幸せになるための物語(2)
「俺はヘレナを求めていた。一緒にいたいと思ったけれど──それは、先生が仕組んだことなのか?」
「そう解釈するのは、君の自由だ」
「…………ふ、ふざけるな!」
地面が足元から崩れ去るような怒りがナハトを支配した。
「だったら、俺は──なんのために」
「イヴと愛し合うだめだ。愛の振る舞いを私に示すためだ」
「あんたは…………悪魔だ!」
「よく言われる」
「全部全部、ハワードやあんたの盤上の駒だったのかよ!」
「梶原奈義にも言われたよ。人の気持ちが分からないとね。まさか怪物である君からも言われるとは思ってもみなかった」
そもそも──とオルガは腕組をした。
「君の愛の出自が何であろうと、君に関係あるのかね?」
「大ありだよ!!!」
ナハトは怒りのままオルガの胸倉をつかんだ。小さな老人は釣り上げられ、足を地面につけていない。しかし、余裕の態度を崩さない。
「何が問題なのだ。三歳の君は承諾したはずだ」
「覚えていねえよ!!」
「約束を反故にするのか?」
「覚えていねえって言ってんだよ!」
ナハトは拳を振り上げた。目の前の悪魔に一撃食らわせないと気が済まなかった。
すべての元凶は目の前の老人。人の心を弄んだ背徳の王。
自身の欲求を満たすためだけに人形に自我を植え付けた狂った科学者だ。
拳が振り下ろされるその時、オルガとナハトしかいない空間に天上の声がした。
それは地獄を照らす光のような声だった。
『そのくらいにしてあげて、主任』
そしてガラスが割れるように白い空間、人心核アダムの心象領域が崩れた。
ナハトの意識は現実に呼び戻される。
◆
ナハトは目を覚ました。
相変わらず、眉間に弾丸を撃ち込んだ丘の上。木々の間に除く曇天から雨はもう降っていない。
ナハトの視界には木々の合間から覗く空と、一人の人物の顔があった。
「ルイス・キャルヴィン……?」
ルイスはナハトの頭を膝に乗せて、優しく銃創がある額を撫でた。
「気分はどう?」
「……どうしてここに?」
「だって貴方とっても悲しそうだったもの。死ぬつもりだったのでしょう?」
「うるさい」
ナハトは起き上がろうとした。けれど身体は動かない。弾丸の影響だろうか。
「オルガ主任から、ひどいことされたんでしょう?」
「…………!」
「私、彼のことよくわからないの。何があったか、教えて」
ナハトはもう、守るべきプライドもない。感情のままに吐露するしか、できることなどなかった。
「オルガ・ブラウンは愛を知りたいんだとよ。勝手だよ。ちくしょう。俺がヘレナを想う気持ちも、作り物だった」
「人心核は愛し合うために作ったのね。あの人の考えそうなことね」
「基本プログラムよりも強力な呪いだってさ。もう、俺……わかんねえよ」
ナハトはボロボロと泣いていた。不格好だ。笑われても仕方がない情けない傀儡。所詮全ては作り物。偽物の感情でよくここまで頑張ったと褒めてほしかった。
「そうねえ。呪い、ねえ」
「きっと、この世界に本物は梶原奈義だけなんだよ! 俺は、孤独で──作り物だ。本当の感情が分かる英雄だけが判別できる。よくできた世界だよ! 人心核の心は読心能力者にはわからない! 作りものだからな!」
「……泣かないで。大丈夫よ」
「何がだよ! ちくしょう」
ナハトは既にほとんどのモノを奪われてきた。それでも最後に残った「梶原ヘレナを愛している」という感情だけが、ナハトの拠り所だった。それだけが羅針盤だった。
それすら、今、奪われた。人間の振りをしてきた報いだと言うのか。何も残っていない。
「…………馬鹿ね」
ルイスはナハトに微笑んだ。頭を撫でる。
「貴方、馬鹿よ」
「はあ?」
ナハトはルイスの過去を知っている。オルガ・ブラウンに置いて行かれた無能な科学者。人体模倣研究所でもオルガによって地位を奪われた、ただの女。明龍に入ったと思えば、ヘレナを守れない指揮命令者。そんな彼女が、超常の脳を宿すナハトを「馬鹿」だと言う。
ナハトは意味がわからなかった。
「簡単は話よ」
「何がだよ! 適当なことを言ったら、殺すぞ!」
「貴方はヘレナを愛している。それだけが大事なこと」
「それが嘘だって言ってんだよ!」
「本当に?」
「そう言ってんだろうがよ!」ナハトも自分で叫んでいて、情けなくなってきた。
「私はマディンやエマや、多くの工作員の報告で貴方とヘレナの旅を知っているわ」
「……」
「出会いは人体模倣研究所ね。そしてロサンゼルス基地で貴方はヘレナに愛を告げた。その時、ヘレナはまだイヴを飲み込んでいないでしょう?」
「…………!」
「こんな簡単な順序も気が付かないほど、今の貴方は馬鹿なのよ」ルイスは笑った。
「それは……」
梶原ヘレナは、ナハトに生きる意味を与えた。空っぽだったナハトの人生に中身をくれた。人を傷つけてもなんとも思わないナハトが、唯一傷つけたくないと思った人。あの時、ナハトの人生が始まったのだ。
あの時は、まだ<ラバーズ>は機能していない。ヘレナは人心核イヴではなかったのだから。
故に、あの時の言葉は、紀村ナハトが紀村ナハトとして受け取ったものだった。
「貴方は幸せになるために生まれてきた」
ルイスは皺の多い手でナハトの前髪をどけて、額と額をくっつけた。温かかった。
厚い雲の切れ目から日が覗いている。湿った空気に注ぐ太陽のエネルギー。横たわるナハトの身体には血液が流れている。光が地面の水たまりを照らした。意外に浅い。この世界は、きっとこんな細やかな美しさで溢れている。葉から水滴が落ちた。
ナハトは泣いていた。しかし、先ほどの怒りに任せて分泌した液体とは違う。人間だけが出せる優しくも力強い雫だった。
「ヘレナと一緒にいると、勇気が出たんだ」
「そう」
「ヘレナのためなら、なんでもできたんだ」
「よく頑張ったわね」
「あいつを傷つける奴を許せないって思ったんだ」
「ええ」
「守りたいって本気で思ったんだよ」
「うん」
「声が聞きたい。触れていたい。一緒にいたいんだ」
「そうね」
「一緒にいたい。一緒にいたいよ」
あらゆる鎧を脱ぎ捨てたナハトの言葉。ルイスは静かに相槌を打った。
「…………」
「愛している。俺は…………梶原ヘレナを愛している」
ナハトはたくさん泣いた。太陽は彼を見下ろしていた。
◆
そしてナハトは再び意識を失った。否、自ら人心核アダムの心象領域に落ちてきた。
そこにいるのはやはり、オルガ・ブラウンという狂った科学者だ。
「決心はついたのかね」
「…………」ナハトは応えない。
それは別に言葉をかけるべき相手がいることを意味していた。
「おい! マザー!」
ナハトは大声で、この世界の神を呼びつけた。
『現在、システムの修復中です。修復後、人格の選び直しを実行します』
「弾丸を撃ったんだ。無理すんな」
『何か用でしょうか?』ナハトの母親の声を模した人心核の法則そのものが疑問を投げた。
「俺、決めたよ」
『何をでしょうか?』
「基本プログラムを変える」
『────それは許されません』
「邪魔してみろ。瀕死なんだろ、お前」
『──許されません』
「俺の新たな基本プログラムは──
『なし』だ」
『許されません。許されません。許されません──』
白い空間にアラートが鳴り響く。白い天井に罅が入る。サイレン灯のような赤い光が目まぐるしく回る。今まさに空間ごと崩壊するかという天変地異に、老人は笑っていた。
「それが答えか…………面白い」
「ああ、マザーは基本プログラムの守護者だ。マザーがいる限り、人心核への呪いは続く。だったら、守るべき基本プログラムを白紙にしてやる」
「ふふふ……あははははははは」オルガは心底愉快そうに笑った。「それでこそ、二代目! ハワードの作った仕組みを破壊するとは! 笑わずにはいられない!」
「俺、いくよ、先生」ナハトは崩れゆく心象領域で、マザーに背を向けた。
「ああ、行きなさい! 私の忠実なる手駒! ハワードを滅ぼして、イヴを取り戻せ! 愛を遂げろ!」
──と、その前に。
ナハトはオルガの下へ歩いた。
「へへ……」
ナハトはにんまりと笑い、そのままオルガの顔面に拳をめり込ませた。
「────っ!!!」吹き飛ぶ小さな老人は壊れる壁に激突した。ここは夢の世界。なんでもありだ。
「うるせえよ! 俺は俺のやりたいようにやるんだよ!」
ナハトは人心核アダムの世界から現実に意識を戻した。




