豚とコショウと猫なき笑い
◇
ふわり浮かぶ猫の姿
彼はチェシャ猫
ふわり木に飛び乗った
彼の姿は消えていた
猫無き笑いが宙に浮かぶ
気配無き猫は今日も笑う
ふわり消えた彼は言う
「猫の無い笑いなんて洒落てるだろう?」
―――そして今日も世界は死ぬさ
◇
「お前はまだそのナイフを使った事が無いんだろう?」
顔中に不快なニヤニヤ笑いを張り付けた猫は、自身のことをチェシャ猫と名乗った。
「ええ、それがどうかしたのかしら」
アリスの言葉に、チェシャ猫は目を細めて近寄ってくる。
「アリス。お前はジャバウォックを殺すためにこの世界にやってきた。わかるかい? お前は殺すために存在しているんだよ」
「それがなにか?」
アリスは絶対零度の視線でチェシャ猫を睨み付けるが、睨み付けられた猫は全く気にしない様子でケタケタと笑うと手ごろな木の枝に飛び乗った。
「殺すことを躊躇わないことだよアリス。でないとお前が殺されてしまう。この狂った世界は≪アリス≫を殺したくてうずうずしているんだ」
チェシャ猫の体がすうっと薄れていく。
尻尾、足、胴と順に消えていき、最後には姿の見えない笑い顔だけが宙に浮かんでいた。
「ふん、余計なお世話ね」
アリスはキャロルから譲り受けたナイフを取り出すと、その鏡面のような刃に自身の姿を映し出した。
「大丈夫、心配ない」
鬱蒼と木々の生い茂った森を歩いていると、不意にぽっかりと開けた空間が目の前に姿を現した。
その空間の中心に、小洒落た赤い屋根の家が建っている。アリスが家に近寄ると、扉がギイッと錆びついた音を立てて独りでに開いた。
「入れってこと?」
家に入ろうとして、アリスはふと先ほどのチェシャ猫の言葉を思い出す。
(この狂った世界はアリスを殺したくてうずうずしている……)
その言葉を鵜呑みにしたわけではない、ないのだが……しかし用心することは必要かもしれない。アリスはそっとナイフを構え、家の中へと足を踏み入れた。
家に入って最初に目にしたのは女性……天井を突き破らんばかりの巨大な中年女性が、これまた巨大な鍋で豚をまるごと煮込んでいる。
「コショウが足りないね、コショウが」
女性はブツブツと呟きながらアリスのいる入口の方向に顔を向ける。そしてアリスを発見した女性は「おや?」と首を傾げた。
「そこの小さな御嬢さん。誰だか知らないけどコショウ瓶を取ってくれないかしら? ほら、そこの棚にあるからさ」
女性の指さした方を見ると、確かにアリスの隣には棚があり、コショウ瓶が置かれているようだった。
「わかったわ、ちょっと待って」
アリスが棚から瓶を出し、女性の方へ向き直る。するとどうしたことか、女性は不自然に右手を体の後ろに隠していた。
「どうしたんだい? さあ、早くコショウを持ってきておくれ」
ますますもって怪しい。アリスは気づかれないようにそっとコショウ瓶の蓋を緩める。
「ええ、今行くわ」
ゆっくりとアリスは女性に近づく。一歩そしてまた一歩。ある程度まで距離が縮まったとき、女性がにやりと笑う。
隠していた右手には大ぶりの包丁。その巨大な刃がアリスに襲い掛かる。
「やっぱりね」
そう呟いたアリスは、手にしていたコショウ瓶を女性の顔に投げつけた。
空中に飛び散ったコショウの粉が女性の視界を遮る。その瞬間、アリスは地を蹴り宙へ舞い上がった。
重力の影響が小さいこのワンダーランドの特性によって、アリスの体は抵抗なくふわりと舞い上がり、迫りくる凶刃をなんなく回避する。
「疾っ!」
短く息を吐きだすと、握りしめたナイフで女性の首を切りつける。一瞬の静寂、そしてぱっくりと開いた傷口から、大量の鮮血が噴き出した。
飛び散る深紅がアリスの体を染めていく。初めての殺し、その瞬間アリスは自分でも驚くほどに冷静であった。
やられたからやりかえす。そう、それだけのシンプルなこと。
だけど自分がこんなにあっさりと人を殺せるとは思っていなかった。
「殺せて当然さ、だってお前はそのために存在するのだから」
振り返ると、猫の無い笑いだけがニヤニヤと宙に浮かんでいるのであった。




