貴方たちはバカだから
砕け散る空間の中、しゃがみ込むオルガは、不適に笑った。
紀村ナハトは、基本プログラムを超越する選択肢を見つけた。本来ならばどの人格もたどり着けないはずの飛躍を彼は遂げた。
オルガは静かに思い出した。
初めてナハトに入り込んだ時の、三歳の彼とのやり取りだ。
『私は愛を知りたいのだ。君には、私の描く物語の俳優になってもらいたい。ヒロインは今は奪われているが、取り戻す過程をも愛の一部だと、私は思っている』
『いや!』ナハトはオルガに背を向けた。
『言葉で説明は難しいか』とオルガは頭を掻いた。
『いーや!』
ナハトはオルガに懐く気配はない。
突如現れた別人格。人心核のルールを小さな子供が理解できるはずもなかった。ましては、オルガの語る計画など、意に返すそぶりもない。
『仕方ない、か』
と、オルガはナハトの頭を掴み──オルガ・ブラウンの生涯を流し込んだ。
『──────あぁ! ああ!!!』
悶えるナハト。そして──。
その子供は泣いた。
『うわぁあぁぁあああん!!』
『な、何が悲しい?! 記憶の転移は間違えなくできたはずだ!』オルガは珍しく狼狽えていた。
『あああぁぁぁぁぁああああ!!!』
キンキンと響く泣き声がさすがに鬱陶しくなってきたオルガは、『この子ではないか』と諦めかけたところ──。
『あぁ!…………おじさん、悲しいよ』
『──!』
ナハトは流暢に言葉を使った。意味のある文を述べた。
『なにが悲しいのかね』
『だって、おじさん…………わからないんでしょう?』
『…………!』
『それが悲しい』
『私は────悲しくなど』
『うわぁああああ!』
ナハトはオルガの人生を読み取り、オルガの代わりに泣いたのだ。何でもできたけれど、何もできなかった男の生涯。
『私は悲しくなくするために! 愛を知るのだ!』
歯噛みして、オルガはナハトの首を掴んだ。
『私を、憐れむな。小僧!』
ナハトはそれでも泣き止まなかった。
そして、オルガが流すはずだった一生分の涙を代わりに流した後、ナハトは言った。
『協力するよ』
『…………いいのか』ぐったりとしたオルガはナハトの顔を見た。
『俺が教えてあげるから』
『ふん、それは頼もしい』
それから、オルガはナハトにハワードの脅威を話して、記憶を消す仕組みを作り、<先生>を生み出す算段を立てた。
『ところで、君の基本プログラムは?』
『わからない』
『ならば今決めたらいい。まだ人生は始まったばかりだ。何でも願える。推奨は自由度の高い願いだ』
『自由度……』
『例えば──』
生存。それがまだ願いを持たないナハトが宿した始まりの基本プログラム。
オルガは記憶から目を覚ます。
「まさか、あの時の選択よりも自由度が高いものがあるとはな」
ナハトはオルガ・ブラウンでもたどり着かなかった願いを手にした。
人生には意味がない。目的なんてない。それが人間だと誰かが言った。
ナハトはこの時、何よりも誰よりも人に近い、怪物となった。
「ふん。もうマザーはいないんだ。私もただやられるだけではないぞ、ナハト」
オルガは不適に笑った。
◆
違和感があった。ナハトは上昇する意識の中、あと少しで目を覚ますと期待したそのとき、ナハトの身体に不純物が入り込んだ。
「ナハト! 私も連れていけ!」
ナハトの意識の周りを煙のように漂う、粘性のある思念体。オルガ・ブラウンは最後の悪足掻きをした。
「なんのつもりだ!」
ナハトはオルガの念を連れながら、覚醒した。
◆
「あら、久しぶり、主任」
「…………」
オルガは嫌がらせのために一時的に肉体の主導権を奪った。本来主人格のみが持つ絶対権能は、マザーの不在によって価値を下げていた。オルガは狡猾にもその穴を突いたのだ。
ところが、覚醒した矢先、目の前にいたのは、見知った顔だった。出鼻を挫かれたと言っていい。
「ルイス博士、か。どうして私だとわかった」
「目付きが悪いもの」とルイスは笑った。
「…………」
オルガは起き上がろうとしても、身体に激痛が走り、動けなかった。確か、人心核アダムを取り込んだときも、肉体への負荷は大きかった。それに似た感覚だ。
おそらく弾丸の影響だろう。
いずれにしても、オルガは身体を操るタイミングを間違えた。
「いろんな人にたくさん迷惑をかけて、主任はなにがしたかったんですか?」
責めるでもなく、問い詰めるでもなく、再会を喜ぶようにルイスは訊いた。
「愛が知りたかった…………」
「そう、意外にロマンチストなのね」
「私は本気だ」
「やっぱり、貴方はバカだわ」
「なにを……」
「主任は頭悪いんですから、難しくこと考えなくてもいいのに」ルイスは、稀代の超頭脳に向かってそんなことを言った。狂信者たちが聞けば卒倒しかねない、世迷い言だ。
「愛はね、動詞なの」
「は?」
「愛は状態を表す言葉でも、モノでもないの。愛は動詞でしか、本来の意味を表さない」
「どういう意味だ」
「愛はね、愛した時にだけ生まれるのよ。そこには理解も共感もいらない。愛は相互関係ではないの。一方的な動詞として、使うべきよ」
「……何が言いたい」
「つまり、愛したいなって思ったら、相手が自分を拒絶しても、どこかに消えても、死んでしまっても、理解できなくても、意識がなくても、どんな形をしていても────愛せるの」
「…………」
「愛はすごいのよ。時間も距離も、発生タイミングも選ばない。私たちは、どんなものにも制限されずに「愛する」をできる」
ルイスはオルガの頬を優しく撫でた。
彼女はこの時を待っていた。ずっとずっと待っていたのだ。
かつて、オルガ・ブラウンは彼女を置いて消えた。ルイスはオルガを理解出来なかった。再会したとしても、それは変わらない。相変わらずオルガはルイスを踏みにじり、裏切った。
ルイス・キャルヴィンは、オルガ・ブラウンから無視をされ続けた。
それでも、放っておくことは出来なかった。
ずっとずっと感じていたことがある。
オルガ・ブラウンは愚か者だ。悲しいはずなのに泣き方すらわからない非人間。可哀想な存在。
ルイスはそんなオルガを傲慢にも、救いたかった。
そっちの道はダメですよ、とフラフラと歩くオルガの道を正したかった。
無視されても、置いていかれても、理解できなくても──それが彼女の愛だった。
「やっと…………」
老婆はしわくちゃの顔で嬉しそうに嬉しそうに、オルガの顔を触っている。存在を確かめるように──。
「やっと追い付きましたよ、主任」
そう言った彼女は、まるでオルガと出会ったころの若手研究員の、少女のような表情をした。
◆
「愛は動詞……?」オルガはルイスの説明を必死に飲み込もうとしていた。
「ええ。貴方の子供、紀村ナハトがそれをきっと教えてくれるわ」
少年は少女に恋をした。奪われた彼女を取り戻したいと願った。しかし、少年は彼女から拒絶された。
そこで、少年は──「それでも」と言う。
様々な要因が彼を諦めさせようとした。無理だ。無駄だ。人間じゃない。理解できていない。
少年は「それでも」と言う。
終いには肉体ごと滅びたとしても、少年は「それでも」と言う。
愛に共感や理解はいらないから。もっと原始的で一方通行な感情でいいのだと、紀村ナハトは奮い立つ。
「主任もハワードもてんでわからないんだもの。バカ二人で、どこまで行くつもりかしら」
「…………私の探求は、人心核の創造は無駄だったと?」
「ええ! この先の展開を見てなさい。きっと解るわ。紀村ナハトは人心核でなくとも、梶原ヘレナは人心核でなくとも、二人は愛するでしょう。お互いのことを理解できないまま……。そう思えるハッピーエンドが必ず待っている」
「…………クソ」オルガは最早言うこともなく、悪態をつくだけだった。敵わない。そう思ったのはどれだけ振りだ。
「後は彼らに託しましょう」
ルイスは愚かな老人へそっと口付けをした。
その細やかな餞には、何十年もの憧れと、失望と、愛が詰まっていた。
少女のような笑顔でルイスは続けた。
「ハワードに教えてあげましょう。人類に共感は必要ないということを」
最終決戦の時が迫る。




