幕間 Iの探究者
その視界に色はなかった。何もないという認識がある。死後の世界だと言われれば信じてしまうほどの、広大な無があった。宗教で語り継がれるような荘厳な裁判所でもなければ、喜びに満ちた楽園でもない。ただの広大な白い砂漠だった。
老人はそこにいた。
彼はこの場所が何を意味する牢獄が知っていた。機械仕掛けの寄生虫に脳髄を食われた結果なのだと、誰より彼が知っている。なぜなら、そういう風につくったのだから。
肉体から意識は離れ、螺旋を描いて霧散した。風に遊ばれながら舞った塵は、彼自身の輪郭を象った。意識だけがよりどころであり、存在を手放さない唯一の命綱。
そのような虚無の嵐に、老人は──オルガ・ブラウンは無感動にたたずんでいる。
「客人を招く真似でもしたらどうだ」
彼はこの空間に座する神に対して不遜な態度をとった。神を生み出したのはオルガではない──彼の部下であるハワードという男だった。
他人から与えられた信仰をオルガは無価値と断ずる。これは彼の戦争だった。
決定的な敗北の直後であろうと、老人の眼は全く戦意を失っていない。
ここは牢獄であろうとも、ハワードの計画を内側から食い破るつもりだった。それがこの、非人間の──極めて利己的な超頭脳のプライド。
たった一人、この空間で彼は時を待つ。
しかし、ルールは彼の気概を汲むことはしない。システムに乗っ取ってことを運ぶ。それが与えられた使命だからだ。
そう、使命。役割、意味、道具としての存在意義。システムは老人に問うた。
『あなたの基本プログラムは何ですか?』
「──!」
その問いかけに彼は初めて驚きを見せた。
「お前は…………」
『私は〈マザー〉。人心核アダムに蓄積された人格を管理するシステムです』
「いや、そうではない。お前は──」
オルガは知っていた。ハワード・フィッシャーが設定した人心核の仕組み、〈マザー〉による人格の管理がどういうものか、既に知識として得ていた。けれど、これは予想外。
〈マザー〉は人格にとって最も内部に根差す誰かの声を真似るのだ。
後に人心核アダムに蓄えられる紀村ナハトという少年の場合は、母親だった。
では、オルガは?
この背徳の王の内部に巣くう誰かは一体──。
ここで重要な点は、その誰かとは、重要な人物ではないという点だ。始まりであっても中核ではない。根差していても葉には届かない。要するに始まりの誰か。出発点と言える些細な記憶。
オルガは忘れていた。
ダーシャという女を──。
◆
2116年、ダーシャ・チョープラーはヒューマテクニカ社新事業開拓室、主任研究員オルガ・ブラウンの秘書だった。当時40代だったオルガは社内でも多忙を極める重要人物だった。多くのプロジェクトの中心に彼の頭脳を置き、皆施しを頂くようにオルガに助言を乞うた。ダーシャはそんなオルガのスケジュールを管理し、ヒューマテクニカ最高の頭脳のリソース配分を担っていた。オルガに会いたければダーシャに伺いを立てることは必須であり、社内社外問わず、その厳しい審査を通らなければならなかった。
ダーシャは元々、研究員として入社したエリートだった。有名大学院で生化学の論文を多数アクセプトさせた輝かしい学生時代を見てきた彼女の同級生ならば、きっとヒューマテクニカでもその手腕を発揮するだろうと思っていた。誰も秘書などという小間使いを進んで行うとは思っていない。ダーシャは自負の強い女性だった。だから、他のどんなエリートを前にしても、打倒してひれ伏せるくらいの胆力があると信じていた。
結果は違う。
彼女は入社して七年ほど、研究員として働いた後──オルガ・ブラウンという怪物に出会ってしまった。オルガは技術コンサルとしてヒューマテクニカで雇われた後、正式に入社。彼女と同じ研究員となった。
そこで、ダーシャの人生は大きな方向転換を強いられた。
オルガ・ブラウンは化け物だった。
人間の頭では一生辿り着くことができない遠くを見ているようだと、彼女は思った。
つまり──ダーシャの瞳は、オルガ・ブラウンという極光に潰されたのだ。
挫折というには祝福に満ちていた。彼女はオルガ・ブラウンのために生まれてきたと錯覚するほどだった。
だからこそ、秘書としての自分に誇りがあった。オルガが無駄なことに時間を割くことが何より許せない。では、無駄ではないこととは何か。
会社の利益に繋がることか。否。
世界の発展に繋がることか。否。
人類の英知に繋がることか。否。
ダーシャにとってオルガは──極めて利己的な存在であった欲しかったのだ。
◆
ヒューマテクニカ社新事業開拓室のオフィス。
「え? 風邪?」ルイスは驚きを隠せない。手に持っていたマグカップからコーヒーが零れて床に染みを作った。我に返り、慌ててチリ紙で床を拭く姿を、同僚のハワードは優しく見守っている。
「それはそうだよ。主任も人間だし……」
とゆっくりと彼は首を傾げた。
「人間……か?」
「発言の途中に自信を失わないでください、ハワード」
ハワードはモニターから目を離して、椅子を回転させた。ルイスの顔を見て、眉を顰める。
「あの主任でも休むのか……。これは不吉だね。雷でも落ちるんじゃないかな」
「お見舞い行ったほうがいいかしら」
当時のルイス・キャルヴィンは三十歳。オルガの凄まじさの十分の一も理解できていないとダーシャなら窘める、心は少女のような研究員。オルガの近くにいることを疎ましく思われているなど、ルイスは露程も知らないだろう。
そういった諸々を見透かしたように、ハワードは言った。
「ダーシャさんが見舞いにいったそうだよ。君が行くと……話がこじれる」
「そうなの?」
「別に、気にするようなことじゃないさ」
ハワードは笑った。
◆
オフィスの近くにある社宅にオルガ・ブラウンは住んでいた。その日、朝から体調が優れず、寝込んでいた。4LDKは一人暮らしの身には余る広さだった。身体の節々が痛み、動かすことができない分、意識は眠ろうとしてくれない。オルガはこの広い部屋で独りぼっちであることを強く認識した。
孤独は別に嫌いではなかった。今に始まったことではないからだ。
生まれた瞬間から、自分の頭を俯瞰してみているような人生だった。数年ぶりに身体を休めるだけの時間を過ごして、彼は考える。天才であっても将来が不安になる瞬間がある。彼は一つの懸念を抱いていた。その危機感はひたひたと彼に近づいていく。
オルガ・ブラウンは寝込む自分の身体を見下ろすして、こう、言うのだ。
『お前はなんのために生まれた?』
風邪薬で幻覚を見る。そんなひと昔前の現象が起きていた。ただ、幻覚で片づけて良いものではないとオルガは感じていた。これは彼自身が真摯に問うべきことだったからだ。
『これから、どう生きる?』
頭脳は手段。何かのために使う。オルガにとって、頭脳は記号だった。誰も、オルガをオルガとして認識しない。途轍もなく高性能な辞書としか、彼を見ていない。
他者にオルガを定義できる者など──いないと。
そこで、インターホンが鳴った。
「────誰だ」霞んだ声で呟いた。
震える手で枕元の端末を手に取った。モニターには彼の秘書が移っていた。
近所のスーパーで買い物でもしたのだろうか、食品が入ったビニール袋を持っていた。
オルガは何も言わずに、遠隔で扉を開けた。
目を閉じる。一人分の足音が近づいてくる。
「主任? 大丈夫ですか?」
「そう見えるか?」
「ええ、見えます。あなたは大丈夫」
ダーシャは笑った。
◆
それからダーシャは随分と使われていないキッチンに立ち、料理を始めた。包丁が野菜を刻む音が、時計の秒針のようだ。スープのにおいが部屋中に広がり、寝込むオルガの鼻孔をくすぐった。永い間一人だったからだろうか、こんな穏やかな時間が異常事態に思えてならない。
そして、十数分した後、ダーシャは盆にのせた料理をベッドまで運んできた。
「最近のスケジュールは非常にタイトでした。主任の健康状態を管理することも私の役目です。この責任は私にあります」
「子供扱いするな。それくらい自分でできる」
そういって上体を起こそうとするオルガは、今にも倒れそうなほどふらふらだった。熱はまだ引いていない。ぼんやりとする視界を遮るように彼女の手が近づいてきた。額に手を当てられ、頭を撫でられた。
「無理しないで下さい。食事の後はすぐに寝てくださいね」
「ふん」とオルガはつまらなそうに鼻を鳴らした。
ダーシャは珍しく弱った超人を見て、微笑んだ。どこか、官能的な、表情だった。
「主任は早く元気に戻って、仕事をしてもらいます」
「当たり前だ」
「だから、今は──私に任せて」
オルガはダーシャに食事を運んでもらった。屈辱的だと感じたが、仕方がないと受け入れた。どうしてか、彼女はいつもより口数が多かった。
「私はもう研究できないから、貴方にしてもらうつもりで、秘書になりました。私の分も働いてください」
「研究できない? しようとしていないだけだ」
「できないんです。貴方の隣で研究者として正気を保てる方がどうかしています」
「わからんな」
「ええ、貴方には人の気持ちはわからない」
そして、それでいいんですと、彼女は続けた。
「お前は私の──俺のなんなんだ」
「秘書ですよ。と言っても、きっと本音は伝わらないでしょうね。貴方はハワードほど察しが良くないから、きちんと言葉にして伝えます」
「…………」
「私は貴方に在りのまま生きてほしいんです」
「どういう意味だ?」
「今の貴方は貴方らしくない。オルガ・ブラウンという天才科学者は病床に伏せる弱者であるべきじゃない。貴方はもっと破滅的で圧倒的で超越的でなければならないんですよ、主任」
ダーシャはなまめかしく笑った。童話に出てくる魔女のようだった。彼女はオルガの朦朧とした意識をいいことに、本音で語る。今しかないと弓を引く狩人のような表情だった。
「私を破壊したように」
「なんだと?」
「私は、貴方にめちゃくちゃにされたのですよ。わかりますか? こんなに鼓動が早い」
ダーシャは脱力したオルガの手を持ち上げて、自身の胸に押し当てた。
「私以外も、もっともっと破壊して、めちゃくちゃにしてほしいんです。私の挫折なんて小さいことだから。これは恨みじゃないし、妬みじゃない。これは愛情よ」
その時、オルガの心臓が跳ねた。
愛。
それは、彼にとって禁句だった。ダーシャは知らずにこの男が内側に持つ、鍵のかかった箱に触れてしまった。
「それが……愛なのか?」オルガの目が開く。見たいものを見た。触れたいものに触れた。だが、これはなんだ? 本当に愛か? わからない。オルガは悲鳴を上げる身体を無理やりに起こした。
「…………! 主任、無理しないで! 寝ていてください」
「それが、愛なのか?」
ダーシャは、どこか必死なオルガを見て、生唾を飲んだ。今こそ伝えるべきだと感じたからだ。
「私は貴方を愛しています」
「…………」
「私は貴方が貴方らしく生きるためなら、なんでもします。ずっと傍に置いてください」
「俺らしく……?」
「言って、貴方の望みはなに? 次は何を破壊したい? 何を台無しにしたい? 私、貴方のためなら────」
「俺は──」
オルガは、天井を見た。
その視線は天井を貫き、空を抜け、大気圏を通過して、宇宙の常闇を見つめていた。
「愛が知りたいのだ」
そして、ダーシャは呟いた。
「は?」
◆
「愛が知りたいんだ。人間の感情の動きが知りたいのだ。もう少しでたどり着ける。愛の力学を、引力の秘密を、俺は知りたい。それだけが俺に残された最後の謎なんだ。この迷路を解くことが、俺が一番望んでいることだ。俺に……教えてくれ! 愛を! わからないんだ! 人の気持ちが! 知りたいんだ!」
「…………」ダーシャは黙ってその独白を聞いていた。
「愛以外ならすべてわかる。人体模倣の秘密も、この世界の成り立ちも全部わかるんだ。それなのに……」
オルガは両手で顔を覆った。悲壮を纏う声は、懺悔を求める罪人のようだった。
「愛だけがわかららない。どうしたらいいんだ。俺は許せない。知らないことなど、許せないんだ」
知識欲や好奇心というには血気迫るその願望は、その男を内側から食い破ろうとしていた。
「愛とはなんだ!? 答えろ!」
それを聞いて、ダーシャは──。
「何よ、それ」と泣いた。
こちらもまた、超常的な思考回路で、悲嘆に暮れていた。
「オルガ・ブラウンはそんなこと言わないわ」
「…………黙れ」
「オルガ・ブラウンは迷わない」
「……………口を閉じろ」
「オルガ・ブラウンは愛なんて弱いものに興味はない」
「………………何がわかる」
「そんなの、貴方じゃないわ」
「……………………誰の話をしているんだ」
「オルガ・ブラウンは他者に興味なんかないわ。破滅的で圧倒的で超越的な魔王が、貴方なのよ……」
「黙れぇ!」
「貴方は怪物よ! じゃないと……」
ダーシャは崩れるようにへたり込んだ。
「私は何に負けたのよ」
広い部屋に二人だけがいた。
そして、ダーシャは虚ろな表情で、オルガの部屋を後にした。
次の日、彼女は辞表を提出し、退職した。
◆
「なに、ぼーっとしているんですか? らしくないですよ」とルイスは、オルガの顔を覗き込んだ。
「キャルヴィンか、呆けてなどいない。お前は仕事をしろ」
ここはオフィスのラウンジ。ガラス張りの壁から入る日差しが眩しい午後。数個あるテーブルで腰掛けるオルガの隣にルイスは立っていた。
「私は休憩です」
「えらい身分だな」
「主任だって、休憩中でしょう? 病み上がりだし、無理しないのはいいことです」
「呑気な事を」
オルガは付き合ってられないと、席を立ち上がろうとした。
その時、身体がふらついた。まだ万全ではないのだろう。倒れそうになったところをルイスに支えられた。
「大丈夫ですか?」
「…………触るな、バカが」
「ふふ、主任らしさが戻りましたね」
ルイスは笑った。
◆
そして、時は戻る。
オルガは人心核アダムに取り込まれ、ダーシャの声をした〈マザー〉と対峙する。
人心核に収容された人格は、基本プログラムを定義しなければならない。
『あなたの望みは何ですか?』
オルガは笑った。悪魔のような笑みだった。
彼は科学者だ。科学の基礎は実験であり、彼は一つの試みを思いついた。
本当の願いはなにか。オルガ・ブラウンとは結局のところ何者だったのか。
基本プログラムを通じて自身を試す。
こう宣誓すれば、オルガの本当の願いを見つけられるだろうと考えた。
その先に残る不純物のない、オルガ・ブラウンとは何かを導く、彼の基本プログラムは──。
「オルガ・ブラウンの模倣だ」
彼は本当の願いを見つけるため、自身の影を追うことに決めた。




