幕間 母の腕の中
この章から、主人公が変わります。
白い空間に、紀村ナハトはいた。
ナハトは18年間続いたその人生に、今まさに幕を引こうとしていた。
だから、白い空間がどういう場所か、直感的に理解できた。ここが天国か地獄かは問題ではない。生という断崖から飛び降りたその先であることだけわかれば、どちらでも頓着しなかった。
白い空間では自分の肉体さえ輪郭がぼやけてしまう。それほどに虚ろな感覚がナハトにまとわりついて離れない。
遠近感が掴めない。ナハトが立つ大地の地平線さえも白に紛れて、その果てが計れない。無限に終わらない彼だけの世界。それは自由で広大な視界とは裏腹に、ひどく狭い牢獄のように思えた。
ナハトはその世界において、何かを感じているという実感さえ乏しかった。
熱い寒いを感じる前に温度というものがなく、明るい暗いを捉える前に、光というものがない。
ただ、そこにいる。それだけがナハトの有する感覚だ。
夢と現実の境では、どんなことでも起こりうる。
ナハトは白い空間で目を凝らした。最後に会って話をしたい人物がいる。彼はその顔を思い浮かべて、念じた。
するとどうだろう。なにもない空間、その純白の視界のど真ん中に、椅子へ腰かける小さな老人がいた。
初めからそこにいて、認識すると現れるという不条理に対して、ナハトは「そういうものか」程度に受け止める。実質、この空間では何が起きても不思議ではない。
元来、常識なんてものに執着する性分でもなかった。
「先生……」
老人はゆっくりと顔を上げて、その影に隠された深い眼でナハトを見つめた。
「先生ではない、オルガと呼べと何度もいったろうに」
呆れたように老人は口角を上げた。
「先生は、先生です。俺は貴方に会いたくて……」
「私と君とは対等だ。畏まる必要もない」
私が初代で、君が二代目というだけ。そう呟いた老人は白い空間の天を仰いだ。それもまた果てがない。そこは上下すら判別できない無謬の白さが支配する場。老人もまた、そこに囚われていた。
「三代目は、席を君に譲ったようだが……、この空間には都合三人の記憶が蓄積されている」
その言葉に、ナハトは嫌悪を隠しきれない。老人へでない。自分への殺意にも近い憎悪が沸き上がるのだ。この身、否、この魂はなんと罪深い愚者のそれなのか。だからこそ、ナハトは自害を選んでここにいるのだ。
「三人目は、俺に肉体だけを譲りました」
それが我慢ならなかったから、逃げだした。託された責任も、背負わされた使命も、なにもかもをかなぐり捨てて、紀村ナハトは死を選ぶ。
「俺は、俺に全部を託して消えた彼のためになにかできるような人間じゃないんだ! 誰かの気持ちを慮ることなんてやってこなかったから、誰かを大切にしたことなんてなかったから! 俺は誰かの気持ちを背負えるほど、殊勝な人間じゃないんだよ! だから、俺は……ここに」
「死にに来た」
老人の瞳は深くて暗い。その闇がナハトの弱さを逃がさない。
「……そうです」とナハトは項垂れ、膝をついた。
ここまでの旅路で、多くを失ってきたのだ。大きな犠牲を払ってたどり着いた答えが、今ここで自分の魂ごと消え去るという自棄なのだ。誰もナハトを責められない。あれだけの失意を経験して、誰もナハトに「諦めるな」と言えないだろう。
もっとも、ナハトを責めうる、あるいは鼓舞しうる人々はもう――いない。最後に一人残ったのが、彼だった。
ナハトは孤独だ。そして誰もナハトの孤独をくみ取れる人間はいない。その事実に、ハワード・フィッシャーに刻まれた呪いに、己自身に、諦観を含む怒りを覚えている。
ハワード曰く、『人心核は人の気持ちが分からない』。
人の気持ちを理解できない怪物が、孤独から逃れたいなどとよく言えたものだ。まず自分からして、人に寄り添うことなどしないではないか。人間の成り損ない。心を持たない、絆を持たないヒトの劣化模倣。それが紀村ナハトの本質だ。あるいは――人心核アダムの真実である。
そんな自分が嫌で、許せなくて。死んでしまいたいほどの孤独感に耐えられなくて。
ナハトは今、ここにいる。
「私もかつて死んだ身だ……。死は孤独で、苦しい。あの苦痛を前にして、私は一匹の動物に成り下がった。あらゆる尊厳が奪われる真の闇だ」
オルガはとっくの昔にハワード・フィッシャーによって殺害されている。ナハトより多くの時間、この空白の世界の住人でいた。経験者は語る。死の恐ろしさと無意味さを。
「で、あるならば」と老人は語調を強めた。
「君の死も私に聞かせてはくれまいだろうか。無論、私も君の一部だ。全てを同じ視線から見てきている。しかし、だ」
白い空間――人心核アダムの心象領域、その最深部。
「君の言葉で聞かせてほしい」
語り部は一人、紀村ナハトという非人間。
「君が歩んできた物語を」
聞き手も同じく一人、オルガ・ブラウンという怪物。
その物語に意味はなく、希望もない。ハッピーエンドは期待できない。ただ一人の少年が終わりに向かうまでを書いた、遺書の朗読に過ぎない。
だから、そのストーリーに一つ簡単な帯をつけるならば。
「聞かせてくれ、紀村ナハトが死ぬまでの物語を」




