真・母の腕の中
人体模倣研究所で梶原ヘレナに光を見たことをまず振り返った。
オルガは静かにナハトの話を聞いて、時に相槌を入れ、時に疑問を挟んだ。
「それが……ヘレナとの出会いでした」
「君は彼女を失ったとき、どう思ったんだ?」
「……必死になったさ。でも今は」
ナハトはこの空間に至り、自分があくまで人心核のルールに乗っ取った存在であることを自覚した。ナハトはまだ、人心核の全てを知らない。
ヘレナのことも自分のことも、わからない。
「どうしたいのか、わからないと言うんだな」
「結局俺は何者なんだよ。人心核? 基本プログラム? つまるところ、俺がしたいことは……本当に俺がしたいことなのか?」
「これまで、そんな疑問を抱いた人心核はいないだろうな。イヴはもとより、私やアルバも欲求を疑うことはしなかったし、しないだろう」
元来、基本プログラムとはそういうものだ。自分がなにをしたいのか、疑いすら持たず邁進するための基本指針。生きる目的は生来的に与えられるものだった。
ナハトはそれが苦しい。生身のまま荒野に放り出されたような不安が彼を苛んでいた。
「しかし」とオルガは言う。
「それが道具なのだと、今は思う」
その優しい表情に、ナハトは瞬間的な、それでいて的外れは怒りを覚えた。
「今更何を! 先生は何を悟ったような口振りでそんなことが言えるんだ!」
この白い空間に叫び声だけが虚しく響いた。
「俺は人間じゃないんだよ! ハワードに負けたってのはそういう意味だ! あいつに反論する術なんかなかった! 俺が人間だったなら!」
──どうして、ハワードはそれを認めなかった。
「結局、20年前に起きたオルガ先生の死を……。梶原奈義に先生が殺されたあの時を繰り返しただけなんだ……」
顔を手で覆う。罪深い人間の成り損ないは、人であろうとした狂気を恥じていた。ハワード・フィッシャーに刻まれた呪印はそれほどに深い。
「怒り……はないのか?」オルガの問いは冷静だ。
「こんな感情を怒りとはきっと呼べない。これは……諦めだよ。先生。なにが生存だ。殺してくれとどれだけ願ったか」
梶原奈義にヘレナ救済を託した時点で、ナハトはなにかを諦めた。責任を果たしたという免罪符がほしいだけだった。
「梶原ヘレナは君になんと言うだろうな」
それがわかったら苦労はない。
かつてヘレナは人心核アダムに光を見せた。
彼女だけがナハトを人間扱いする唯一の人だった。
今はいない彼女の影を追い求めるナハトは誰の目にも愚かに映るに違いない。
「この空間には、君と私と……アルバの記憶が刻まれている」
「……!」彼、と言われるだけでナハトは罪悪感で動けなくなった。
「彼は誰かを思う強さをナハトに与えたのではないか?」
ソフィア・ニコライの救済を誰より願った少年は、それすら捨ててナハトを生かした。同じことをやれと言われるだけで、ナハトの脚はすくんでしまう。
「先生……。先生だけずるいよ。先生は梶原奈義に殺された。俺はそれがうらやましいよ! 一人だけ真実に触れたみたいじゃないか! 俺だって女神に殺されたかった。そうすれば……」
「彼女は女神ではない」
「ハワードはそう言っていた」
「梶原奈義はただの人間だ」
そうでなければ、私を殺すことなど出来なかった。オルガ先生はそう付け足した。
その意味が今のナハトにはわからない。人間も道具も、自分がどちらであるかもわからないのだ。
「まだ物語の途中だろう」
オルガは感情のない声音で、そう言った。
ここでの議論は意味がない。結局はナハト自身が決めることだからだ。
「続きを話したまえ。紀村ナハトが……人心核アダムが絶望に落ちる過程を」
人生は続く。
ナハトは再び言葉を紡いだ。
◆
次にナハトは、ロサンゼルス基地でハワードと対峙したことを話した。
その時々のナハトの感情を細かく確認しながら、オルガは話を聞いていた。
「人心核は人ではない、故に人心核は人の気持ちがわからない」
訥々と語るオルガはうつむき、影で表情を隠す。人心核アダムの内側、記録が渦巻く台風の目。
ナハトはロサンゼルス基地でヘレナを失った経緯と、ハワードから押された非人間の烙印を話した。
失意の海で溺れるナハトを、師は励まさない。そんな言葉は無意味である。
あの日、脚と肩を穿った弾丸。今もその銃創が疼くのだ。無力を噛みしめ、「この人とならば」と微かに生まれた希望さえ、軽く摘み取られた。梶原ヘレナはナハトの隣にはもういない。
紀村ナハトが、アルバ・ニコライが、六分儀学が──無念にも打ちのめされた最悪の日。
「それから、君はどうしたのだね?」
「俺は……」
ナハトはゆっくりと言葉を選んで、続けた。
「ヘレナを助け出そうとしたんだ」
「それは、どうして?」
沈黙は数秒。オルガは質問の意図が理解できないナハトに聞いた。
「君は梶原ヘレナから、助けるなと、言われたはずだが」
「そんなの! 裏の意味に決まっている! 誰が好き好んで人心核なんか飲み込むんだ! 人じゃなくなるんだぞ」
「君はそう思うんだね」
「……なんだよ。先生も、俺がヘレナの気持ちがわからないって言いたいのか。俺だって今は」
「…………私も同じだよ。人の気持ちがわからない」
「…………」
ナハトはそれを否定しなかった。ただ、オルガが言いたいことが理解できなかった。
「人が理解できないのは、苦しい。私はずっとそれを理解できないものかと試行錯誤を繰り返していた」
「何が言いたいのですか?」
「今もまだ、検証は続いている。人心核は梶原奈義にもハワード・フィッシャーにも理解されなかったが、それでも私は人心核を信じている。ナハト、私も同じだ。私は人心核イヴを取り戻すために、ハワードと戦うことを選んだのだから」
「イヴと先生には……どんな関係が?」
「イヴと私ではない。人心核と私だ。どうして私は人心核を作り出したのか。それをまだ話していなかったね」
「…………!!」
「その前に」と老人はニヤリと笑った。曰く、オルガ・ブラウンは悪の科学者。逆境を鼻で笑う。
「話の続きを聞こうか」
ナハトは、老人は決して諦めていないことを知った。
この程度の絶望で諦められるなら、病魔に伏せりハワードから殺されかけたとき、人心核アダムを飲み込まなかったはずだ。
救世の英雄に殺されたはずの背徳の王は、なおも眼光を光らせた。ハワード・フィッシャーに報いるために牙を研いでいたと、宣誓するように──。
「重要なことは、梶原ヘレナの気持ちがわからないと認めることだ、ナハト。わからないまま、抗うのだよ。そんなもの、わからなくていい」
かつて、非人間の烙印を同じく押されたオルガは、今も変わらず曲げず、人の心が理解できない。反省などしない。ただ、梶原奈義から学んだことは──。
「初めから理解できる存在など、いないのだから」
「……!」
では、梶原奈義は? ハワード・フィッシャーは?
読心能力者はなにを読み取っていたのだろう。
ナハトが疑問を口にする前に、オルガは祝詞を口にした。
「さあ、続きを。
臆するな、ナハト。終わりは近い」
道具と人の相克は、人心核アダムの物語は──、クライマックスを迎える。
◆
そして、ナハトはシャクルトン基地で起きた惨劇を語った。
ナハトの肉体は滅び、アルバの身体を掠め取ってしまったこと。
「どうして、俺はあのとき、基本プログラムによる強制行動が発動しなかったのですか?」
ナハトは話終えて再び浮き彫りになった疑問をオルガに伝えた。
「知ってどうする?」
「それは……」
「アルバに主人格を譲るのだろう? 今さら気にしてどうするというのだ」
「それも……そうか」
オルガは仏頂面のまま椅子から立ち上がった。すると身体が光り、粒となり、砂が波に浚われるように、その場から消えた。
この空間に来て、どれだけの時間が経ったかはわからない。ただ、多くを語った。この七ヶ月は、紀村ナハトの人生を凝縮したような、絶望と希望の混合物だった。
物語はクライマックスだと言ったオルガ。
消え行くその瞳は、まだ終わらないと言っているようだった。
そして────。
「おい」
と背後から声がした。
ナハトは振り向くと、そこにはアルバ・ニコライがいた。
◆
「自分で死ぬやつがいるか」アルバは頭の悪い子供に呆れるように言った。侮蔑を込めて、鼻を鳴らす。
「…………!」
「あの時の威勢はどこに行ったんだよ」
「お前…………」ナハトは震える唇で、目の前の男の名を呼ぼうとする。ずっと謝りたかった。申し訳がなかった。
そしてそれ以上に──。
「なにしてくれてんだ!」
ナハトはアルバに頭突きをした。
「いっ………!?」
「なにを勝手に他人の脳ミソ喰ってんだよ! 俺は……俺のせいで死んだんだよ! なに勝手に背負ってんだ!」
「感謝の言葉もねえのか? てめえ」アルバは立ち上がり、ナハトの顎に向けてパンチを繰り出した。
「感謝されたくてやったんなら、相手を選べ。人を見る目がねえんだよ!」
「自分で言うことかっ!」
ナハトはアルバを精一杯罵った。アルバもそれに合わせて悪態をついた。
ただの喧嘩ならアルバが一方的にナハトを打ち負かして終わるだけだが、ここは心象領域。ナハトはアルバにどれだけ殴られても倒れなかった。アルバの前では負けん気だけは一人前だった。
二人とも飽きたのか、精神が疲れたのか、一通りの殴り合いは終わり、言葉での戦いになった。
否、戦いというよりは、確認作業に近い問答だった。
「なあ、アルバ、お前、主人格に戻れよ」
「…………らしくないぞ、バカが」
「この身体は俺のじゃないだろうが」
本来、生きるべき人間が肉体を操る権利がある。自然な在り方に戻るべきだと、ナハトは思う。託すくらいなら、自分でやればいい。既に<コンバーター>は完成している。もうナハトの役目は終わったのだ。
それを受け、アルバは訥々と語った。
「この空間に収容されて、仕組みは粗方理解した。基本プログラムと主人格の選定、<マザー>の管理。今、こうして話ができているのも、<マザー>が機能を一時的に失っているから……これで合ってるか?」
「ああ、今ならお前が主人格にだってなれる」
「バカ言うな。それこそ、本当に今だけだ。<マザー>が戻ったら、俺は……」
「…………」
「死ぬより辛いよ。それは」
アルバの言葉は、ナハトと同様に彼らしくない。不遜な態度ではなく、あのとき、今際の刹那に聞いた『頼んだぞ』と同じ声音で、アルバは続けた。
「俺の基本プログラムは、妹の救済だ。ヘレナに助かってほしいお前からすれば俺は敵だ」
「だけど……それ以外の生き方を探せばいいだろうが」
アルバはナハトの提案を鼻で笑った。
「そいつは無理だ。人心核には生きる過程で生き方を探すなんて真似はできねえよ。わかるだろ? 第一、ソフィアはもう生き返らない」
「今、決めろ。基本プログラムを選び直せ」
ナハトは弾丸の効果に気づいている。<母殺し>は<マザー>の一時的な機能不全を引き起こすと同時に、主人格の基本プログラムを微調整することができる。
それは、ロサンゼルス基地でのイヴを見たとき、理解した。
あの時イヴは、「強くなりたい」から「梶原奈義を倒す」に基本プログラムを転じたのだ。意味合いは近いが、この変化は大きい。
ナハトは「生存」から「幸せに生きる」という微調整すら許されなかったのだ。弾丸による効果は大きい。あらゆる意味で、<マザー>を欺いている。
だからこその提案なのだ。
「もう一度、生きる気はないか」ナハトはこの時、人生で最も真摯に問いかけた。
「ごめんだね。ソフィアを諦めるなんて、それはもう、俺じゃない」
アルバはそれでも、ノーと言った。
◆
死にたいから、代わりに生きてくれ。そんな細やかな懇願をアルバは一蹴した。アルバは自身の輪郭を手放さない。こうと決めた在り方を貫く強さ。
眩しい。
それが率直な感想だった。
「紀村ナハト、思い違いを直してやる。お前、俺のことを友達かなにかだと勘違いしているんじゃないか? 最初から最後まで、俺はお前の敵だよ。だから、お前が最も嫌がる選択を迫ってやる」
「…………!」
アルバは、笑った。
見たことのない笑みだった。
今とは違う出会い方をしていたら、きっと────別の関係になれたのではないか、そんな在りもしないイフが、頭をよぎった。
意地悪に口角をあげ、歯を見せてナハトを見下ろす彼は、挑発的に煽った。
「生きろ」
「………………っ!」
アルバは背を向けて、手を振った。今度こそ、お別れだと言わんばかりに──。
ナハトは白い空間に一人取り残された。




