劣化品
梶原奈義に袖にされたハワード。青を赤の散華を眺めながら、ポツリと呟いた。
「なんだこれは…………?」
男は、自身の起源から出発して、現在に至るまで長い旅をしてきた。途方もない距離を、悲鳴を上げながら走ってきた。諦めてしまえば楽だったのだろう。けれど、その選択をしてしまえば、男は、自分自身を失ってしまうと思った。
自分が誰かわからない。始まりの風景は、血塗られた山小屋に転がる複数の死体と、機能を停止したロボットだけ。きっと自分はひどいことに巻き込まれたのだと直感した。だから、こんな悲劇を二度と生まないために、生きていこうと決意した。
かすかに残る以前の自分の記憶。
孤独を恐れる心。
人類は皆、誰かとの繋がりを求めている。愛や絆が孤独に対する特効薬であることは、すぐにわかった。男は人の心が読めたから。
このために男は並々ならぬ努力と時間と情熱を捧げてきた。
医学、化学、物理学、生物学を身に付ける過程は、好奇心が原動力ではなかった。多くの科学者たちが楽しみながら進む道程を、男は一つの目的だけ睨みながら走り抜けたのだ。
一つ、男が選んだ手段はクローン技術だった。自身の複製を生み出し、読心の救済者を量産する計画は──失敗した。クローンたちに読心能力が宿ることはなかった。
そして、改善案としての人心核を用いた手法。人間の脳を喰い、すり替わる人工の魂。オルガ・ブラウンが生み出したこれならば、ハワードの脳を取り込んだ時、読心能力が発現すると確信した。
オリジナルさえ作り出せれば、あとはそれを模倣、再現、量産する段階に至り、これまでよりもかなり、技術的なハードルは下がるだろう。
人心核とクローン技術により量産される読心能力者。その人類救済計画には少しの迷いもない。既に画布は理想で塗りつくしてある。
そして何より、ハワード・フィッシャーなどという劣化品ではなく、完成された人類理解者、梶原奈義の存在が、計画をより完璧なものへと導くのだ。
あとは走るだけ。
どれだけの時間と努力を捧げてきただろう。どれだけの失敗を重ねてきただろう。時には自身を信じられなくなるほどの失望を経験したことさえあった。
男は諦めなかった。止まれなかった。人類さえ救えれば、それでいいと本気で思っていたのだ。
なのに──。
それなのに──。
「なんだ、これは……。誰か説明してくれ」
ハワードは、女神でなくなった梶原奈義が、<マシン>の<神の代弁者>を霧散させ、梶原ヘレナを救い出す様子を見ていた。
話が違うと、騙されていると、素直に思った。
これでは神でもなんでもない強い戦士が、イヴを打ち負かしただけだ。ハワードが描く神話の始まりにそのような筋書は存在しない。本来は女神となった奈義が、人心核イヴを食らうことで理想は叶うはずだったのだ。
ハワードは手で自身の顔を覆った。目の前の現実があまりに理不尽だった。
正気の梶原奈義が梶原ヘレナを助けたことで、ハワードの計画上必要な三つの要素の内、読心能力者と人心核を失ったことになる。ハワードは今にも泣き出しそうな顔で、今も自身を葬ろうとする獣を睨んだ。
「なんてことをしてくれたんだ!」
唾を飛び散らせながら、男は糾弾した。
「人間のすることじゃない! どうして! どうして! 意地悪するんだよぉ!!!」
すべてが憎い。
オルガ・ブラウン。六分儀学。ルイス・キャルヴィン。否、それだけではない、人の心を癒そうとしない世界、宇宙、人体模倣が何より憎い。
──そうだ。
男はハービィの射撃を避けながら、当たる気配すらない反撃をしている。刻一刻と迫る自身の最期。
──そうだったじゃないか。
その時、遠い声がした。
『さあ、どっちだ? 母親とそのロボット。どっちを選ぶ?』
男の脳裏に浮かんだのは、鬼畜の声。趣向を凝らした二つの地獄を並べて、男に選ばせる。そして泣きながら選んだとしても、両方の地獄を与える。
そう、それが世界なのだ。
男はその鬼畜が誰なのか全くわからない。身に覚えがない。
ただ──思い出した。
「ああ、世界はそんな場所だったね」
だから、それを変えようとしたのではないか。
元々の発端は、悲しいことを変えたくて歩き始めたのではなかったか。
人の心が分からない怪物たちに邪魔されようと、今更停止できるわけなどないのだ。
ハワードは、涙を浮かべて笑った。
微塵も諦めていない。亡者は絶望の果てで再起する。
「プランBだ」
──女神の言う通りだ。確かに、僕は救われたいだけなのかもしれないね。
深い絶望からの復活。その精神の振れ幅。過度なストレスを受けきった男の脳は、次の段階へ萌芽しようとしていた。
ハワードの瞳孔が開いた。
今、読心の怪人が、覚醒しようとしていた。
◆
六分儀学は『梶原奈義を助けたい』という願いをハービィに流し込みながら、ハワード・フィッシャーの足止めをしていた。
操縦席に座っている学は、理性を遠ざけている。ハービィを操る彼は衝動に従い、願望を叶える最短距離を選ぶ。
ここで、ハワードと学の間に極めて小さな空隙が生まれる。
学の願いは梶原奈義を助けること。英雄や女神などと持ち上げられた彼女を、引き戻し抱きしめ、守り抜くこと。その曇りなき純心は、直感の獣の内側を血液のように流れている。
そこで、梶原奈義を苦しめる元凶、もう一人の読心能力者、ハワード・フィッシャーを奈義に近づけない手段をとった。
そう、ハワード・フィッシャーを殺すことが目的ではないのだ。
もし第一優先として「ハワード殺害」がハービィに流れる願いであったなら、奈義は今も女神のままで、ハワードは学に殺されていただろう。その場合の絶叫はハワードにもはっきりと聞こえていたに違いない。
なぜなら殺意ならばハワードには聞こえるからだ。
『貴様を殺す』という絶叫だったなら、むしろハワードには好都合だった。ハービィによる思考の抽象化を得ても、指向性は明瞭になる。ハワードは学には勝てないだろうが、少しは時間が稼げるだろう。
けれど、現実は違った。学の願いはハワードの急所を見事についた。
「梶原奈義を助けたい」こそが、あの場の最適解だった。
ただ、ハワード殺害が第一優先ではない以上、学の行動は「ハワードの足止め」の域をでない。
ハワード足止めの意識しかない学に命を奪われると感じたのは、単純に六分儀学という戦士が強すぎただけ。学は本気ではなかったというには語弊があるが、少なくともハワードを殺すつもりはなかったのである。
故、生まれた隙。
極限状態の精神で、ハワードは六分儀学という「行き止まり」を超える。
「ウォオオオオォォォオオオ」
雄たけびを上げながら、ハワードは自身の操縦技術の全てをひねり出して、ハービィの追撃から逃れようとする。
そして──ハワードの機体は目的の場所へ向かう。
追いかけるハービィは速度を落とした。
「梶原奈義を助ける」こととは無関係だと判断したのだ。
ハワードは笑った。
「ははははは! よし! 抜けた!」
男が向かうのは、紀村ナハトがいる戦艦。
すなわちプランB。
「人心核なら、もう一つあるじゃないか!」
人心核イヴは梶原奈義に奪われた。
完全な読心能力者はただの少女に戻った。
ならば、その劣化品でいい。
計画の始まりからは少しもズレていない。
「ぼくは出来損ないの読心能力者だ! けれど、もうそれでいい!
ぼくがアダムを取り込むんだ!」
亡者はまだ止まらない。覚醒の芽は今に開く。




