ人間にいい感情を抱かない。軽蔑しているとすら言っていい。

 

--よく疑いもなく、そこまで信じられる。


 嫌悪感の理由は本人でさえわからない。今までそれを言葉にすることを怠ってきたのだから当然だ。


 ただ、それはいい。ナハトの心象に関する長年の問に今すぐ答えが出るとは思えない。


 ざわめきが揺蕩う食堂でナハトが一人異質な点は別にある。

 

 ナハトはその事件が起きることをはじめから知っていたように、冷静でいた。

 

 大事件を前に特殊な気持ち悪さを抱く一方で、驚きさえしないのはどういうことか。


「やっぱり、先生が言った通りだ」


 ナハトの呟きは周囲の驚嘆にかき消された。いつも通りに食事の手を止めない。驚くべきことも、あらかじめ知っておけば驚くに値しないという、達観した態度だ。


 そんな相変わらずのナハトの正面の席に見知った人物がドカッと座った。


「よう、天才少年」


「……天才少年はやめてくれ、ハリエット」


「ハリエットじゃねえ、ハリエットお姉さん、だ」


「長いよ」


「そりゃそうだ」とナハトの先輩技師に当たるハリエット・スミスが、カハハと笑った。


 彼女はサンドイッチと山盛りのサラダが乗ったトレーをテーブルに置いている。


「天才少年をやめるなら、どっちを残せばいい? 少年にしとくか」


「俺は十八歳だ。八つ上のお前から見れば、そりゃ少年かもしれないけど、職場でそう呼ばれるのは不愉快だ。技師に年齢は関係ない」


「なーに真面目に返してんだよ! だるい先輩の絡みなんざ、流しとけ流しとけ」


「自分で言うのか……」


「それより、よ」とハリエットは開けた胸元をかきながら切り出した。


「ニュース見たか」


「ああ」とナハトはスープを啜りながら目を合わさず答えた。


「驚いたよ」


 小さな嘘を付いた。


「ああ、これだけデカいテロ行為は久しぶりだな。……ニュースでは犯行声明はまだ出てないと言われてるが、世界中の誰もが察してる。十中八九やつらだろ」

 

 所詮は対岸の火事なのか、呆れの混ざった言葉を続けた。


「月面防衛戦線」


「だろうね。でも、世界の敵はすでに壊滅したんじゃないのか?」


 ナハトは自分ですら信じていない世界の共通認識を言う。

 月面防衛戦線というテロ組織は、五年前に国連宙軍によって掃討されているはずだった。

 かつて起きた〈静かの海戦争〉では月面防衛戦線のリーダーの死体を確認するところまで徹底したという。


「まあ、そりゃ過去の話だ。現に今、宇宙でドンパチが始まろうとしてるし、こんな真似するのは連中か、連中の残党としか考えられねえよ」


「まあ、確かに」


 ハリエットはこちらの表情を窺い、数拍おいて続けた。


「つっても、私たち地球には関係ないね。衛星がぶっ壊されたって、大統領が暗殺されたって、なにもない普通の一日は続くわけ」


「そうだね」


「遠い宇宙の話は、そっちでやっていてくれって感じで、無関心決めようぜ」


「そうだね」


 そこでハリエットは語気を強めた。


「甘ったれんな! お前それでいいと思ってんのか?! ああ?」


「ええっ」


「いいわけあるか!」


「どうしたんだよ、急に」


「私たちは戦闘機技師だ! 軍属じゃあないが、仮にも人殺しの道具を作ってる。そんな私たちが無関心なのってどうなのよ」


「さっきまで真逆のことを言っていただろ、お前」


「あれはあんたの表情から読み取ったあんたの本音だ。そういう顔してた、お姉さんはわかるんだよ」


「……」続く沈黙が、ナハトの図星を示していた。


「国連宙軍の最新鋭機が敵を殺しても、それに乗ってるパイロットが殺されても同じだよ。味方か敵かは問題じゃない。……少しでも戦闘機で死ぬ人間がいる限り、それは私たちと関係がある。そう気持ち、あんたにもわかるだろ?」


 なるべく目を合わせないつもりでいたが、つい上目遣いでハリエットを見たら、その表情は真剣そのものだった。


 その瞳は、自分の理念を信じて疑わない、ナハトの苦手な狂信者のそれだった。光に向かう人間の迷うことない眼差しだ。


「なに、ムキになってるんだ」


 ハリエットの熱弁を鼻で笑うことはできなかったが、それでも茶化さずにはいられなかった。


 ナハトは右耳たぶを指でいじりながら、気持ちの落ち着きを図る。


 そうやって自身を保っているように、ナハトは軽口を続けた。


「お前、誰かに頼まれて戦闘機を造ってるのか? そんな気疲れのする考えは誰かから金を貰わないと持てないね。誰かの受け売りか?」


「私は本気で言ってんだよー! この生意気少年がー!」


「痛い、痛い、この! 離せ」


 ハリエットがナハトの頭を鷲掴みにして、髪の毛をくしゃくしゃした。


 職場というのは、年の差が身分の上下と結び付いているから、ナハトの不満は溜まる一方だ。


 先輩であることに加えて、技師としての責任だの、使命だの、そういう話題が好きな手合い。ナハトもそろそろ疲れてきたから、話題を変えたかった。


 そんな気持ちを読みとられたのか、ハリエットはナハトの顔を見て、ニヤリと笑った。


 その視線はナハトの頬の傷に向けられていた。


「午前は大層な喧嘩だったそうじゃないか、ええ? 少年」


 とっさに傷を手で隠すナハト。これはまさに恥以外のなにものでもない。


「まあまあ目立ってたぞ。重機の音に紛れても、格納庫は声が響くからな。なかなか派手にふっかけたじゃないか。男の子め」


「それ以上言わないでくれ……。これでも反省はしている」


「別に喧嘩を咎めたいわけじゃねー。むしろ連中にはトサカきてたところもある。あえて反省点をあげるなら、私たちオーディエンスが賭ける前に、始めないことだ」


 カハハと、意地の悪い笑いを漏らすハリエット。完全に面白がっている様子だ。


「……見せ物じゃない」とうなだれるナハト。


「まあ、あれだけ無様に負ければな。あんたクビにならないだけまだマシだと思うよ」


 ナハトはいい加減耳が痛かった。


 思い出すのも嫌になるが、話題にあげられてしまった以上、意識的に頭に浮かび上がる地べたの冷たさと敗北感。


 あれは、ナハトの職場、人体模倣研究所第三十三研究棟の二番格納庫で起きた小さな喧嘩。そう、宇宙で起きたテロ行為とは比較にならないほど小さく、個人的な諍いだった。


        ◆


 その日の午前、ナハトは格納庫で戦闘機の整備に当たっていた。


 人体模倣研究所第三十三研究棟の二番格納庫には、膝を折りベルトに固定されている人型戦闘機が陳列している。


 戦闘機には太いケーブル類が胸部に繋がれ、様々な解析や試験が行われている。


 せわしなく動く作業着姿の技師たちと、それを眺めながら端末を操作する白衣姿の研究員。


 この空間は、埃と油に汚れているが、それでも整然とした英知に支えられた人類最先端科学の坩堝である。


 その静かな熱気は、有機ハイドライドの臭いと冷媒の放つ水蒸気に溶けていく。


 重機の駆動する低音と巻き取られるチェーンの高音。


 雑多な騒音に紛れる働く人々の声は、怒っているような楽しんでいるような、どちらか判別がつかないようではあるが、真剣なことだけは確かである。


 そんな人々がひしめき合う場所でナハトは、自分の担当機の操縦席にいた。


「お前はどうしようもないやつだ」


 ナハトの仕事は、人型戦闘機における通信系のメンテナンスである。受信、発信機器を始めとする外部装置から、内部の伝達やシステムの調整まで、求められることは多い。それでもナハトはそれらを完璧にこなし、熟知している。

 

 けれど、他人から見たら申し分ない仕事振りとは無関係に、ナハト自身は戦闘機を「未完成品」と認識している。


「お前はひとりではなにもできない木偶の坊だ。パイロットに乗ってもらわなければ歩くことすらできない、人に迷惑をかけるだけの赤ん坊だ」


 国連宙軍も未だ実戦投入していない最新鋭機HFー17〈ターミガン〉の操縦席で各種通信系のチェック、その作業をナハトは小さな独り言とともに行う。


 ブツブツと口を動かすナハトは端から見れば、与えられた玩具に夢中になる子供のようですらある。


 愛玩しつつ、その対象を罵倒する。倒錯した心持ちに思えるが、簡単な話、できの悪い子ほど愛らしいという心理に近いかもしれない。


 それもそのはず、ナハトから見れば人型戦闘機などという高々人類最新鋭止まりの人工物は驚くに値しない。


『ナハト、誰か来る』


 ナハトの右耳たぶから小音量の声がした。右耳の皮膚に埋め込まれた極小のスピーカーだ。


「はい、先生」


 ナハトは声の主を「先生」と呼んだが、それはさながら神に対して敬虔に応える教徒のようだった。


 操縦席のディスプレイは周囲の景色を表示する。格納庫を白衣で歩く人物がこちらに向かって歩いてくるのがわかった。


 おそらく研究員。ナハトに用事があるのだろう。


「紀村ナハト技師」


 と地上から呼ばれたのがわかった。ナハトは操縦席のハッチを開き、戦闘機の背中から顔を出した。


 そこで初めて、研究員の姿をしっかりと認識した。


 明るい髪色、鼻が高い。背丈はナハトよりやや高く、それでも若さを隠しきれない、成人しているかギリギリといったような年齢か。つまり、ナハトと同年代だろうか。若く見えるだけという線もあるがーー。


「紀村ナハト技師!」


「え、ああ、なんでしょう?」


 ナハトはケーブルリフトを使わずに、慣れた身のこなしで戦闘機の背中から地上に降りた。

 

 近くで見ると、やはり若い。そしてもう一つ、気づくことがあった。


ーーヒューマテクニカ社の社員バッジ。


 白衣の胸には人体模倣研究所ではない、外部から派遣された研究員であることがわかる。


 ヒューマテクニカ社。人型戦闘機の開発も手掛け、人体模倣の先駆け的な役割を担う、巨大企業である。


「なにを呆けている。話していいか?」


 社員バッジには「アルバ・ニコライ」と名前が印字されていた。


「ええ、なんの用ですか?」


「こちらの規格のNM変換ユニットを君の〈ターミガン〉に搭載しろ。それが終われば、パイロットと試験を行う予定だ。君の端末に試験内容を転送した。確認しろ」


「……」アルバ・ニコライの高圧的な言に眉を潜めながら、ナハトは端末を見た。


「……これ……ですか? この変換ユニットは半年前に試してますよ。別システムとの不適合が発覚して不採用になった。なぜもう一度試す必要があるんでしょうか?」


 アルバ・ニコライはため息一つ、ナハトの目を見て声を低くした。


「おい、技師。黙ってやれ。話は以上だ」


 アルバ・ニコライの有無を言わせぬ態度にナハトはーー。


「いや、話は終わってない。その変換ユニットはオタクらヒューマテクニカ社の製品だろう? それは欠陥品だった。半年前のそれからなにを改良したか説明してもわらなければ、仕事はできない」


 負けじと剣呑な返答をした。アルバの顔を見ると、彼のなにもかもが気に入らない風にナハトは思えてきた。


「……おい、技師」


 とアルバ・ニコライはナハトの胸ぐらを掴んだ。額と額とが近づきそうな距離で続けた。


「二度は言わんぞ。しばらくすると、ここ人体模倣研究所はヒューマテクニカ社に買い取られるのは知っているな? 職を失いたくなければ、言うとおりにしろ」


「技師じゃない。紀村ナハトだ。頭いいんだろ? 覚えたな?」


 この睨み合いの辺りから周囲も気付きだし、彼らに心配そうな視線を送っていた。


ーー今思えば、初対面同士でよくもここまで不仲になれると驚くばかりだ。


 ともあれ、先に仕掛けたのはナハトだった。


「そういえば、オタクらの部品、他にも不備が見つかったんだが」


 と格納庫の壁にある部品が雑多に置かれた机を指差した。


「なに?」とそちらに歩こうとしたアルバ。


 その歩みを、ナハトはひょいと足をだしーーアルバを転ばせた。


 膝と両手をつく形で、アルバは留まる。

 

 周囲の人々にざわめきが走った。


 額に青筋を浮かべて振り返るアルバ。分かりやすく激怒しているのが窺える。


「貴様……」


「悪い悪い、わざとじゃないんだ。許してくれ」


 申し訳なさそうな演技で、ナハトは手を差し伸べた。

 

 が。


 アルバはナハトの手をとった。


 そこから先のことは、実はあまり覚えていない。


 アルバに手を引っ張られて、顎に衝撃が走り、視界が暗転した。鳩尾に堅い棒で突かれたような痛みが襲い、吐き気や目眩を感じるより速く、ナハトは宙を、舞っていた。

 

 なにをされたか全くわからない。


 それはもちろん、アルバ・ニコライという研究員にやられたということくらいは理解できた。けれど、それだけだ。意識が追いつく前に、全ての攻撃は終わっていた。


 気が付けば、全身に痛みを伴いながら、格納庫の地面にうつ伏せになるナハトがいた。


 後から聞いた話だが、アルバはナハトの顎と鳩尾に一撃ずつ掌低をめり込ませたあと、身体ごと投げ飛ばしたのだという。アルバは一瞥もくれず、無言でその場を去ったらしい。


 これが、午前中に起きた紀村ナハトの小さな敗北の一部始終だ。


        ◆


「アルバの動き、あれは素人のそれじゃねえらしい。映画の真似でできる芸当なんかじゃなかったってよ」


 ハリエットは面白がりながら言う。彼女はナハトの後に食べ始めたのにも関わらず、すでに皿を空にしていた。


「ハリエットはあんな言われ方をして黙ってられるのか?」


「え? うん。大人だし」


 意外な返事と思いながら、それはそうかとあう納得も少なからずあった。


「あんたはまだ子供で、アルバ・ニコライもまだ19歳のガキンチョだ。あれは子供同士の諍いさ。あんたも悪いがあいつも悪い」


「……」


「つってもアルバ・ニコライの方がこっぴどく注意されてるだろうがな」


 ハリエットの言った、ナハトはまだ子供とう言葉が、妙な悔しさがあった。言い返したいが、受け入れる自分もいる。ナハト自身が自分が未熟であることを認めてしまっている。


 しばしの沈黙。依然、食堂は賑わいが消えない。先程の報道された事件の内容が殆どだろう、普段より落ち着きがないように感じた。よく喋るハリエットが黙ると、途端に会話は途切れてしまう。


 なにを考えているのだろうか。わからない。


 フォークで空いた皿の底をつついて、ハリエットは口を開いた。


「人体模倣研究所がヒューマテクニカ社に買い取られることは、私もおかしいと思う。それでもやることは変わらない。いい戦闘機を作ること、それに乗る人が少しでも長く生きられるようにすること、それだけだ」


 だから、とハリエットは続けて。


「ありがとうな」


 と小さく呟いた。


 これにはナハトは混乱した。


 わけがわからない。人の気持ちがわからないのは今に始まったことではないが、文脈くらいは掴めていたつもりだった。けれど、今はハリエットの感謝の意味が見つからない。


「あんたが怒ってくれたことで、私も少しスカッとしちまったんだよ」


 ハリエットは大人なのか子供なのか、わからない笑みを浮かべた。


「ま、負けたけどな! 次はもっと賢くやれよ。天才少年」


「だから天才少年は止めろって……」


 そこで、ハリエットの後ろから巨大な影が差した。蛍光灯の光を遮るように大男が立っていた。


「紀村ナハトくん、少しいいかな?」


 低く落ち着いた声の主は白衣を着ていた。


「マディン副主任……」


「あ、マディンさん、こんちは」


「はい、ハリエットさんも、こんちはです」

 

 マディン・オルカーは人体模倣研究所第三十三研究棟の副主任研究員、実質的なナンバー2である。


 主任とは違い、現場にもよく顔をだし、技師や他の研究員たちを束ねている、信頼厚い人物である。


「……ナハトくん、今朝の喧嘩の件はすでに聞いている」


 マディンのかけている眼鏡は光を反射して、彼の表情を隠している。


「はい」


「年のことは言いたくないが、まだ若いようですね。もう少し頭を使って過ごしなさい。君はもっと賢くなれるはずだ。今よりずっと……」


「すみませんでした。けれどそれは、過大な評価ですよ」


「私は君を信じていますよ」


「……はあ、どうも。気をつけます」


 会話はそれだけだった。マディンはなにを食事するわけでもなく、その場を立ち去り、ナハトたちだけが残された。


 二人も午後の仕事がある。ナハトが食べ終わり、食堂を出る。


 その時、周りを見渡したら、胸にヒューマテクニカ社のバッジを付けている職員が普段より増えてきたことに気が付いた。




 人体模倣研究所は合衆国の国立研究所だ。国の予算で運営されている。

 その中の第三十三研究棟は、人型戦闘機の研究に取り組んでいる。

 けれど、現在。五年前の月面紛争、いわゆる〈静かの海紛争〉が終結したことによって世論は軍縮の一色に染まった。

 そこで合衆国は防衛費の削減を回避するため、広報的に軍事に関わる研究所の閉鎖を打ち出した。

 合衆国の狙いは研究の質を下げずに、世間的に研究所の閉鎖を示すこと。

 すなわち、戦闘機研究の民営化である。

 そのあおりを受け、人体模倣研究所第三十三研究棟はヒューマテクニカ社によって買い取られる運びとなった。


 2169年、人体模倣研究所第三十三研究棟は静かに形を変えようとしていた。




        ◆



 午後の二番格納庫。ナハトは相変わらず担当機〈ターミガン〉の操縦席にいた。


 昼食はハリエットに捕まったから、ようやく独りの時間を取り戻したナハト。仕事の内容は午前中と異なり、ディスプレイ周りの点検だ。


 黙々と作業をこなす一方で、ナハトの頭にはハリエットの言葉がこびり付いていた。


『いい戦闘機を作ること、それに乗る人が少しでも長く生きられるようにすること、それだけだ』


 彼女は本気で、そう思っているらしい。


 だから、技師になったしここで働いている。実に筋の通った話だ。綺麗なくらい矛盾がない。


 では、自身はどうだ。信念めいたこだわりや、目的があるだろうか。


 答えは始めから出ている。紀村ナハトにそんな情緒の持ち合わせはない。


 現に今も、ナハトは背信的な暴挙に出ようとしていた。


『ナハト、今だ』


 彼の耳たぶから小さな声がした。悪魔の囁きのようだと、もしかしたら表現されるかもしれない、老人の声。


「はい、オルガ先生」


 ナハトは袖から保存媒体データスティックを取りだした。


 それを迷うことなくディスプレイ横にある端子に突き刺す。ディスプレイにはデータが複製され、保存媒体に保存される様子が表示されていた。


 ナハトは人体模倣研究所の研究者によって日々更新されるシステムデータを抜き取ったのだ。ナハトはデータの抜き取りが終わったことを確認して、保存媒体を再び袖下に隠した。


 その間、四秒弱。


 再びナハトは何食わぬ顔で作業に戻った。もちろん研究所で働く人間として、重大なルール違反である。雇用規約に反するという以前に、犯罪ですらある。


 ナハトはなにも頭がおかしくなって犯行に及んだわけでは断じてない。これは彼にとって日常だ。


 データの抜き取りが明らかにならないよう十分な細工している。


「ハリエットが知ったら……どうするのかな」


 ナハトは益体もない独り言を漏らした。


 戦闘機技師として誇りを持つハリエット。彼女はいつか言っていた言葉を思い出す。


『技師としての罪は三つあるんだぜ……。無能であること、諦めること、そして、誇りがないことだ』


 その言に倣うなら、ナハトは間違いなく戦闘機技師失格だろう。


 能力はある。諦めるには若すぎる。けれど、誇りは――戦闘機技師としての自負は微塵もありはしない。


――そんなものは金にならない。


 ハリエットは、きっとこんなナハトを知って、悲しむより説得するより、手が出るだろう。思い切りナハトを殴り飛ばすに違いない。


「はは……下らない」


 そう、下らない。どうでもいい。彼女がナハトを責めたところで、なにがどうということもない。


 すべてはナハトの信仰する『先生』の言うままに行動するのみだ。


 そう折り合いを付け、作業を続けるナハトの手は、その日の午前とは比べ物にならないほど淀みなく動いた。


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