奈義とヘレナ
私は宇宙で漂う少女を助けた。
彼女の声は切実で、泣きながら自身の生を嘆いていた。脳に刻まれた「仲間を助ける」という強力な暗示を振り切って、彼女は生きたいと叫んでいた。それもそのはず、彼女の命の危機に仲間は助けに来なかったからだ。
絆は素晴らしい。人は誰かに想われるだけで生きていける。
けれど、現実は非常だ。どんなに絆で結ばれていたとしても、「助けて」が聞こえない相手は助けようがない。あの時、彼女の声は誰にも届いていなかった。──私を除いては。
だから、あの孤立無縁の棺で──破損した戦闘機で死を待つだけの彼女は、極めて特殊な状況に置かれていたのだと思う。
生命の危機。本来絆の戦士たちは経験するはずのない、孤独という環境が、彼女の心を剥き出しにした。
生きたい。生きて、幸せになりたかった。
痛いほどの絶叫に、私は彼女の元へ向かった。
本当のことを言うと、初め、私は彼女を引き取るつもりはなかった。
宇宙で拾って、然るべき施設に預けるつもりだった。戦いを生業とする以上、私はいついなくなってもおかしくない。だから、これが出会いであり、別れであると思っていた。
ヘレナ・フィッシャーは、生きて、幸せになってくれるだろう。彼女自身の生命力を信じて、送り出すべきだったのだ。
しかし結果的に──。
私は、ヘレナ・フィッシャーを養子にした。
◆
あの日、宇宙は戦争の真っ只中だった。
私は月面防衛戦線を壊滅させるために明龍から送り込まれた最終兵器だった。
だから、ヘレナ・フィッシャーを助けたあと、仕事に戻った。
戦場の悲鳴は慣れない。今際の際の絶叫は否応なく、人間は所詮動物であることを私に絶えず叩きつける。理想に準じる者、祈りを託す者、敵を呪う者、様々な思いが極大の質量を持ち、私の精神に直送される。
対して、私には理想はなかった。なんのために戦うか、それに胸を張れるエゴすら持っていなかった。ただ、情緒のままに救いたい人を救い、殺したい人を殺した。誰かのせいにするのは簡単だった。フェンは言った。「戦う理由が欲しいなら、私があげる」と。私はフェンのおかげで、あるいは、所為で、正義の軍隊の最終兵器となったのだ。
フェンは戦争嫌いの潔癖症だった。彼に戦争が起きた原因を根絶するだけの代替案がないことは、分かっていた。それでも全責任は自分にあるとして、止まらなかった。
私は私の武力を提供した。
私はあの時、フェンの道具だった。全責任をフェンに託して、敵を滅ぼすための機構。
世界全体を見れば、月面防衛戦線がテロリストであり、排除すべき悪なのは、明白だった。そんな簡単な多数決の結果、駆逐されるマイノリティ。私はその少数の犠牲を生むことに、向き合うことを怠り、全てフェンの所為にしたのだ。
結果、月面防衛戦線の戦闘機と基地を無力化して、いつものように仕事を終えた。
しかし──作戦完了直後、私は奇妙な声を聞いた。
『ヘレナ! ヘレナがいない! どこだ!』
男の声だった。私はヘレナという名前を知っていた。作戦の前に拾った少女だ。
「あの子を探してる……!」
私は破壊された戦闘機や火器がゴミのように漂う宙域を駆ける機体を見つけた。
月面防衛戦線の戦闘機だ。必死に子供を探す親のようだった。
私はあの子を保護していること、無事でいることを伝えるため、その機体に近づいた。
戦闘機には通信障害下でも対面でコミュニケーションが取れるよう、通信アンカーが装備されている。私はアンカー線をその機体に飛ばし、背面装甲に張り付けた。そして「ヘレナは保護している」と簡単にメッセージを送った。
そして、操縦者の男は──。
安堵するわけでもなく、居場所を聞くでもなく。
何かに目覚めた。
『ぼくの声を聞いたのか?』
その時、私は初めて、私以外の読心能力者に出会ったのだ。
◆
それから男は瞬時に通信アンカーを物理的に引きちぎり、こちらに発砲してきた。
私はその殺意を感じ取り、回避した。攻撃自体避けるのは容易で、私の戦闘機を傷つけるには技術が全く足りないありきたりな不意打ちだった。けれど──。
本当に男が放ったのは精神を蝕む魔弾だったのだ。
『話をしよう』
言葉と行動が一致しない。男は対話を求めているのにも関わらず、取った選択は敵意の表明だった。私は理解できない状況を理解しようとした。そう、それが最も禁じられている悪手だと気づかずに、私は男の心理を理解しようとしてしまったのだ。
私は男を無力化するため、攻撃をしようとした。その時──。
『やっと、僕を憎んでくれたね』と男は優しい言葉で囁いた。
耳に吐息がかかるような至近距離に男がいると幻覚した。
『これで話ができる』
男は次々と私に発砲した。一方で私は男に抱いた嫌悪感から、攻撃を止めてしまった。初めての経験。一刻も早く、この場を離脱するべきだと直感した。
男は追ってくる。
『君は、ぼくを憎んでいないのに、ぼくの心がわかるんだね』
「あんた、何者よ!」
『ぼくはハワード。ハワード・フィッシャー。ヘレナの保護者だよ』
「あの子は無事よ! 話し合うなら早く攻撃を止めなさい!」
男は心底申し訳なさそうに答えた。
『申し訳ない。こうしないと君はぼくを憎んでくれないだろう? ぼくは憎まれないと、対話ができないんだ』
「なにを言って──」
奈義は男を理解しようとした。してしまった。通信もなしに対話ができる状態。故に、男は読心能力者。しかし完全ではない。片方の感情しか読み取れないのだ。
──あ。
その時私は、ハワードという男の本質を理解してしまった。
◆
人類は嘆いている。どうしてこの世に神はいないのだ。どうしてこの心に名前を付けてくれないのだ。形容してくれ。分類をしてくれ。解明してくれ。なぜ、人類一人ひとりの心を野に放った。誰一人として他者を理解できない不完全な存在で産み落とした。人は皆荒野に立っている。誰もいない。自分以外誰もいない。こんなに冷たい思いをするなら、心なんて機能を作ってくれるな。中途半端に適当な付属品を与えてくれるな。人類は理解し合えない。同じ種族で殺し合う。少しでも共食いを防ぐように言葉を発明した。けれど足りない。言葉すら神が心を完全に作ればいらない産物なのだ。なぜ我々が努力せねばならない。神の怠慢のツケをどうして我々が払わなければならないのだ。人類の心は救われなければならない。愛によって。絆によって。一つにならなければならない。当たり前のことを当たり前に要求しては罪なのか。理解できない。どうしてこんなにも不完全なのだ。心を一つに。人体模倣? 偽物で心が救われるものか。このままでは人類は自らが流した涙で溺死する。ああ、許せない。許せない。神の不在が憎い。解決方法は二つ。心を失くすか、心を救うか。私が人格破綻者、あるいはオルガ・ブラウンのようなエゴイズムを持っていたら、心を失くす方法を選んだだろう。違う。そうではない。そうなってはいけない。心は手放してはならない。故に救うのだ。人類がその不完全性を抱えたまま、心に寄り添う何かがなければ、我々は永遠に愛を知らないままだ。ではどうする? 簡単だ。人工的に神を作り出す。人間の心を癒せる極めて個人的な理解者を創造する。そのために、ぼくは生きてきたのだ。そのために、そのために──
でも。
悔しい。
身の程を知った。
ぼくは無理だ。
君は完全なんだね。
世界の半分しか知らないぼくとは違って。
悔しい。でも君になら託せる。
君が女神になるべきだ。
へえ、名前は梶原奈義っていうんだ。
◆
「────っが」
私は洪水のように流れてきた思念を一斉に浴びた。息ができない。涙があふれて止まらない。それはまるで歴史そのものを身体に詰め込まれたようだった。一人の人間が背負うにはあまりに大きな悲しみが私の頭に叩きつけられた。
それを受け私は──
「誰が女神よ! ばかばかしい」
と応えた。




