第2話
魔神との契約は、何かを変えるかとも思った。
だが事実として、存外に日常というのはあずきバー並みに硬かったりする。一線を超えるのにかかる労力は、数年ほどかけてため込んだ数百冊の本の知識に加えて、お小遣いやお年玉をかき集めて購入した、銀・香木・蝋燭・毒草・釜・杯・短剣・生肉・ヤドリギ・サソリなどなどの物品。そしてそこまで揃えてから、連夜眠らず、食事も制限し、太陽の動きをなぞり、月の明かりを眺め、星の位置を見極めた、一か月ちょっとでは足りないのである。
足りないのは偶然とも呼べる奇跡か。
はたまた必然ともとれる悪意か。
例えばエジソンは、99%の努力と1%の閃きの重要性を説いた。つまりは1%の閃きがなければ100%には届かず、積み上げた努力も便所のタンカスに成り下がるという寓話だったりする。
夕陽の照らす帰り道。
現代日本の普遍的な街並みの中、ちょっぴり和を乱しそうな朝の事故現場の名残も、結局は数日ほど話題を彩るアクセントに過ぎない。
あの一瞬のド派手さが残したのは、道の隅にある細かなガラスの破片と、ブレーキ痕ぐらいでしかない。今日の出来事を、覚え続ける人間がどれだけいるか。
トラックの運転手が多分、会社や警察からこってり絞られて、記憶には残るだろうが……それだけである。
何も変わらない。
だからこそ、変えてしまいたい。
黒秦智式は、変化を求めて魔道を歩む。
だがそれも間違いだと最近、うすうす勘づき始めている。
あらゆる研鑽を積み重ねても、裏道を通り抜けてみても、自分が変わらなければ、世界は変わらないのだと。世界とは不変で、自分という感覚器が変わらなければ無意味なのだと。
黒秦智式は、変化を忘れて魔道を歩む。
外側に求めてみても、認識できなければ意味がない。
一歩目から間違えていた道は、結局大成には向かうことがないのだろう。
「キリのいいことだし……魔術、やめてみるかな」
魔神との契約してみても、たかが子どもの命を救うだけで終わってしまう。
どこまでも己の内へと感動を向けていく作業が魔術なのである。
だというのに、下手な人間性がいつも邪魔をしてしまう。
「俺は魔術には向いていないみたいだし……」
所詮は独学の趣味である。
特に興味を持った西洋の魔術は、日本という土地と、日本人という血が大きく邪魔をする。
一度だけ戸籍を探ってみたのだが、外国人の血は256分の1ぐらいしか混じっておらず、それも近所の方から来たタイプの外国人らしい。
陰陽道や仙道辺りにでも最初に興味が向いていれば、もう少しはマシだったのかもしれないが、今となってはそうもいかない。
合わないなりに、西の魔術に身を浸しすぎたのである。思考、魂、術理を通す人体の経といった、神秘を行使するのに必要な目に見えない部分が、歪んでしまっているのだ。
つまりはふたつにひとつ。
スッパリと魔術をやめて、黒歴史に埋もれさせるか。
だらだらと魔術を続けて、うだつのあがらない生き方をするか。
「いや、何。決断の必要はないよ。魔術とはそれが生み出す結果だけでなく、過程すら魅惑の果実となるものさ」
とぼとぼと歩いていた智式の耳に、好青年の声が響く。
いつの間にかうつむいていた姿勢を正して周囲を見れば、暗い路地の方に二十代半ばほどの青年が手を振っている。
カジュアルな服装から、一見おしゃれな大学生である。短めの茶髪は、きちんと手入れがされているのか清潔感もあって無駄にいいにおいがしそうな気配がする。バイトリーダーとか、テニス部部長とか、大学祭実行委委員とか、根拠のない言葉が浮かんで見える。
「……誰ですか? 何ですか?」
ただ、そんな人畜無害臭を醸し出す人種の口から、魔術という言葉がなぜに漏れ出し、なぜに自分へ向けられるのか。当然だが見覚えはない。
「いや。実は朝の様子を見ていた者でね。次いでいうと、こう見えて神秘に関して一家言持っているんだよ」
さわやかな笑みを携えながら、警戒を抱かせない口調で語り掛けてくる。
いや、展開自体はどことなく妙で、唐突であるのだが疑う気持ちも起きずに智式は
「あ、はぁ」
と気の抜けた返事をしてしまった。
朝の出来事。
大きいようで小さな出来事。
ぼやかした言い方ではあるが、智式が余計なことをした交通事故を指しているのだろう。
「ああいうことはね、大概の人間には出来ないんだよ。魔術を知らないならもちろん、魔術を知っている連中なら目立つことを嫌うからね」
「……ああ、ひょっとして連盟とか協会とかそういう互助組織から来た方ですか?」
幾重にも情報を重ねるうちに、うわさを聞いたことはあった。
やはり、現代で現実に活動する魔術師たちは、神秘性の薄いこの世界で生き延びるために伝奇系小説よろしく組織を作っているのだと。
ならば、ついに適当な魔術の扱いっぷりに本職が目をつけてきたのかと、智式は考えた。
「ふぅん、捕まえに来た人だと思ったかな」
「なんだ、違うのか?」
「魔術師なんて基本的に引きこもりで、手の届く場所までしか興味がないからね。どうしても欲しいときだけ手を伸ばすけれどもそれ以外はからっきし。つまり極東に独学の魔術師見習いが何人いようとも、連盟の奴らは基本的に気にしないんだ。よほど大きな面倒事でも、起こさなければ、ね」
青年は、咎めるでもなく、柔らかな笑みを称えて語る。
「だから、個人的な用さ。あくまでも、僕が、君に会いに来た。それだけでね」
「あぁ、はい」
いまいちピンと来なくて、智式はやはり気の抜けたままであった。
少なくとも、目の前の人間は魔術師なのだと推測する。
口ぶりと態度から、自分よりはるかに高みに居るのだということもなんとなく分かる。第一印象ではただの大学生かと思ったが、よくよく見れば、所作に隙がなく、一挙手一投足に意味を感じる。
そして、何かしらの組織ともつながっていないと来た。
魔術的な組織が実在するのだと、断片的な情報からわかったことは、智式にとってちょっぴり小躍りしたくなる事実ではあった。だが、個人的な事情ともなれば、今はその話は置いておくことになるのだろう。咎められることも、あるいは認められることもない。
ひょっとすると、個人的に弟子にしたいとか、鍛えてみたいとかそういうことなのだろうか。朝の出来事を目にして、素質とか才能とかを見て感じ取った……訳はないか。
「ふむ。警戒は解いてもらえないみたいだね。どうにも自分を卑下しすぎるきらいがあるね、君は。自分に才能がなく、無価値だととらえている。だから魔術師の君に会いに来た、という話も信用できないわけだ。自分の力に、人を引き寄せる者があるのか、と」
「……あの。信用してほしいなら、自分の所属と名前、そしてその用件とやらを言っていただければこっちも警戒を解くか一考しますので」
どうにも、放っておくと喋り続ける人種だと判断して、はっきりしない頭で先を促してみる。
「おっと、失礼。特に日本人は、前置きの雑談が好きだと聞いてたんだけど……テンプレートに当てはめすぎるのもよくないらしい。そも、僕が喋るのが結構に好きだというのもあるのだけれど、悪癖は治らないね」
そういうと青年は姿勢を正して一礼をして名乗る。
「我が名はベリアル。八十の軍団を支配する、序列第六十八位の魔王。どうぞお見知りおきを」
「……なっ」
バカなことを。
そう智式は続けようとしたが、できなかった。
舌がうまく回らない。むしろ痛みに近い痺れを感じる。
加えて、その症状が出ているのは舌だけではないことに気づいた。
口回りも、頬も、表情筋も。
目も、耳も、鼻も。
首回り、胸、両腕、背中、腹、両足。
全身に、鈍く、されど耐え難い痛みが駆け巡っている。
「がッ、ア……」
思わずうずくまる。
何が起こったのか。
痛む瞼を必死に開けてみれば、ふと目に入ったのは自身の手。
酷く、暗く汚い、ドブ底のような色に変色しており、その色合いは刻一刻と濃くなっていく。
「何、を」
「直接人を傷つけるのは苦手なんだけどね。種を明かしてしまえば、簡単な呪詛だよ。さっきの君との会話の間中、僕の弁舌には魔力を載せていたんだ。身を晒せば魂までを汚す禍つ声。一番ひどく痛むのは、それを真っ先に受容した耳だろうけど……どうかな?」
確かに。
一番痛みがキツイのは耳の奥の方であるが、程度の差はもはや意味をなさない。
全身が生きながらにして死んでいくような、腐っていくような感覚。神経を引きずり出し、硫酸にでも付け込まれたような感覚。筋繊維を、一本一本ヤスリにかけられているような感覚。
「そうそう、それで用件なんだけどね」
声にならない声を上げる智式を無視して、青年は続ける。
「おなかが空いて仕方がないんだ。そこらの雑魚悪魔とは違う僕なわけで、神秘性の薄いこの物質界で活動するにはひどく燃費が悪い。契約者あたりで済ませてしまってもいいけど、当然それは不都合の方が多くってね。わかるでしょ? だから手ごろな食事を探していたんだ。上等なのは求めてないけど、なるべく質の良い、魔力か魂の持ち主を。そしたら――」
うずくまる智式に、悪魔はを名乗る青年は近づく。
「なんと、きっちり魔力が励起している魂があるじゃないか。いやはや。個人的な趣向の問題だけど、魔力だけのただの人間よりは。わずかでも魔術を使える人間を魂から喰らった方が、好みでね」
身悶える痛みの中、頭の奥の方で、一瞬遅れながらも聞こえた言葉の意味が整理される。
悪魔をはじめ、超常的な存在が現代の人間の世界に居続けるには魔力がいる。
霊格が高ければ高いほど、その消費は大きい。
基本的には、召喚者や契約者がその対価を払うが……いくらでも代替は効く。
要するに、人を食わせればいいのだ。
「ああ、肉には興味がないから安心しなよ。きちんと死体は残るから。行方不明なんて寂しい結末はさせないよ。葬式も墓も、すぐにできる。僕が頂くのは、僕の言葉に染められて、僕好みになったその魂だけだ」
そうして、悪魔は少年の出来具合を見てみようと身を屈める。
「……けるなよ」
「?」
そこで、何かをつぶやいていることに悪魔は気づく。
一言でもしゃべろうとすれば、発声に関わった器官すべてがもげるような痛みが走るだろうに。
「遺言かい?なら聞いてあげよう。誰かに伝えることはしないけど」
「――ふ、っざけるなよ。口先野郎!」
ぐぃっと。
体を、上げる。
蠢く闇の色に染まる中、眼は、煌く火が燈っていた。
「魔道を歩んだ……時点で、死は、覚悟して……いる。だが、それは、いつ死んでもいいという意味では……ないッ。どのような落命の可能性も……踏破するという覚悟だ!」
叫ぶ。そんなこと、本来ならできない状態に来ている。
だが本当の理不尽を前に、智式は胸の内から燃える何かを感じ取っていて、それが痛みを超えて叫びを作った。
「良い啖呵だね。だけど、その姿で何ができるというんだい?」
タカを括り嘲笑う悪魔。
彼の肉体は、使い物にならないはずだ。あとは魂をゆっくりすするだけ。
悪魔はそう目論んでいたのだが。
「できる、とも」
智式の口には小さな金属片が加えられていた。
「おや、それは」
「Their sword shall enter into their own heart. Their bows shall be broken!」
――されどその剣は己が胸を刺し、その弓は折られる可し。
小指の先ほどの大きさの、鉄の欠片を飲み込んで腹に収めると、智式は素早く詠唱を施した。
魔術の王が紡ぎし詩篇、三十七章の十五節。
王の言葉の一端は、惑星を示す金属……この場合は鉄でできた護符と組み合わさり、そして時を正しくすれば、意味が揃い、魔術と成る。
火星の6の護符。
あらゆる悪意を跳ね返す術。
智式を染めていた腐敗の漆黒は、体から引きはがされ、悪魔のもとへと向かう。
「う、おっとっと……えいっ」
ほんの少し、悪魔は驚く。
よくもまあ、ここまで追い詰められて、やり返せるものだと。
だが、自身に跳ね返る呪詛は、蜘蛛の巣でも払うかのように手を振っただけで霧散してしまう。
「……ああ」
先の呪詛など、それこそ息を軽く吹きかけた程度。自分の呼気を返されたところで、苦しむようでは魔神なぞ務まらない。
それでも、胆力に驚いた一瞬で、既に知識という男は逃亡していた。
うす暗い路地には、ベリアルただ一人が残されている。
「なるほど、食事の前には軽く運動ということか」
つまりは鬼ごっこ。
否、ごっこではない。
追うのは、まさしく西洋の鬼たる魔神。
捕まればムシャリと魂ごと喰われる。
「そういう趣向も悪くないね」
ベリアルが児戯と断じたとき、智式は全速力で移動中であった。
運動は得意な方ではない。
しかし、先ほどのようにいくつもの護符を重ね合わせて逃げの一手を強めている。
太陽の5の護符で、移動速度を上げ、
火星の4の護符で、身体強化を施し、
木星の5の護符で、逃走経路を霊視する。
そのほかにも、これまで学んできた「おまじない」を組み合わせ、逃げる。
何の因果であろうか。
魔術をやめようかと思った途端に、魔術が原因で命を狙われ、魔術で以って逃走を図る。
嫉妬でもされたか、魔術という概念に。
あの悪魔を名乗る青年が喰らうまでもなく、既に己の魂は……否、運命は魔に犯されているのやもしれない。
「は、っはは」
無理矢理に心臓を普段の数倍も昂らせ、現時刻の計算に脳を超稼働させ、口は呪句聖句様々な文言を矢継ぎ早にほとばしらせ、筋肉の疲れにも嘘をつき、裂ける血管も無視をしながら、合間に、笑った。
思わず、笑ってしまった。
なんて、ばかばかしい考え。
俺が魔術に嫉妬されるだと?
「片足のつま先突っ込んだくらいで、惚れられるとは……とんだ売女だな、魔術という奴は」
今日という日の巡り合わせが悪かっただけだ。
腹をすかせた魔神でも、ちょいと離れれば、面倒臭がって、狙いを別の誰かに変えるだろう。こんなチンケな人間に、固執する理由はあるまい。
散々逃げ回って、安全を確認したら帰ろう。
そうしたら今日はもう、風呂に入って飯を食って、寝る。
明日からまた同じ日々を繰り返そう。
魔術は、あんなのが居るのなら、簡単な儀式もしばらくは避けた方がいいだろうか、折角だからまた基本の読書から始めよう。
頭の中、次に使うべき術式未満のおまじないを何にするかと一緒に、今後の方針を考えて、再び一歩踏み出す。
「……うわらばっ」
が、盛大にぶっこけた。
気づけば自転車ぐらいのスピードが出ていたのかもしれない。軽くバランスを崩しただけでも手痛い事故である。
「いてて……」
何に躓いたのか。
痛みに耐えながら、少し後ろを見てみれば、なにやらごみが落ちている。古木の一部だろうか。長い年月水にでもさらされて溶けかかったような黒い、短い、太めの、棒のような。
「あ、れ?」
ごみの先には、別のごみがついていた。
靴だった。こっちはすぐに分かった。自分がさっきまで履いていた靴だ。ここ2年ぐらい使っていて、年季の入って気に入ってはいるがそろそろ変えようかと思っていた靴だ。
「あ、ああ」
靴が脱げたのか。
と思考を切り替えて、痛む体を引きずりながら、靴に近づき手を伸ばそうとする。
持ち上がらない、腕が。
そう、さっきまで散々全身の筋肉を酷使していたのだから、感覚がなくなっても多少は仕方がないだろう。
「そう、か」
酷く疲れたと誤魔化してみる。
だいぶ逃げたのだから大丈夫だろう、一度体を落ち着けようと、名も知らないビルの壁面に体を預けてみる。どろりと、すぐに倒れる。
「あ、……あ」
そうだ。やっぱり疲れて、
違う。
そうじゃない。
体の左半分がない。
バランスだって、崩れるだろう。
さっきの生ごみは足だった。腕も取れていたから上がらなかった。
跳ね返したつもりの呪詛は、逃走中にも体内に居座っていたらしい。
もう、全身が腐って、ちぎれたり、もげたりしている。
左足が腐って千切れた拍子にこけたようだが、両腕は結構前にどこかに落としたらしい。周囲には見当たらない。
鎮静に使った術がまだ効いているのか、いくら残っているかわからない脳みそは冷静に考えを回す。
ただ、何を考えても、流石に今度はもう無駄だということ。
「チェックメイト、っていうと様になるかな?」
また、さっきの青年の声が聞こえてきた。
幻聴ではないと、理性が一応教えてくれる。
「弱体化しているとはいえ、僕のような王位クラスの呪いを受けて、よくもまあ走り回ったもんだよ。褒めてあげよう。ただ、まさかと思うけど、本当に逃げ切れるとか考えていた?」
右目だけで、男を見やる。左目は、もう――だから。
遠近感はつかめない。というのは、片目だからではない。
体の形が、変わっているからだ。
もう青年ではない。揺らめきながら立っていたのは赤いシルエットで、なんとなく大きいようにも小さいようにも見えて捉えどころがない。
「ま、どっちでもいいけれど……魂は食べごろかな?」
シルエットの上の方の他より少し暗く黒ずんだ点は眼だろうか。こちらを品定めするように、きょろりと動き回る。
悪魔。
呪いの力から、ただの魔術師ではないとは理解していたものの、名乗った通りに、その姿は悪魔であり、ようやく確信できたのである。
目の前にいるのが、ただ独学でのんびりと生きてきた魔術師もどきが、敵う相手ではないのだと。啖呵を切ろうが逃げようが、魂を差し出すしかない相手であるのだと。
昨夜の契約にも、悪魔は呼び出した。
しかし、その時は遠く聞こえる声を手繰り寄せつつ神経を張り詰めるだけの作業だった。サブノックとは、ほんの片鱗でしか触れていない。
そんな経験は、吹き飛んでしまうレベルであった。
「どうだい? まだ何かしてみる? もうちょっとだけなら付き合ってあげてもいいけど」
影は笑っている。その笑みだけは、青年の時の面影が僅かに見え隠れしないこともない。
智式の方はと言えば、笑うための頬肉が溶けてしまっている。
今また、禍つ声は発せられ続けている。
わずかに残った理性ある脳みそによる思考も、黒くぼやけてきている。
芋虫が葉を齧るように、ゆっくりと着実に、死は数秒後に迫っている。
「流石にダメかい?……うーん、でも、健闘した方だしねぇ。まだモノを考える余地があるのだから」
ベリアルは智式を見下しながら、今度こそ、捕食のために近づいてくる。
「ああ、それと。ちょっと残念だけど自業自得なお知らせだ。君の体はごみクズみたいになっているから、誰も君の死体を、君だとも、死体だとも気づくことはない。……君は永遠に行方不明になるんだ」
智式の脳は、その言葉に条件反射を起こして、自身の家族のことを思い描いた。
走馬燈というには、断片的な言葉のいくつか。
黒秦智式が神秘に首を突っ込んだことを知らない、両親、妹。
自分の家族に、あまりいやな思いはさせたくないと思った。
「いか、……り、の、日に……ッァ」
「っはァ?なんと……?」
また、ベリアルは思わず足を止める。
――「主は汝の右に在りて、怒りの日に王を討ちたまえり」。
『詩篇』は百十章の五節。勝利をもたらす、火星の4の護符を起動する詩句。
無意味を通り越した、それこそ死体の肉が熱で収縮したような、ただの物理現象に近いその詠唱。脳のシナプスが、いたずらに電気信号をつないだだけの、反応。
それでも。
いや、だからこそ、ベリアルは驚いたのだ。
「……本当、ただ殺すには惜しいな。よし、しっかりとお前の魂は味わってから咀嚼してやるさ」
改めて、そうベリアルが決定を下したとき。
「見つけましたよ。無価値な悪魔」
りん、と。
小さな鈴でも転がしたような、その路地に響く声。
智式のつないだ、無意味な行動は、意味を作った。
「……あー、遊びすぎましたね」
「見つけまましたよ、無価値な悪魔。久々の人界に、浮かれましたか」
薄れゆく意識の中、智式は女を――光を見た。
輝く色は、金のソレを超えて、純粋な光に近い眩さである。
光源は、絹よりも上品なプラチナブロンドの腰まである長い髪。晴天の日の空と海とを混ぜ込んだような碧い瞳、石膏よりも白く滑らかな肌。
纏うドレスは漆黒のビロードであるものの、むしろ飾りっ気のないデザインが単純なコントラストによる強調を果たし、光は際立つ。
人の形をした超常。
それは今、脅威となっている悪魔ベリアルと同じようで、違う。
彼女は、人を超えて人の先に行こうとする者である。
最初からの規格外である悪魔のような存在ではなく、道の遥か彼方へ向かうがゆえに並の規格を外れる者。
智式は気づいた。彼女こそが、探究者たる真の魔術師であるのだと。
「うかつでしたね。こんな極東まで嗅ぎ付けてくるとは」
「ああ、もう喋らないでください。これ以上の好き勝手は、私が許可しませんので」
ぴしゃりと、音がしたような。
事実として、その女には現在進行形で智式を殺しにかかっている呪詛が効いていない様子であり、おそらくは何かしらの防御の策がとられているのだろう。
あるいは策以前に、彼女の性質そのものが、児戯程度の呪詛は寄せ付けないのか。
「人類の道具に過ぎない下等生物が、たまたま自分より弱い生き物を見つけて生きがらないでください」
「おお、怖い怖い。僕らをそんな風に断ずるなんて、流石は〈レメゲトン〉のお姫様なだけはあるね」
レメゲトン。
三千年前の王が記した魔導書の名である。
しかし、悪魔の言葉には、ただそれだけではない意味が込められていた。
「――喋るな、と忠告はしました」
宝石と見紛う美貌が、僅かに歪む。眼前の悪魔の言葉に、心底不愉快さを感じたがためである。
険しい陰が、表情に一筋刻まれる。
それを見たベリアルは自分の言葉に揺れる相手に、一瞬だけ愉快に思った。
本来なら、ベリアルは自身と浅からぬ因縁のある彼女に向かって、もっと言葉を投げかけてやろうかと思ったのである。
だがそれは叶わなかった。
ベリアルは、先の忠告が自らを絞首台へと送らんとする鐘の音だと気づいていなかった。
「――!?」
驚きの刹那。
猛る吠え声。
吹き飛ぶ己が霊体。
気づけば、ベリアルの半身が食いちぎられていた。
『GOOoooAaaaaa!』
耳でなく、脳の奥から響いてくるような咆哮。
それは、根本においてはベリアルの呪詛と同じ、魔神の声。
しかしそこに乗せられた魔力の質は、主人の怒りか、使命感か。いずれにせよ、趣向は異なり、ただベリアルを威圧する。
「マルバス」
意を込めて、名を呼ぶ。
序列は五位。地位は総裁。三十六の魔神軍団を支配する。
つい数秒前までは、ご主人の傍に姿を消して控えていたのだろう。今は、そのご主人の指示で実体を得て、ベリアルへと食らいついた。
形だけは言ってしまうと獅子なのだが、体躯に色やディティール、そして重圧がただの獣ではないことを示している。
動物園などで見るものよりも大きさは三倍から四倍くらいだろうか。少なくとも人間などは噛むより先に丸のみにできそうである。
体色は異質である。主人である女性が着るドレスのビロードよりなお艶やかな、鴉の濡れ羽色とでも表現すべき黒色の体毛。地獄から来たと言えば、誰が見ても納得できるだろう暗黒の色。
牙、爪は凶暴なまでに鋭く、眼光はそれら以上に見る者を怯えさせ、過酷な野生でも身につかない殺気に満ち溢れている。
そして何よりも、世界を捻じ曲げんとするほどの存在感。
在るだけで秩序を乱さんとする風格。
「本っ当……油断が過ぎたかな」
対するベリアルは、王位たる風格を損なっている。
先のマルバスの一撃は、大きく急所に入ったためである。
「実体化からの攻撃へのアクションがほとんどの―タイムだった。判断力だけでなく、魔神との連係動作も完璧と来た……魔術師が、よくもまあ練り上げたもんだ」
「精密操作を修得する過程の副産物です。もっとも、王を目指すものとして、万に通ずるのは当然のたしなみです」
女が言葉を吐き終えるか負えないかぐらいのタイミングで、再びマルバスが動く。
指示の言葉はいらない。魔神の実体化は契約者の魔力によって賄われる。その魔力に意図を込めて送れば、発声は不要に魔神を操ることが出来る。
ただ、「魔神と契約し」「魔神を実体化させ」「魔神に指示を送り」「魔神を従わせる」それぞれを十全に行えるようになるまで最低でも数年単位の研鑽が要求されるという。才能がなければ、第一の段階すら、一生かかっても不可能な場合もある。
だが、やってのけてこその魔術師。
「チィッ!」
ベリアルは、流石に動揺が隠せなかったのか舌打ちをしつつ回避をした。
損傷を受けたとはいえ、こちらも魔神。急所を突かれようと、半身をもがれようと、その程度では致命傷にはなり得ない。
続けてマルバスはベリアルへ飛びかかる。牙、爪を以って更にベリアルをえぐらんとする。
吠え、圧倒させ、食らいつく。
連撃は獣さながらの勇ましさでありながらも、計算に基づいた理知的な戦闘を構築していた。
ベリアルは呪詛を叩き込もうと画策するも、動作を見誤れば、直後に攻撃が飛んでくる。
「まぁ、僕は戦闘向きじゃあない、からね」
呟きながらも、マルバスを必死に観察し続け、勝機を見出そうとする。
ここだ。
何の弾みか、マルバスの大ぶりの一撃に対し、ベリアルの回避後の位置が噛み合った。
ボロボロの霊体からかき集めた力を、マルバスの横腹に叩き込もうとした。
「マルバス」
しかし、それは罠。
再び魔神の名を呼んだ主人たる女性は、冷徹に戦況を観察していた。膠着する事態を突破するために、あえて隙を作り、誘い込んだ。
「!?」
大ぶりであったはずの一撃は、そうと見せかけるだけのフェイク。
マルバスは速攻で体を反転させて、呪詛を今まさに撃たんと構えていたベリアルへと牙を剥いて突進を仕掛けた。
結果は当然、主人の画策もあってマルバスの方が一手早かった。
魔神は強い。
だが、それは人類や並の神秘に対しての話である。
同じく魔神として名を連ねるマルバスの突進は、ベリアルの体へ吸い込まれるように、見事に決まった。そして今度こそ致命傷足り得た。
「ッが、は、ァ!」
もはや余裕の欠片もない。奇しくも、自らの呪詛で肉体を崩壊させた智式と同じ状況である。砕けるように吹き飛んだベリアルの体は、肩口から上のみが残るのみだ。
その残った部分も、マルバスが前足で押さえつけて、抵抗や逃亡をさせまいとする。
警戒は解かず、女は改めてベリアルに向き直る。
「さて、話してもらいましょうか。貴方の契約者がどこにいるのか」
「……契約は絶対だ。いくら口の軽い僕でも、話すことを禁じられればそれに従う」
「嘘をつきなさい。今の契約者の器量で、あなたを絶対的に従えさせることはできないはずです。……協力関係にあるのですね?」
「さて、ね……」
悪魔と人間。
本来なら、その力量の差から契約という形で関係を縛るのだが、例外として単純な協力関係を結ぶことがあるという。
文化思考生態系のどれもが人間と比して、大きく異なっている悪魔だが、それは基本的な部分である。ただ一点、性質や目的だけが一致することが多くはないが、無いこともない。
「彼には……アロガンスには何を持ち掛けられたのですか?」
「特には何も。俺にだってね、言えることと言えないことぐらいあるんだよ」
己が散る寸前でも飄々とした態度を崩さぬベリアル。
「喋らないか」
「俺は自分でしゃべるかどうか決めたいんでね。少なくとも、ソロモンの姫様に強要されるのはまっぴらごめんだ」
「ならば、消えろ」
崩れかけのベリアルを、マルバスはそのまま前足で潰した。
潰された欠片は、元より形無き魔力の塊である。一瞬だけ瓦礫のクズのように飛び散ったが、すぐに霧散してしまった。
「この手ごたえ……本体ではありませんね。下級の使い魔を端末に、外見と能力だけましに整えましたか。もっとも、そんな余裕がアロンガスにあるとは思えませんが……」
ベリアルが散った跡を検分しつつ、女はつぶやく。
マルバスは、自らが潰した魔神への興味をすでに失っており、周囲を警戒している。
が、ふいにその黒獅子と、黒秦智式は目が合った。
目があったとはいっても、物理的に視線が噛み合っただけである。智式の意識はもうろうとし、先の応酬の始終とて、妙に熱くなった脳の一部分だけが着々と記録しているだけである。
そこにもはや思考はない。
マルバスが一方的に、智式の眼球の瞳の部分を見ているだけである。
ただ放置しておくのもどうかと思ったのか、マルバスは付近を検証している己の主人に判断を促す。
「――と、なれば必要な術式はこちらで組めそうですね。……ああ、忘れるところでした」
女は集中しており、マルバスが小さな唸り声を上げるまで、本当に智式の事は忘れていたらしい。
「どうしたものでしょうか、これ」
改めて、智式の状態は本当に潰される直前のベリアルとどっこいどっこいである。
左半身は腐って落ちて、右腕も肩ごと無くなっている。右足は辛うじてついているが、文字通り薄皮一枚である。残った皮膚は黒くただれて、顔も、元の形の判別は難しい。
まるで何日か放置された死体。
「それでも、まだ生きているんですね」
そう、これでも生きていた。
本当の一般人なら、魂が腐る前に、肉体が完全に朽ちていただろう。それは単純な死である。
だが、黒秦智式が我流にして独学ながら、魔術の鍛錬を己の内外に施していたため、肉体も魂も、呪詛の通りが遅かった。
結果が、これなのである。
ほんの数分とはいえ、生きてはいけない状態で生きながらえてしまったのである。
「介錯をしても構いませんが……一応問うておきましょう」
それは親切心というほどでもなかった。
「死を選択し、楽になりたいですか?」
ただ、このまま問答もなく殺してしまえば、腐った魂はそのまま悪霊にもなりかねないと思ったから。未熟な柄にも神秘にふれた人間が、雑念を持ったまま死ねば、その雑念は怨念になり魂を核としていわゆる魍魎の類になって、その地域の結社の仕事を増やすことになる。よそから来た女にとって、自身が原因で討伐すべき悪霊が一つ増えたとなれば、それは面倒な確執を生みかねない。
だから打算的な、必要手続きとしての最低限の質問。
「お、れ、……は」
智式の、黒く溶けゆく脳髄の、奥の方が反応した。
まだまともに残っている部分。火星の5の護符を起動させようとした部分。先ほどの、本物の魔術師の闘いを見届けた部分。
頭の芯が、また少し熱を帯びて、ただの有機物の塊へとなりつつある肺から喉、口元へと命令を下す。
「生き、たい……」
まだ歩め、と。
「知り、た……い」
更に進め、と。
「究めて、みた、い」
超えてみせろ、と。
「……わかりました」
意外な回答を、女は得てしまった。
熟達した魔術師ならば、まだ納得もしよう。だが、眼前にいる少年は、安穏の中に魔術を学んだ者の筈。しかるに、死の淵に立ってなお、前を向かんとする気概をいかにして確立させるのか。
疑問には思ったが、しかしその気概こそが、女がベリアルに辿りつき、その一端をつかみ取った要因でもある。今は追及するよりも、評価を下すべきである。
「苦しみの中、なお生きることを望むならば、……さらなる苦しみをも覚悟できましょう」
女は懐から、何かを取り出す。
形は少し歪だが、細長い直方体で、掌に握りこめる程度の大きさである。片方の端には金属の端子がついており、何かに差し込めるようになっている。
行ってしまえばひとふたまわりほど大きいUSBメモリを想起させる。
「……あの子に使ってあげようかとも思ってしまっていましたが……結局、使う機会はありませんでしたね」
現代において、魔道と科学は、一部分でだが交差している。
保守的な思考の魔術師は受け入れていないが、数が少ないものの革新的な考えを持っている若い魔術師や、柔軟な対応をする錬金術師などは、護符や呪物を画一的に機械工場で生産することにためらいを感じていない。その錬金術師たちなどは、研究の過程で生まれた資料を、一般企業に売り払って生活している者もいる。
このメモリはその成果の一つ。
女が所属する〈レメゲトン〉は保守的な魔術結社であるが、儀式に必要な物品をそろえるのに、間接的に科学技術を利用することも少なくない。特にこのUSBもどきは、女が個人的に注文したものであった。
まだ試作品の段階で、これひとつしかないのだが。
「ちょうど、マルバスを出しておいて良かったです。呪毒の解析と、それから……」
女にしては珍しく、直接魔神へと、口頭で指示を出す。
マルバスはそれに従い、己の力を行使する。
そして智式は、最後の力を振り絞った返答で以って、意識をついに断絶させた。
もう、僅かにも音も光も届かない。暗黒へと感覚が落ちていく。
ただ、五感が途絶えても、芯に残る熱だけは何故か消えることはなかった。