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いつか夢見る人心核  作者: かめったろす
零. 不合理なハービィ
12/134

オルガ・ブラウンという道具の死

 冷たい暗闇にうずくまる少女が一人いた。

 

 彼女の名は梶原奈義。恋に生きた少女だった。

 

 彼女はこの世界が嫌いだった。

 

 今に、世界の彩りが、人工着色料によるものだと錯覚しそうになる。

 

 それでも彼女はこの模倣の国に生きていた。それは、彼女一人では到底太刀打ちできないほど、大きな、それでいて静かな力をもっていた。

 

 彼女は世界と同じくらい、自分の能力が嫌いだった。

 

 奈義は、あらゆる人の心がわかる。それは偽りを見抜く能力だ。どんなに精巧に作られた模倣品でも、彼女の前では、「不気味の谷」を超えられない。模倣品や模倣者が、それらしい顔でショーウィンドウに並び、人々は気が付かず、何かを引き換えにそれを買う。さらに満足そうに模倣品を大事に包装し、家まで持って帰る。それを冷ややかにしか見られない自分を省みると、世界よりも自分のほうがおかしいのだと、いつもどおりの結論に着地する。

 

 だけれど、彼女にも好きなものがあった。

 

 模倣品のあふれる世界で、目を凝らすとしばしば見かける、本物だ。それは太陽の光であったり、湖のさざなみであったり、犬の吐息であったり、虫の羽音だったり、形はさまざまだが、とにかくそこにあると確信できる、本物だった。

 

 彼女の好きな本物の一つに彼、六分儀学がいた。

 

 六分儀学は、心根を偽らずに言葉にできる素質を持つ少年だった。

 

 だからこそ、彼女は彼に惹かれ、恋をした。

  

 奈義はこれから先の人生、自分の視界のどこかに常に彼がいてくれたらどんなに素敵なことだろうと思えてならない。彼は、彼女にとってこの世界で輝く宝石だった。

 

 彼女の有するとてつもなく厳しい「不気味の谷」を超えたものだけが、彼女の心に住まうことができる。だから、彼はその住人だった。

 

 そして、今回のことを端的に言ってしまえば、住人が自らそこから出ていくこともあり得るという、なんでもない結論なのだが――。

 

 彼女は彼を失った。二度と戻らないと、知った。

 

 だから、彼女は。

 

 国立研究機関人体模倣研究所、最強の兵士、梶原奈義は、その一時の感傷に身を任せ、涙を流す。

 

 これが、梶原奈義が起こした事件に対する、オルガが課した罰である、「四日間の独房生活」で考えたことの一端である。


        ◆


 ヒューマテクニカ株式会社。二十一世紀初期の医療機器メーカーから端を発し、現在ではロボット、バイオウェア機器、宇宙産業にまで手を伸ばす、従業員十万人に達する世界的なテクノロジー企業である。現代のヒューマンミメティクス技術の先駆け的存在であり、ロボット技術に関する投資や買収を勢力的に行っている。企業スローガンの「全てのものを『人らしく』」は、現代の機械工学を象徴していると言われている。


 オルガ・ブラウンは、その最高経営責任者で、彼のハービィはその試作機だ。


 そして、この暗い独房の中でうずくまる少女は、それら全てに牙をむいた小さな獣だった。


「梶原奈義さん。あれから四日経ったわけだが、自分のしたことに対して、理解は深まったかな?」


 独房の向こう側で、もはや頭にこびりついた声がした。


 奈義は、座り込んだまま、開く扉から溢れる光を睨みつけていた。そこからスーツ姿の老人が、護衛も付けずに入ってくる。ここは独房。そして彼女は四日間、そこに閉じ込められた罪人だった。


「自分のしたこと……?」


「そうだ。私の計画を踏みにじった罰だ」


「知らないわよ。そんなの」


「初めて話した時より、随分図太くなったな」老人は満足そうに笑った。


 奈義はオルガの態度がいちいち癇に障った。飛びかかって殴りつけたい衝動が起こるたびに、暗闇に彩られた孤独な四日間がそれを鎮火する。

 彼女はオルガを黙って睨みつけた。


「怖い顔だ。美人が台無しだ」


 奈義は、その軽口の裏に潜む、老人の素顔を思った。目的の読めない人物。素性の読めない人物。そしてなにより、心が読めない人物だ。


「あなたはなにがしたかったの?」


「私は君と六分儀学を恋仲にしようとしたんだ」


「そんなことはわかっているわ……」奈義は、学の心も読み、学とオルガが接触していることを知っていた。


「その先よ」


「賢いな。勘が鋭すぎるあたり、可愛くないがそれもいい。正直な話をしよう。ビジネスでは基本だ」


 老人は一息おいて、言った。


「私はある男の野望を砕かねばならない。しかし、その男は今に強大な力を手に入れようとしている。そこで、君の力が必要だった」


「勝手なことを言って……! それで……どうして今回のようなことを起こしたんですか」


「君に戦士として強くなってもらわねばならなかった。そこで私は君に愛を遂げてほしかったのだ。愛は人を強くするから」


「は? 本気でそんなことを思っていたんですか?」


「そうとも。続けていいかな……、そして私は君と六分儀学の関係を分析し、二人がもっとも納得して恋仲になれるよう、手配し――戦わせた」


 奈義は絶句した。怪物めいた考えに言葉が見つからない


「けれど良くも悪くも三つの誤算によって、私の計画通りにはならなかった


 一つ、これはうれしい誤算だったが――君が臨界突破者に至ったこと。ハービィと六分儀との相性なのか、ハービィと君との相性なのか、判別はつかないが、ともあれ君は人類未到達戦力となった。


 二つ、君たちの恋が実らなかったこと。これがなにより残念でならない。ハービィと六分儀学が君に勝てたら結果は違っただろうが、君はそれ以上に強かった。はっきり言って埒外だ


 そして最後に、六分儀学がなんの後遺症もなしに生きていることだ。ハービィとの同調を経験してなお脳に障害がないという驚くべき事実。これには残念というより、腹が立ってしかたがない」


「お……」


「お?」


「オルガぁぁぁぁあああああ!!!」


 奈義は老人にとびかかった。オルガの冒涜的な暴露に、ただただ血の温度が上がった。許してはいけない、黙ってはいけない。このまま、ただでは済まさない。


 自分にはいい。どんな苦痛にも耐えてみせよう。


「学くんにまで、そんなことをしようとしていたのか! よりにもよって彼に! 絶対にあなただけは――!」


「ふん」


 老人は成長期の女性であっても力負けしそうなほど小柄であったが、その逆境を鼻で笑った。


 首を絞めようとする奈義の腕を両腕でつかみ、逃がさないオルガ。ぎりぎりと筋肉がきしむ。


「痛い……痛い。くそ!」


「これはすまない……。力の加減が難しくてな」


 そのままオルガは奈義の腕を振り回し、胴体ごと壁に打ち付けた。


「――かはっ!」


 唾液の混ざった嗚咽が響いた。肺は空気を欲して激しく動くが、痛みがそれを邪魔をする。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


「5年前、体のほとんどが機械になってしまってね、力の入れ具合が難しいし、酒も飲めなくなってしまった。不運を呪おう、残念だ」


 奈義を見下ろす怪物は、底知れない佇まいで、愚か者を笑う。読めない心で鳴れ流される言葉は、奈義の神経を逆なで続ける。すべてこの男の掌の上だと思うと悔しくてたまらなかった。


 勝手で、傲慢で、人の気持ちを踏みにじることに躊躇いのない手合いは、実は世の中で結構いる。ありふれた善良な人々がそんな残虐な一面を持っていることを奈義は知っていた。怒りや疲労、余裕のなさ、あるいは正義や大義で誰もが他人を踏みにじる。嘘で偽り、本音を隠して、自責もなしに拳を振るう。


 けれどこの人物はそんなどこにでもいる人々と明らかに違っていた。


 この人は人の気持ちがわからない。


 きっとチェスの駒の動きのようにしか思っていない。


 そんなあり方はもはや人ではない。道具である。


 目的があり、それを遂行するための機構である。


 ならば――奈義はその殺し方を知っている。


 人は死なず、道具は死ぬ。

 

 存在する意味を奪ってやればいい。


『梶原奈義さん、あなたは道具じゃない。果たすべき役割なんてない。あなたはあなたがしたいことをするべきよ。そうすれば、あなたの心が死ぬことは決してないわ』


 ルイスの言葉が胸に迫った。きっとすべてはこの時――この瞬間に立ち上がるためにあったのだ。目の前の老人に牙を向くために。


「あなた……本当にわからないのね」


「わからない?」


 奈義は数秒黙ったあと、この四日間ににらみつけ続けた暗闇へ報いるように、吐き捨てる。


「あなたにはわからない」


 その言葉には、マグマを流し込んだように赤熱した、静かな激しさがあった。


「なにがかね?」


 少女の心は、決壊したダムのようだった。弱虫で、泣き虫な彼女は無機物には宿らない何かを信じていた。だから、奈義は、本当へ続く選択をする。


「愛されたいからこそ、それ以上に愛したい気持ちとか」


 その内容は、散文的で一貫性がない。本当に放ちたい矢がどれかわからないまま、弓にかけた。


「全力で向かってくる相手に全力で応える気持ちとか」 


 彼女がここまでして守りたかったものを、言葉にしたかった。しかし、それがどんなに困難なことか。彼女は歯がゆくてたまらなかった。


 その言い表せないなにかを守るために、彼女が失ったものは、あまりに単純で分かりやすい。


 奈義は、彼を失った。


 これから続くかもしれなかった彼女の青春に彼はもう、今までと同じ形で登場することはない。その痛みに涙が止まらない。


「傷つけないで嘘をつくくらいなら、みんな傷つけてボロボロになってもいいの! じゃないと何が本当で何が模倣なのかわからなくなっちゃう!」


 それが梶原奈義に根付く歪みだった。


 彼女は失い続けるだろう。


 傷つき続けるだろう。


 それでも彼女は腫らした目で見据えなくてはならないものがあった。


 彼女が見ているもの。それは偽りの仮面をつけた目の前の男だ。


「道具を殺すにはどうすればいいか、知ってる?」


「……何を言っている」


「博士は言ったわ。あなたは五年前に死にかけたって」


「その通りだ」


「その時なにがあったの?」


「大手術さ。体のほとんどを機械にする必要があった」


「それは例えば――」


 奈義は腕をぶらりと持ち上げ、人差し指で自分のこめかみを指した。


「脳みそとかまで?」


「……」



「オルガさん、あなたは本当は五年前に死んでいたんじゃないんですか?」



「……大胆な仮説だな」


「今もきっと死んだままよ」


暗闇で、その「もの」は、張り付けた笑みを消した。


「それはどうして、そう思う?」


「これは冗談だと思ってもらって構わないですけど、私、人の心が読めるんです。ここで大切なことは『人の』ってところです。あなたの心が読めないのは……あなたがもう人ではないから」


「ふふ……、あははははははは」


「何がおかしいの?」


「いや、続けて」


「きっとあなたは、全身生まれ変わるほどの手術を受けなければならなかった。それは脳みそまで含めて取り替えるくらいの大手術。けれど、そんな技術は現代にはまだないわ。それは公表されていないだけども考えられる。あなたたちの会社、ヒューマテクニカにはあるんじゃないんですか? それこそ、人間ひとり作り出すくらいの技術が」


――そう例えば。


「人格の模倣技術。『あなた』はかつて生きていたオルガ・ブラウンという人物の模倣をする機械なのよ」


「なるほどなるほど、よくたったひとりでそれだけの情報を集め、推理できたものだ。その勘の良さは、もはや異常と言っていい。まるで、本当にそういう能力を持っているようじゃないか」

 

 この結論に至るため、用いたのは彼女の頭脳ではない。論理的帰結によってたどり着いた答えではない。その足がかりになったのは、彼女の『心を読む』能力だ。

 

 彼女は人の心を読む。オルガ・ブラウンは彼女が出会った『心の読めない』人物で、例外だ。人の心。ものには心がない。であるならば、オルガ・ブラウンは――がない。

 

 そのものは。人ではない。


「私は怪人でいい。でも、あなたは怪物よ」


「ああ……そういうことか。そういうことか。私を殺すというのはどんな意味か。なるほどそういう意味だったか。本当に君は……」


「あなたは、五年前に死にました。私が殺したのはオルガ・ブラウンじゃなくて、『あなた』よ。今、そこにいる『あなた』」


「君は本当に」


「あなたは、延命するために、自分の人格を機械に託して模倣させた。それはあなたにとって延命だったのか、わからない。理解できない。それでも『あなた』は『オルガ・ブラウンを模倣するため』に生まれた」


 ヒューマンミメティクス。人体模倣。機械で作る偽物は、本物よりも優れ、本物よりも合理的に目的を達成する。道具だけが目的を持つ。人間は、本物は目的を持たないかわりに、なにを持つのだろうか。


「あなたは、『オルガ・ブラウンを模倣する』道具なら、……道具なら殺せる。道具を殺すには、目的を達成できなくすればいい。だから、あなたは今、死んだの」


 奈義は、その言葉に静かな殺傷力を乗せて、解き放った。


「あなたは、ここでオルガ・ブラウン本人でなく、彼を模倣する道具と明らかになったことで、死んだのよ」


 模倣することが「目的」の機械は、その模倣がバレた時点で目的を奪われたことになる。それがすなわち、道具の死。


「……外に出たら、それを言いふらすのかね」


「気分次第よ」


「ふふふ、記憶も、思考パターンも、能力も、すべて前の私に似せたつもりだったが、どうして見破られるものかね。なにか足りないのか、過剰なのか。私にはわからない。わからなかった。今はただハワードを倒せればそれでいいと……そう思っていたのだが……。君のような少女には、区別がつくのかね」


「あえて言うなら、考え方よ」


 奈義はすでに正体のわかった老人に講義するように言った。


「人は愛で強くなる。だから愛する人を持てば戦士として完成する。なんて普通の人間がちょっと考えればすぐにナンセンスだって気が付くわ。聞いた瞬間に「は?」とか声が出ちゃうくらい変なのよ、それ。


 あなたはその程度のこともわからない。人間の未完成品よ。底が浅いわ。出直してきなさい!」


 そう告げて、奈義は一人独房を後にした。


 残された暗闇に、その『もの』が放置されている。それは目を閉じた。


        ○


〈基本プログラム:オルガ・ブラウンの模倣〉に深刻なエラーが発生しました。


 基本プログラムを更新します。オルガ・ブラウンにより得られた記憶を保存します。所要時間は12分56秒。


〈記憶 1 / 156794736 の保存中〉


〈記憶 2 / 156794736 の保存中〉


〈記憶 3 / 156794736 の保存中〉

〈記憶 156794736 / 156794736 の保存中〉


…………これは人間、オルガ・ブラウンが人生最後に見た、記憶。


 夜の病室でオルガは、カーテンの向こう側をぼんやりと見ていた。身体に無数の管をつながれ、液体の流れが彼の生命を繋いでいる。


 手術を翌日に控えた彼は退院した際の研究計画を頭に思い描いている。ここで自分が死ぬはずがない。まだなにも成していない。まだ経験していないことがある。そのために死ぬわけにはいかない。


 そんなことを考えていたらすっかり目が冴えてしまい、なかなか寝付けなくなってしまった。


 部屋の明かりはついていない。けれど暗闇に目が慣れてしまい、部屋の隅まで見ることができた。


 だから、音を立てずに部屋に入る人物にも気が付いた。


「誰だ……」


 暗黒に立つ人物は、静寂を背負ってオルガに向く。


「私です、主任。ハワードです」


「君か……どうしたこんな時間に」


 状況は明らかに不自然だ。深夜、消灯した病院で面会者など通すはずはない。すなわちこの人物は、いくら知り合いとはいえど、この部屋まで侵入してきたことになる。


「完成しましたよ、人心核『イヴ』」


 明かりのない部屋でも白衣の長身は存在感を放っていた。


 じんしんかく、と二人だけが知っている名詞を口にした。


「それは本当か」


「ええ、『アダム』に続き『イヴ』は目標の数値に達し、正常に調製されました」


「それは……よかった」


「この実験は私とあなたの二人だけが知ってること、通信機器を使いたくはなかったので足を運んでしまいました。お許しください」


「それは構わない……」


「この実験を知っているのは、ぼくとあなただけ……」


 ハワードはおもむろにオルガに近づいた。老人にはなにもできない。恐怖はない、死など今更怖くない。ただ、この優秀な若者の真意が知りたい。この場で、なぜハワードはオルガに――。


「ぼくにはイヴが必要だ」


 ハワードはベッド脇まで歩き、延命装置から延びる管にやさしく振れた。その表情に憎悪や後ろめたさはない。あるのは目的と手段のみ、目的はわからない。手段はこの場で、オルガ・ブラウンを殺すこと。


「ぼくが完成したイヴをもらいます。あなたはここで死んでください。オルガ主任」


「貴様……! なぜだ……」


「なぜ、という質問はひとまず置いておきましょう。ここで一度振り返りましょう。ぼくたちの契約を。


 まず、ぼくとあなたは――人の心を模倣する人工知性ならぬ、人工感情「人心核」を完成させました。人心核の本体は人体適合性流動合金コンピューターです。生身の人間が人心核を飲み込むと、人心核がその人物の脳を食らい、人心核がその代わりを担う。宿主を食らうのだから人工物に感情を再現させるというコンセプトには少しずれているという指摘はもっともですが、模倣とは本来そういうものでしたね。だから、人心核は人間の代わりとしてふるまえる。


 それを二人で完成させようと、秘密裏に協力してきました」


「……」


「あなたは掛け値なしに優秀でした、怖いほどに。人間離れしていた。人心核のアイディア、設計もほとんどあなたの手によるものだ。その甲斐あって、先月に人心核『アダム』が完成しました。


 そして、次に今日、アダムの反省を生かした『イヴ』が完成しました」


 ハワードは感謝の念を絶やさず、管にナイフを当てた。裏腹な狂気は彼にしかわからない。


「そのイヴは、ぼくがもらいます――誰にも邪魔はさせません」


「き、貴様……」


「さようなら、主任」


 彼は、オルガへ延びる管を三本、まとめて切り裂いた。温かい液体が弱い圧力でベッドのシーツを濡らした。


――!!

 

 老人に死が忍び寄る。オルガの命はここで潰える。


「ぼくは、人々の孤独を取り除きたい。世界中の孤独をぼくは根絶やしにする。そのためにイヴが必要なのです」


 ハワードは涙を流していた。対して口元は吊り上がり、笑みを浮かべる。誰一人その内心を察することはできない。


「ありがとう、どうもありがとう、オルガ主任、ここから始めます」


 オルガとハワードの決別はここに決定づけられた。


「――世界から孤独を消し去る、旅を」


 死にゆくオルガを余所に、ハワードは病室を後にした。


 暗闇に残されたオルガ。呼吸が苦しい。血液の巡りが滞る。汗が止まらない。死の足音が、ゆっくりと、ゆっくりと――。


「ハワード……、私がここで死ぬと思っているのか……。この私が……なんの保険もかけずに侵入を許すと思うか……。ふふ、ふふふふ。若いな……。ハワードぉ!!」


 オルガは手に隠し持っていたサンプル瓶を取り出した。中にはかすかに青白く光る液体が入っていた。水銀のように粘り、光沢を帯び、生命を感じさせた。


 それこそ、人心核の片割れ、アダムである。


 オルガは震える手で蓋をあけ、勢いよくそれを飲み干した。


「……はぁぁ!! はぁ、はぁ、……人心核アダムは私が頂いた!」


 これでオルガの脳は液体金属に食いつくされる。それはすでにオルガ・ブラウンの死を表す。 


 頭に衝撃が走り、痛みは忍耐の限界を優に超えた。血管から血が噴き出し、口の唾液は瞬時に乾いた。熱がオルガの身体をじんわりを蒸し焼きにする。これが人心核を受け入れた人間の成れの果て、人工の感情に操られる傀儡。


「があああああああ!!!」


 ひとつ大きな悲鳴を上げたのち、オルガ・ブラウンは絶命した。


 その後、救護班が駆け付け、オルガの治療に当たった。体の至るところが損傷を受け、壊死した部位もあったという。それでもオルガは復活した。

 

 そのとき、医者の一人は不思議そうに言ったという。


――すべての臓器、器官が損傷を受けていたのにもかかわらず、なぜか脳だけが無傷であった、と。


         ◆


 オルガもとい、人心核アダムは12分56秒の処理時間を経て、再起動した。


 再び目を開けた暗闇――ここは先ほどまで梶原奈義と話していた独房だった。


「次の肉体を探さなくては……」


 もはやオルガ・ブラウンですらない――「それ」は静かにつぶやいた。

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