序章
手の中のコインは、ひしゃげていた。
コインは銀製で、鉄などの金属類よりは柔らかいからと言って、何もここまでひしゃげてくれなくてもいいだろうに。無残にひしゃげて、歪んで、折れ曲がっていた。
「……」
男はもう家に帰りたくなった。正直、半年は引きこもらせてほしかった。
だが、ダラダラと厄介な爪痕を残し続ける現代日本の学歴社会は、半年のロスに優しくはない。ならば、せめて、今日だけでも休みたかった。一日ぐらいはいいじゃないか。
しかし、男の脳裏に英語の小テストがよぎる。単元の区切り目ごとに行われる小テストは、定期テストと抱き合わせでぶち込まれて、否応なしに成績という形で脳みそを測ってくる。一回分の欠席は、足の小指の先ほどの扱いでも、タンスの角が迎え撃ってくるなら、致命傷は免れない。
行きたくない憂鬱さと、行かなければならない憂鬱さ。
ひとまず紛らわすために、大事だったコインがそうなった原因を眺める。
通学路。
学校が乱立するこの一帯。
児童も生徒も闊歩する。
が、今は"交通事故"のやじ馬で、生意気な若者も我が物顔では歩けない。
交通事故。
幸いけが人は出なかった。
血気盛んな小学生が、歩行者信号が青になった瞬間に左右確認せず飛び出したら、交差点をこれまた碌に確認もせずに曲がってきたトラックが、メジャーリーガーの投げる球と比べれば遅めの相対速度でぶつかった。……分かりづらいか?
二トンの鉄の塊が三十キログラムほどの肉の塊に、お互いに無自覚に、気づいた時には手遅れに、一巻の終わりと言わんばかりに、ぶつかった。……一巻の終わりということは二巻には続くのである。
つまり、「幸いけが人は出なかった」。
その時その場に、ちょっぴり上機嫌で登校していた男が居合わせたのが、けが人ゼロのからくりであった。
何も、身を挺して児童を助けようとした訳ではない。
男は最適解を選んだだけだ。
まず、上機嫌の源であった、完成したばかりの銀のコインを、ぶつかる寸前のトラックと児童の間に放り投げた。
次に、呪文を唱えた。
……そう、それだけである。
簡単かつ、コストも低い。もっとも、人命に代えられるなら、どんなコストだって低くなってしまう。
「……」
ちなみにここで男が支払ったコストというのは、数年ほどかけてため込んだ数百冊の本の知識に加えて、お小遣いやお年玉をかき集めて購入した、銀・香木・毒草・薬草・酒・蝋燭・釜・杯・短剣・生肉・サソリなどなどの物品。そしてそこまで揃えてから、連夜眠らず、食事も制限し、太陽の動きをなぞり、月の明かりを眺め、星の位置を見極めた、一か月ちょっとの時間である。
――さもありなん、それが"魔術"なのである。
昨夜、そこまでのコストを重ねて完成したコインは、今朝、一瞬にして銀屑になった。
そのたったの一瞬、児童の周囲に魔力で編んだ防壁を張り巡らせて、それだけであった。
アホのように金と時間をつぎ込んで、文字通り魂を削る危険な交渉の末に、ようやくただの一度きりの力の行使を"魔神"と契約した、その証。
その、銀のコインは契約を果たしたのち、力の負荷に耐え切れず、ご覧の有様なのである。
「……学校に行くか」
"魔"とは、陽の光歩く普遍の人の眼には止まらず。
男の――黒秦智式の行いは、誰も知ることはない。
人々は、本当に只の奇跡として児童の無事を祝いながら、事故を処理していった。
ただ一人、その光景を暗闇から見つめていた少女を除いては。