第1話
英語の小テストはローテンションながらも乗り切って、定期テストで挽回の必要性がない程度の結果を残せた、はずである。なにしろ朝方、登校途中の不幸な事故の最中に思い出したので、勉強は直前の休み時間にちらと教科書を眺めた程度である。
ただ、智式は魔道を学ぶ際に英語の訳書にもいくらか手を出しており、辞書とにらめっこしながら筆記体を解読したことは多々ある。そのため、根を詰めた勉強をせずとも、英語に関しては危うくない点数が取れるのである。
「どうしたかな、智式。朝から気分が優れぬようだが……よもや、先の小テスト如きが原因ではあるまい?」
自分の席でダラりとしていた智式に、どことなく横柄な喋りの男が話しかけてくる。
大道久遠。
黒秦智式とは、中学からの付き合いであった。
「登校途中に交通事故を目にしちまって、なんとも、非日常にショックを受けてただけだよ」
「ほう。俄かに騒ぎになっているアレか。現場に居合わせたのだな」
「死傷者ゼロってのが、信じられんくらいだ」
本当に信じたくない話ではあった。
自分が初めて伝説と接触できた証左を、使い潰したという事実は。
「トラックなぞ、前面が酷く潰れておったらしいな。何処にどうぶつかったのやら……しかし、その時横断歩道を歩いていた童には、衝突しなかったとか。まさに不幸中の幸いという奴かな」
「交通事故なんてめったに見るもんじゃないな。肝が冷えたさ。これから横断歩道は上下左右きちんと確認してから渡ってやる、って心に誓ったよ」
智式は適当に話を合わせる。
件の不幸中の幸いは自分が招いたなどと、喧伝はしない。
当たり前のように、魔術とは俗人の知る処ではなく、偏屈を極めた脳みそにしか根付かない遺物であるからして、大道のような男は知る由もないのである。
「確かに。今生は常に一寸先が闇。ついでに前後も見ておかねば、いつ虎の尾を踏むとも知れぬ世の中だ。用心に越したことはない」
からからと、冗談めかして大道は返す。
本当に。
智式は、脊髄反射で行動するのはやめようと思う。
「して、用心と言えば次の授業の、唐林教諭だがな。御仁も、交通事故か何だかで怪我をしてしまったらしい」
「ほうほう。つまり代わりに美人がやってくるとでも?」
「残念ながら。どっちの手だったかは痛めたそうだが、体の方はピンピンしているそうな。普通に授業をするそうだ」
「あの陰気な先生がか? よくもまあそんな根性を隠し持っていたもんだ」
「私が」
二人の会話に、声が挟まる。
かすれるようなハスキーボイス。だというのに、確実に耳に声が届いてくるのは腹から声出す体育会系だった過去でもあるのか。
今話題に上がっていた、唐林である。
「何か、話題に上がるほど君たちの興味を引いたかね?」
妙に神経質そうな視線の、やせぎすの中年男性は、どことなく羽をむしられた鳥類を思わせる。あまり流行っていないあだ名だが「鶏ガラ」と呼ばれており、この年代の男性を好かない女子群から発生したらしい。
「ああ、その手の事ですよ。ちらと聞きましてなぁ。大事は無かったご様子で」
大道が包帯の巻かれた唐林の左手に目をやる。処置はいたって簡単で、大道に聞いた通り軽傷であることが察せられる。
「まったくだ。自転車で、車との接触だったが、互いに速度は出ていなくって、擦り傷と手首の捻挫程度だ。授業に支障はさほどない。教師のケガを喜ぶ生徒連中には、悲報だったかもしれんがな」
そう言いながら唐林は智式の方を見る。
どうにも直前の会話は筒抜けだったようであるが、智式は特に悪びれた様子もない。
「今朝がたの話は聞きましたか先生? どうにも昨今は交通事故が多いみたいっす。是非にご自愛と、ご警戒をば」
「……上下左右と、前後も確認することを、私も心に誓うかな」
皮肉な笑みを称えながら唐林は言う。
どこから聞いていたのか、いつからいたのか。
「なるほど。壁に耳あり障子に目ヤニ」
「汚いな、智式」
「だろう? やはり、唐林先生はもう少しばかり性根を直した方が」
「そうじゃないが」
「そういえば先生」
特に意味もない会話をぶち切って、智式は思い出したように唐林に向き直る。
「何か」
「前、話してた本ってありました?」
「話……ああ、それだったな。そもそもキミたちに声をかけたのは」
言いつつ、怪我をしてない右手に持っていた本を、智式の机に置いた。
古い、錬金術に関する本だった。
「何の拍子で買ったんだったか、忘れてしまったがね。確かにあった」
この高校は二年に上がると、社会科目が選択式になる。
そのうち公民の、倫理科目の担当が唐林教諭なのである。
何年、教師生活を続けているか智式は知らないが、人類における思想の歴史に関する本……つまりは魔術に関する本を知らず知らずのうちに唐林は所有している。
そのため、智式は何度か本を貸してもらっている。これまでに読んだ本の五分ほどは、唐林から借りた本だったりする。
「何か哲学の類について研究するときにでも買ったのだろうな。オカルトにかぶれすぎていたので、一度読んだだけで、書庫の隅で埃をかぶらせていたよ」
「ははぁ。確かにこれは、智式が好みそうだ」
「まぁ、俺は『かぶれ』だからな」
智式が魔の道を行くことは、誰も知らない。
ただ、「そういう趣味」がある、という程度のことは親しい人間は知っている。
机上の本を智式がひょいと取り、ぱらぱらと中身をめくる。
「ふんふん。こいつぁ僥倖です。探していたものに違いない内容です。いやはや感謝しますよ、唐林先生」
「ならば、陰気との評は取り下げるかね?」
「はい。この恩を忘れない限りは。っと、払いきれない分の恩は、成績でお返して良いですか?」
「黒秦は私の科目には真面目だからな。授業態度や点数に取り立ててこれ以上望むことはない。また何か別の形で返してもらうよ」
軽口の応酬。
陰険ではあるが、唐林の根が存外に柔らかいのを智式と大道は知っている。
とっつきにくい気質だが、悪い先生ではないのだ。
「では、適当に読み終わったら返してくれ。私が見当たらなければ、職員室の机上においておけ」
「あいあいさ。いつも通りってことですね」
智式は本を鞄に仕舞い、唐林と……大道も教室を出ていこうとする。
「……あ」
次の授業は移動教室であった。
大道はちらりと智式へ向いて、先へ行っていることを目で伝えてきた。
話し込んでいて、少しばかり時間の余裕がない。
急いで準備をして教室を出ようとすると危うく、誰かとぶつかりそうになる。
「っと、すいません」
軽く頭を下げて、立ち去ろうとすると
「待ちなさい」
ぴしゃりと、逃がす間を与えぬとばかりに呼び止められた。
「はい」
急いでいたとはいえ先の態度は失礼があったかと、智式は内心で僅かに焦った。
返事と同時に体を、ぶつかった相手に向き直っていた。
そこに居たのは、理知的な印象の女性である。眼鏡をかけているから、というわけではなく、物腰と呼び止めたときの語調から智式はそう感じた。
智式の記憶が正しければ、ほかのクラスの英語の授業を担当している先生で、竹ノ内といったはずである。
後ろに一つに束ねた髪型は、整った顔立ちを良く見せている。詳しい年齢を智式は知らないが、校内の教師陣でも若いほうの筈で、第一印象的には生徒受けもしそうなのだがイマイチ評判を聞かないのでぱっとしない。
とはいえ智式は、そこまで教師の評判を気にする方ではないのだが。
「あー、すいません。急いでいたもので」
「いや別にそれは良いよ」
再び、ぴしゃりと。
きちんと頭を下げようとした智式は、変な姿勢で止まってしまった。
「さっき、唐林先生から、なにやら小難しそうな本を受け取っていなかった?」
唐林とのやり取りを見ていたのか。
次の授業までの時間を配慮しての事か、間を置かず端的に発せられた質問に、逆にその意図を汲めず智式は
「あ、はぁ」
と思わず生返事を返してしまう。
「趣味程度なら、とやかくは言わないけれど……のめりこみ過ぎないように。あなた達の年頃は多感だから、用法容量を間違えると厄介に巻き込まれるよ」
眼鏡越しの視線は、どこか威圧的というか、単なる教師の立場からのお節介な物言い、に留まらない雰囲気を感じた。
色々と見透かされているような。
なんでも知っているかのような。
だが、その辺の感触をいっそ気のせいということにして、先生からのお小言で済ませてしまってもいいような。
「私が言いたかったのはそれだけ。チャイムが鳴るから、早く行きなさい」
「あ、はい」
「前を見て、曲がり角とかは気をつけるように」
智式が妙な感覚を整理しきれないでいるうちに、竹ノ内は去っていった。方向的に職員室へ向かうと思しく、おそらく次の時間は授業がないのだろう。
だが、もちろん智式には授業がある。
竹ノ内先生の言葉と、そこに感じた何かを胸にひっかけつつ、智式は教室へと向かった。
ただ、そんな引っ掛かりは放課後には忘れてしまうだろう、とも思いながら。