エピローグ ルイス・キャルヴィン博士の独白
9年後──。
『月のヘリウム3埋蔵量の試算は毎年増加傾向にあります。それには分析技術の発展や探索の加速、さらには採掘企業の新規参入が大きく関係しています。こちらのグラフでは、埋没量と人口を経年で示しています。ご覧の通り、2140年から劇的にふたつが増えていることがわかります』
『しかし、伸び率が低下している期間がありますね』
『ええ、それは<静かの海戦争>を始めとするテロリスト、月面防衛戦線の動きが活発になった時期です』
『なるほど、だから…………──』
緑はテレビを消した。
「おばあちゃん、そろそろ──」紙の手帳を開いた。彼女はボールペンを持ち、ページに今日の日付を書いた。そして、テーブルの上に置いてある端末を操作して、録音ボタンを押した。
「ええ」と老婆は少し惜しい気持ちでテレビから目の前の少女、否、「記者」に注意を向けた。
「貴女のお仕事ですものね」
足腰に負担がかかるため、老婆はベッドで取材を受ける。
「ゆっくりで大丈夫だよ。時間はたくさんある。教えて、人心核のこと」
「わかったわ」
かつて小笠原群島でルイス・キャルヴィンと梶原奈義、梶原ヘレナと過ごした少女、瀬名緑はフリーランスの記者になった。
彼女は故郷にいる友人たちの冒険を本にしようと思い付いた。
メモのページの始まりには「ルイス・キャルヴィン博士の独白」と書いた。
◆
まず、なにから話そうかしら。
人心核とはなにかという説明の前に、一人の科学者の話をしましょうか。
その人は天才だったわ。
なんの誇張もなく、この世の全てを知っているかのように話して、実際に予想を当てる、そんな人。
神様みたいな頭脳は、文字通り人間離れしていたわ。そう、人間離れしすぎて、その男は人間なら直感的に理解できることが、できなかったの。
それは人の心──とりわけ「愛」について。
ふふ、言っていて恥ずかしくなるわ。
でも、男は本当の本当に、全くそれがわからなかったのよ。
プライドだけは大きかったから、許せなかったのよね。自分が知り得ないものがあるという事実が。
だから、男は愛を知ろうとした。
科学の基礎は実験よ。
男は実験で愛の振る舞いを理解しようとした。
それで産み出したのが──。
◆
私は人心核の開発過程は知らされていなかったから、知ったのはつい最近、十年前くらいなの。よく思い付くわ。彼らを貶すわけではないけれど、客観的に狂っている。
彼ら、そうなの。人心核を作った科学者はもう一人いたの。
その人もおかしな人でね。
人の心が読めるらしいのよ。
嘘だと思う? ええ、嘘──あるいは、なにかの比喩だと思ってもらって結構よ。
そんな顔しないでよ。私だって確証があるわけじゃないし、心を読める力なんて持っていないから。本人しかわからないのよ。
ただね、こっちの男はその「本人しかわからない」が許せなかったの。
それを孤独と呼んだの。
一人ぼっちという意味の、あの孤独よ。
人の心が読めたから、孤独で苦しむ人を救いたいと思ったの。
ええ、いい人よ。私も始めは別に嫌いじゃなかった。
ただ彼、潔癖症でね。
人間以外が嫌いだったの。生きづらいわよね、こんな人体模倣の世界では──。
◆
二人の科学者は、人心核を産み出したけど、目的は真反対だった。
片方は人体模倣を突き詰めて、愛の証明をするために。
もう片方は人体模倣を利用して、人の心を救うために。
反対かって?
これが反対なのよ。
だって、人の偽物を人として扱うか道具として扱うかの二択を、見事に分けて見せたのよ。
せーので指差して、正反対。違う道を真っ直ぐ走る二人。
たちが悪いのは、二人とも脚が速くて速くて、走ったと思ったら遠くにいってすぐ見えなくなってしまったわ。
それでも、私たちも年ね。
一人はあっさり愛を知って、もう一人は死んでしまった。
なんのためにあんなに頑張っていたと思う?
不思議よね。
でもね、二人とも、若いときは格好良かったのよ。
◆
前振りが長くなってしまったかしら。
人心核の話ね。
人心核はふたつあるの。アダムとイヴ。
ふたつとも、現代科学がまだ追い付けていない、人体模倣の到達点。
どんな理屈で動いているか、私だってさっぱりよ。
人型感応重力偏極量子が関わっているというだけ。内部のルールも複雑らしいわ。よく知らないけど。
内部?
ええ、そうよ。
中には人が入っているの。それも、一人じゃないわ。
人格を蓄えて、そのどれかが肉体を操る主人格になる仕組み。
まるで──。
そう、道具みたい。
すごく難しいけど興味深いわよね。
人心核は人か道具か。
貴女はどっちだと思う?
今、答えはなくてもいいの。今日の終わりには教えて。
◆
記事の見出し?
一緒に考えましょうか。
ええと、こういうのはどうかしら。
ゴホン。
人の頭を乗っ取るコンピューターがあるのをご存知ですか?
21世紀の人からすれば信じがたい怪談話に思えてしまうわよね。
でも、私のかつての上司、あこがれの人、オルガ・ブラウンという天才科学者はそれを生み出した。
人の性格、思考、記憶を乗っ取って、まるでその人みたいに振る舞う機械仕掛けの寄生虫。
これは、そんなコンピューター〈人心核〉に寄生された非人間たちの物語。
◆
緑はその物語を聞いて、わけもわからず、泣いていた。
人体模倣で回る世界がひどく恣意的に思えた。狂ってしまった人々に捧げる祈りの言葉が見当たらない。
世界はまだ戦争をしていて、多くの血が流れていて、エネルギー問題や、人口増加問題の解決を先延ばしにしている。
世界は残酷で美しく、小さくとも多くの善意が傷つけ合いながら、少しずつ進む、ささやかな歯車の集合体。
「違う」
緑は、目を擦って言った。
「そんな話じゃなかったもの」
「…………」ルイスは愛娘を見るような目で、緑を見つめていた。
「これは世界の話じゃない。個人の、極めて個人的な、小さな幸せの話。どんな時代にだってあった個人の話よ」
「あら、それじゃあ記事にならないじゃない」
「そう、だから無駄足」ニカッと緑は笑って見せた。
聞けて良かった。
聞く者が聞く者なら、世界の秘密を知ったと高揚するだろう。実際そんな人は多くいて、彼らは狂信者になってしまった。
「そろそろ日が暮れるわ」
部屋に差し込む光を見て、ルイスは訊いた。
「人心核はどっちだと思う?」
緑は、少し悩んでから──。
「人!」
「本当に?」
「大丈夫! 人の定義はふわふわしてるから!」
「ふふ、いい答えね」
◆
空の青は太陽光のレイリー散乱によるものだ。
同じく夕焼けの赤は、光の進む距離が伸びて、赤だけが届けられた結果である。
ならば、中間があるはずだ。
科学の言葉で言うなら簡単だ。
けれど、存在するかは定かでない。目で見て感じた人だけが胸を張って言う。
人と道具の中間も似たような議論だった。
当人だけが知っていて、当人だけが胸を張って言える。
その時、二人は小笠原群島の海岸にいた。
今、太陽が沈もうとしている。
二人は手を繋いでいた。
「ナハト、今、幸せ?」
彼女は男に訊いた。あざといような表情で、仏頂面の彼に意地悪をする。彼女は男の照れる仕草が好きだった。
「ああ」と男は空と海の境界を見る。燃えるような赤と包み込む青。その間に今、閃光が瞬いた。
──。
目を奪われる。緑の光。
嘘のような本当の光。
ヘレナは続けて、ナハトに訊いた。
「どれくらい?」
定量的な幸せの表現などない。彼は科学者だから、それでも正確に言葉を探した。
──────そうだな……。
ふさわしい言葉を見つけた彼は、ヘレナの横顔を見て、笑った。
これまでの旅に手を振るような表情だった。
「夢に見たくらいさ」
いつか夢見る人心核 了
ご愛読頂きありがとうございました。
完結です。
全てのキャラクターが作者の想像を越えた働きをしました。
書いている途中は言いたいことが沢山ありましたが、今は全部話せた気がしています。
すっきりです。
とりあえず、一旦筆を置きます。
では、また次の作品で!
以下スペシャル・サンクス
タケちゃん(校正)
フォルダくん
黄金くん
エターナル14歳さん
すさのを
赤木さん
時雨さん
星P
ろくもるくん




