広がる輪
Q1、量子力学とは何ですか?
A、目に見えない小さな小さな世界の力学です。
「『アインシュタインが正しければ物理学はおしまいだ!』」
「……ケンカ売ってるの?」
「朝からケンカはやめてよね」
若い声が3つ。
最初から順に、
イワン ポリャコフ(16)
藤重 カケル(17)
ケイト アクトン(17)
ロシアに日本にイギリス。出身はまったく別々だが、皆同じ大学に通っている。飛び級して3人が通っているのはイギリスの名門、ケンブリッジ大だ。
そしてただ今の時間、AM5:00。他の者はみな夢の中にいるにも関わらず、暖炉を囲ってノートと鉛筆を持ち、仲睦まじくおしゃべりをしている。
「ボーアってなんでこう、パッとしないんだろうなぁー」
先ほど彼が口にしたセリフは、アインシュタインによって量子力学が基礎から崩された時のボーアの言葉だ。パッとしない、というのはアインシュタインと張り合ったにも関わらず、あまりボーアという人が世間に浸透していない事を言っているのだろう。そんな事をイワンが数式を書きながら言えば、
「本っっ当に失礼なヤツだね。っていうか呼び捨て?イワンなんてボーアさんの足元にも及ばないから」
とカケル。
「はぁ?お前俺の実力なめてる??」
「あれ、おかしいな。計算の出来ないイワン君がノートに数字を書いてるー」
尊敬するニールス・ボーアを軽く侮辱され、カケルの反撃が始まる。
「そこ、また間違ってるよー。本当簡単な問題出来ないよね、イワンは」
そんな事を言われ、ピクピクとこめかみを動かすイワン。
「そんなんじゃコンピュータ以下だねー」
「なんだとテメェ!!?」
ノートを投げ出しカケルの胸倉をガシッと掴む。だが掴まれたカケルの表情はなんら変わりない。というのも、彼には渾身の一言があるのだ。
「……」
「ボーッとしてんじゃっっ」
「……課題……」
「ッッ!!?」
カケルの言葉にイワンの怒りは徐々に消えていき、床に落としたノートを拾い上げてまた何やら書き始めた。
3人が取り組んでいるのは量子力学。この理論の誕生に中心的役割を果たしたのが、デンマークの物理学者、ニールス・ボーアだ。
カケルはミクロの世界、原子構造などに興味があるからボーアを尊敬している。一方イワンはまったく逆の相対論、つまりマクロの世界に目を輝かせている。そして紅一点のケイトはと言えば……。
「よし、終ーわり」
「えっっ!?」
「早っ!」
3人の中で一番賢く、器用な女の子だ。彼女は何か一つの分野を深く掘り下げるのではなく、広く学んで関連性、相互性を発見する方が好きなタイプで、“多才”という言葉を持って生まれてきたような子だ。というのも、物理や数学だけでなく、音楽や文を書くことも得意としている。
「これで波動力学の勉強が出来るわ」
ケイトはウキウキとカバンから「シュレディンガー方程式」、と書いてある本を取り出し熱心に読み始めた。そんな余裕の彼女を、イワンとカケルが放っておくわけがなく、
「ニャア〜ニャァ」
「あ、ネコだー。これはあの噂のシュレディンガーのネコ?」
「そうだニャ。ザ・パラドックス!」
「……ケンカうってるのね?」
お決まりの激しい口論をしつつ、そんな中ちゃっかりと彼女のノートを盗み見る二人だった。
「私はどうも数学に嫌われているようです」
真剣な顔つきで今しがた書き上げたはずの用紙を見ている×××。隣にはもちろん婚約者のユリシャがいる。
「過去にあれだけ数学をさげすんだんだもの。当然よ」
ユリシャは紙を取り上げ、どこから計算ミスが始まったのかチェックする。いつもの事なのでだいたいの見当はついていたが、今日は一段とかましてくれていた。
「……ねえ、あなた掛け算を習わずにここまできたのかしら?」
え、とユリシャが赤ペンで丸つけたところを見れば、なんとも情けない場所にそれはあった。
「9×−3……9×……」
×××はこれでもかというほど紙に目を近づけ、必死に数学の基礎である掛け算を解こうとした。そして数分後、ようやく答えにたどり着く。
「なるほど!ありがとうございますユリシャ」
彼女の顔も見ずにまた計算をしなおす。やれやれといった顔のユリシャはカフェの窓から噴水のある広場に目をやる。まだ朝も早いので鳥のさえずりが聞こえるぐらいだ。
彼と一緒にここイギリスに渡り、ケンブリッジ大学に赴任して4ヶ月がすぎた。といっても、彼女の職場は彼と違い、ここから数キロ離れたところにある高校だ。残念ながらケンブリッジ大学にユリシャのポストはなく、他の大学も考えたのだがどこもケンブリッジから遠かった。案の定、×××が近くでなければ嫌だと駄々をこね、今はケンブリッジから一番近い高校で数学教師をしている。
そしてこれがなかなかユリシャに合った職で、毎日楽しそうに出かけるものだから、彼からしたらそれがちょっと不満らしい。だからこうして朝、二人が別れる道にあるカフェに入りギリギリまで一緒にいるのだ。
窓の外を見ていたユリシャが、3つ人影をみつけた。その人影はだんだん近づいてきて、目が合った、と思ったらカフェの中に勢いよく入ってきた。
「「「×××先生!」」」
見事に3つの若い声が重なり、オーナーや他にいた2,3の客が驚いて視線をこちらに向ける。ユリシャは思わず頭をさげ、そんな彼女をみて勢いよく入ってきた3人もペコリと一礼する。
おそらく彼の教え子だろう、と察しユリシャは彼の肩をゆする。
「ねぇ、お客様よ」
「……でも……こう働くと…………」
「まったく。えっと……あなた達、取りあえず座ったら?」
入ってきたはいいけれど、ちょっと気まずくて少し距離を置いて立っていた3人はそう言われてから席についた。
「彼の学校の生徒さん、よね?」
「あ、はい!イワンです!それとカケルとケイトです!」
「おはよう。私はユリシャ、彼の婚約者よ」
彼女のセリフに3人は目を見開き驚いた。それもそうだろう。異性に、むしろ物理学以外にまったく興味を持っていなさそうな彼に、こんな綺麗な婚約者がいるのだから。
そんな3人の反応にユリシャはクスクスッと笑った。
「なんだか流体力学にハマッたみたい。さっきヒントをあげちゃったから、今日はお昼ぐらいに大学に行くかもしれないわ」
「りゅ、流体力学。なんでまた……?」
「昨日は出来もしない数学をこってりやっていたわ。その前は素粒子、その前は分子生物」
すごい、とささやく学生達だが、ユリシャは違った。
「いい加減戻ってきて欲しいわ……」
そう言って席を立つと、多めのお金をテーブルに置いた。
「もし時間があったらあなた達も何か頼んで。急いでるならポケットに入れちゃいなさい」
「え、そ、そんな!悪いです!」
慌てる3人にふわっ、と笑顔をみせ、彼女は出て行った。
「なんか、かっこいい」
ケイトの目に少しばかり憧れがうつった。
「ってかどーする?先生は」
先生は、問題に夢中みたいだし、と言おうとしたイワン。その先生と目が合った。
「うぉっ!?あ、お、おはようございます!」
「……」
明らかに不穏な顔になった×××。数学の問題でまた躓いたので、ユリシャに聞こうと思ったら彼女はいなく、代わりに子どもが3人もいたのだ。
「……」
「あのぉ、俺、1年のイワンです」
「……」
ガタッ、と席を立ち、×××は早足で店を出た。
取り残された3人はただ呆然と座っていたのだった。
「そんな事ありましたっけ?」
「忘れもしない、あの朝の思い出……」
イワンはコーヒー片手に遠い目をした。
「先生は昔も今も変わらず変人なんですね」
「林田君、例の論文の期限を1ヶ月ほど縮めましょうか」
「いっ!?」
3人はホテルのロビーでまったりくつろいでいた。ここで非公式な科学者同士の意見交換が行われるのだが、実は日にちを間違え、3人仲良く一日早い会議ならぬ思い出話をしているのだ。
「そもそも突然いなくなる事は変人行為ではなく、ただちょっと人見知りが激しいだけじゃないですか!」
「っていうかそんな綺麗な婚約者がいるなんて聞いてません!先生だけずるいです!!」
「あ、あの……」
「何がずるいんですか?まったくもって理解に苦しみます。第一、ユリシャは交通事故で亡くなってもういないんです!!」
一段と大きな声がロビーに響き、何人かちらりと見やる人もいたが、今はちょうど客の入りで混雑していたのであまり目立ちはしなかった。
「な……」
林田は一瞬動きを止めたが、すぐに言葉を続けた。
「先生はまだユリシャさんを想っています!」
「そうですよ、それがどうしたんですか?まさか想い人がいるだけでずるいなんて事……」
「ずるいです!きっと、先生が想っているぐらい、ユリシャさんも先生を想っているんだと思います。だから、ずるいです!」
子どもが何かの言い訳をいっているようだ、と隣にいたイワンは感じた。しかし先生を見ると、彼の言葉はずいぶんと効果があったようだ。
嬉しいような悲しいような、こちらもまるで子どものようだった。
*************
「ところで先生、次の共同研究で1人加えてもらいたい人がいるんです」
「イワン君が推薦するなら相当な人ですね」
「えぇまあ。でもそいつは昔、俺のことを『コンピューター以下』なんて言ってきたんですよ!」
「素晴らしいじゃないですか。ぜひ一緒に論文を書きましょう!」
「聞き捨てならないですが今日はスルーします」
「そういえば林田君はこの前私の事を『広大な海を彷徨うくらげの子孫』なんて言ってったっけ……」
「くらっ、子孫!?」
「あ、すいません話をそらしてしまい。ところでその新たに加わる1人とは藤重君ですか?」
「早っ!わかるの早いです!!っていうかなぜ!?」
「量子のエキスパートが必要ですからね」
「そのエキスパートの中でカケルを選択した先生はやっぱりすごいです」
「何言ってるんですか。あなたが推薦したんじゃないですか。とにかく、これからが本番です」
「はい!ようやく本腰が入れられますね」
「あなたと藤重君がいれば、“量子重力理論”も片付くでしょう」
未完の理論
最終幕の始まり




