愚者と英雄
ナハトは目覚めると、この一ヶ月間<コンバーター>の設計作業をした小屋のベッドで寝ていた。動けるまで身体は回復していたため、上体を起こした。
机でお茶を飲むルイスがいた。
「おはよう」
「…………ああ」
ナハトは額を触った。大きな瘡蓋がまだ柔らかい。体調は悪くない。強いて言うなら空腹だった。
「どれくらい寝ていた?」
「半日程度かしら……」
「いろんな人と話した気がする。オルガ・ブラウンのことも前よりわかった」
「そう」ルイスは頬杖をつきながらナハトの話を聞いている。
「全部わかったんだ。オルガ・ブラウンの能力も多分、全部使える。人心核アダムももう、俺の一部だ」
「それは良かったわ。死にたい理由はなくなった?」
「そうだな…………」ナハトは数秒考えてから──「生きろって言われたからさ」
「素直に従うなんて、珍しい」
「まあ、最後の嫌がらせらしいからな。付き合ってやるさ」
ナハトは笑った。こんな表情は生まれて殆どしてこなかったから、ぎこちなかったかもしれない。
「あ、そうだ。オルガ・ブラウンから伝言」
「……なにかしら?」
「正確には頼まれたわけじゃないんだけど、先生は気持ちを伝えるのが下手だから──代わりに言っとくよ」
「……?」
「ありがとうってさ」
「…………」
ナハトは少しふらつきながらも立ち上がった。
上着を羽織って、ルイスに背を向けた。窓から射す光はナハトの顔を隠した。
「俺、行かなくちゃ。やることできたんだ」
「そう」
ナハトは勢いよく小屋を飛び出した。ルイスは少年の背中を目に焼き付けた。少し前より大きくなったように、感じた。
「バカね…………」
ルイスの痩せた手の甲に雫が落ちた。
「ありがとう、なんて──どうしちゃったのかしら」
空は青い。昨日の雨が嘘のような、蒼穹。
「変なの」
◆
「はあ……はあ……!」
ナハトは走った。そうしなければならないと思ったから。
始めは覚束ない足取りだったが、山道を進む途中で身体が馴染んできた。頭も鮮明だ。頭上に広がる空は、ちっぽけな紀村ナハトを見下ろしている。一度死んだ身だ。もうこれ以上、ナハトを縛ることは何者にもできない。
始まるのだ。
ここから、始まる。始める。
泥のように生き、屑のように足掻き、物乞いのように求め、それでも運命から指で弾かれた。無価値な人形だと、怪物だと、自身に張られたタグを一つひとつ確認して出した結論。自らの死という呆気ない結末は──。
アルバからかけられた強力な呪いによって無力化された。
基本プログラムと同じ命令であったのにも関わらず、アルバの呪いは残酷で困難で、なにより美しかった。
オルガ・ブラウンは極めて個人的で小さな願いのために、世界を巻き込み、ナハトを運命の大河に放流した。
「全部、関係がないんだ」
今、ナハトには何もない。
生きることと、愛することだけが許されている。
無価値だろうと、無意味だろうと、呪いがあろうと、関係はない。
答えは見つけた。
ナハトは丘の上にあるコンクリートでできた建屋にたどり着いた。
ナハトは壁の端末を操作した。
「梶原奈義、話がある」
◆
「…………!」梶原奈義は扉を開けるなり、驚きを隠せない様子だった。まるで亡霊にでも出会ったように目を見開いていた。
「久しぶり、か。初めまして、かな?」
「………………初めまして、でいいわ」
梶原奈義を生で初めて見た。ナハトはオルガの記録で見せられた少女の姿しか知らない。細身な長身に育ったあの時の少女は、変わらず何かと戦っているようだった。
「話ってなに?」奈義は怪訝な顔でナハトを見た。
「本当にハワードと戦えるか?」
「やるしかないのよ。ここまで来たら」
「ハワードとイヴを同時に相手をして、ヘレナを助け出す。簡単なことではない」
「何が言いたいのよ! 女神の私がやるって言っているのよ! できるに決まって…………」奈義は衝いて出た自身の言葉を取り消すように口を押さえた。
「……その様でか」
「…………!」
「五年前の戦争でお前はハワードと出会った。その時の心の読み合いで、敗北している。さらに今回はお前と同じ臨界突破者が敵にいる。根性論でどうにかなる相手だと、本気で思っているのか?」
奈義は震えるように、床を見た。反論するエネルギーはあっても中身がない。無策なまま勝てる敵ではない。英雄にとっては初めての体験だろう。勝てない敵などこれまで、一度だって現れなかったのだから。
故に英雄。人類未到達戦力の敗北は、精神に大きな亀裂を入れた。
振り絞るように奈義は言った。
「私は……! 貴方を許していない!」
「初めまして、じゃなかったのか?」
「私はオルガ・ブラウンを許さない!」
「…………」
奈義は人心核を許さない。美意識に反する存在だ。読心能力者は偽りの魂を拒絶する。それはハワードも同じ。
けれど、奈義はハワードと同じ選択は取らない。彼女は何が本当に大切なことか、理解していたから。苦しくても正解へ手を伸ばす姿は、少女の頃となにも変わっていない。
「私だって──作戦が成功するなんて、思えない。でも──」
奈義は幼稚だった。
高潔な選択肢の為に、自害する。破滅より美意識を優先する、未熟な精神を持っている。
その精錬な強さがかつてオルガ・ブラウンを滅ぼした。
しかし、今回は相手が悪い。
ハワードに通じる手ではない。なぜならハワードの理想は美しいから。孤独を嘆く心は、気を抜くと共感してしまう。奈義と同じくらい、ハワードは潔癖症だ。
二人の属性は、皮肉なほど似通っている。
奈義は大人になった。この半年間で、それを自覚した。
だから──彼女は苦渋の選択をした。自身の美意識より勝利を優先する。
「ヘレナが幸せになれるなら、なんでもする」
奈義はもう、少女ではない。
「──貴方が私を勝たせなさい! そのずる賢い頭を使って、ハワードが嫌がる作戦を立てなさい!」
「…………」
ナハトは、内側に巣食うオルガ・ブラウンが趣味の悪い笑みを浮かべたのを感じた。
『ようやく! 私のモノになったか! 梶原奈義!』
と、興奮気味にはしゃぐオルガにナハトは──。
「黙れよ、ジジイ」とつまらなそうに言った。
「…………?」
「いや、こっちの話」
ナハトは深呼吸をした。これで了承は得た。迷うことはない。
「で、どうするのよ。できるの?」
あとは自分がなんとかする。ご都合主義でもなんでもいい。待っているのは強制的なハッピーエンド。任せておけ、俺は負けない。不適な笑みは、オルガ・ブラウンのことを言えないほど気持ちが悪い。
背徳の王は、逆境を鼻で笑う。
「ふん、誰にものを言っている」
一ヶ月後、戦争が始まる。
遂に対峙する二人の臨界突破者。
相対する二つの人心核。
今、二人の科学者の、世界を巻き込んだ──否、極めて個人的な戦いが火蓋を切る。




