想
「例えば、あのベッカム選手がボールを蹴ったとき、どこにボールが落ちるか、それがわかるのよ」
凛とした女性の声がする部屋へ行くと、数人の子ども達に囲まれている彼女を見つけた。
サラサラの長い髪を結い上げ、小さなホワイトボードを手に数学を教えている。
「あら×××。あなたも混ざる?」
綺麗な笑顔に誘われ、×××も子ども達に混ざって彼女の数学を一緒に学んだ。人間づきあいというものを知らない×××だが、それをよく分かってくれている彼女がうまく輪に入れてくれる。
「すごーい、数学ってこんなところにもあるんだねー!」
「なんか変なのー」
「でも何でも予測できるなんてかっこいいー!!」
わいわいと盛り上がりながら、もう時間だからまたね、という彼女の言葉に子ども達はみな、礼儀正しくお礼を言って部屋を出て行った。さてと、と片付けに立ち上がった彼女の腕を、彼はぎゅっと掴んだ。
「どうしたの?」
「別に」
そういう彼の手の力は少し強い。彼女はその理由をあまり考えずともわかった。きっと子ども達に嫉妬したのだろう。彼女が本に夢中になっていてもすねるような人だ。
そんな彼の気持ちを彼女はくすぐったく思う。
「ねぇ、私お腹すいちゃったわ。どこかに食べに行きましょう?」
彼女がそういうと、彼は首を横に振った。
「ユリシャが作ったのを食べたいです」
結局彼の要望を受け入れ、家で夕食を作る事にした。食べ終わり片付けを済ませ、二人仲良く映画を見ていると、隣に居た彼はユリシャを後ろから抱きしめるように座った。
「どうしたの?」
答えがわかっていながら、ユリシャは聞いた。彼は、好きです、と言って首に顔を埋める。彼のやわらかい髪をなでてあげれば、甘えるように耳をかまれた。
「映画、見ないの?」
「ユリシャを見ているほうがいいです」
なかなか恥ずかしいことをサラリと言ってくれる。
しかしこんな彼も、初めてあった頃のことを思うと、そのギャップがおかしくなってユリシャはつい笑いがこぼれた。
「何笑ってるんですか?」
「え?ふふ、あなたと初めてあった頃」
あー、と彼は少し困った顔をした。
「えっと、すいませんでした」
「あら、別に謝ることなんてないじゃない。ちょっと無愛想で、年上に向かって反抗的だった、ってだけなんだから」
同じ大学で、先輩後輩として初めて会ったのはそれほど昔の話ではなく、ユリシャの学ぶ数学と彼の学ぶ物理。この二つは決して遠い関係でもなかった。
ラウンジで様々な学部の学生が討論しているのが日常のなか、彼は一人、静かに考えるのが好きなように見えた。だが、ある学生がそんな彼に話しかけた。正確に言えば、彼にちょっかいを出した、というものだろう。
「物理は二種類あるけど、あんたはどっちだ?」
「……理論物理ですけど」
そう彼が言えば、よし来た、とばかりにその学生は冷やかしにかかった。
「あぁ、あんたはすごい力をもってるんだな。理論物理学ってのはあの力がなきゃダメだからな」
「あの力?」
「妄想力」
周りの学生達がどっと笑った。それを聞いていた他の物理学の学生達は言い返そうとしたが、あいにくの状況だった。物理を笑っている学生達は3年生がほとんどで、笑われている物理学生はひよっこの1年生だけだったのだ。始まってまもない学生生活、しょっぱなから、例え他の学部だとしても先輩に目をつけられるのは、とみんな反論できなかった。
しかし、彼だけは口を開いた。
「ところで、あなたの専攻は?」
「は?俺は数学だけど、何か?」
先輩に対して挑戦的な彼の態度に、同じ新入物理学生達は冷や汗をかいた。
「あぁ、じゃあ手入れが大変ですね」
「はぁ?」
「だって、数学はあくまで物理の道具じゃないですか」
それを聞き頭にきた先輩学生達だが、ちょうど物理のほうも2年、3年生がやってきてそのまま話はヒートアップ。授業が始まるというのでようやく解散したものの、約30分もの間、数学と物理の戦いが繰り広げられたのだった。
「もしかして、ユリシャもあの場に……?」
「いいえ、私は後で友達に聞いたの。でもそれを聞いた時は、なんて生意気な子がいるのかしら、って思ったわ」
がっくり肩を落とす×××。どうやらあまり知られたくはなかった様だ。
「あれ以来、先輩方の討論の時には必ずと言っていいほど呼ばれました……」
だが、この“お呼ばれ”が二人をめぐり合わせたのだ。それを思えば、別に肩を落とすこともないかもしれない。
彼は彼女の自信溢れるまっすぐさが好きだった。
彼女は彼の何にも動じない強い意志が好きだった。
他にもたくさん、好きだといえる事があった。
他にもたくさん、一緒にやりたいことがあった。
「そうだ、思い出しました」
彼はおもむろにポッケから小さな箱を取り出した。そしてパカッ、と開けるとそこには綺麗な線を描く指輪があった。
ユリシャが驚いて何も言わずにいると、彼はその指輪を彼女の指にはめた。
「はい、婚約指輪です」
「こ、婚や……」
ユリシャは恥ずかしさと嬉しさからか、顔を赤らめた。
「それでですね、今イギリスの大学からお呼ばれされているので、来年から一緒にイギリスに行きましょう」
「イギリス?!」
来年、と軽々しく言っているが今はもう夏も過ぎた時期。さすがに彼女は無理だと言おうとしたのだが、
「もう教授にも学長にも言ってあります。あなたが望むなら向こうへ推薦状を書くといってくれていました」
彼はまったく問題ない感じで言っているが、よくよく考えれば全てユリシャの知らぬところで話が進んでいる。
「ちょ、ちょっと待って。どうして学長……」
ふと、彼女はここ最近のみんなの態度に違和感があったことを思い出した。やたらと激励されたり、寂しくないようにとなぜか色んな物をもらったり。
「……」
「どうしました?」
彼女はちょっと叫びたい気持ちをとにかく抑えようと必死になった。
彼にはまず常識が通じない。そして時々ものすごく自分勝手で周りを振り回す。そう、思い返せば初めてのデートだって彼が行きたかった場所だったではないか。そのくせ道を忘れて歩きつかれ、あげく普通の喫茶店でお喋りをしたではないか。
今までのことを一つ一つ思い出していった彼女は、一体自分は自由奔放過ぎる、と言っても過言ではない彼のどこが好きなのか、根本的問題にぶち当たった。
「あの、ユリシャ……?」
「……ねぇ、もし私がその申し出を断ったら、っていう事はあなたの想定の中にはあった?」
そんな彼女の質問にきょとん、とした顔の×××。そして彼は言い放った。
「何でですか?私はユリシャとずっと一緒にいたいんですよ?」
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「お久しぶりです。一ヶ月ぶりでしょうか?結構忙しかったですよ。ほら、この前話した助手の林田君。彼なんだか面白いです。初めはどうなる事かと思っていましたが、彼とはもしかしたら上手くいくかもしれません。だって私の言ってることに反論してくるんですよ?すごく骨のある若者です」
「彼はあなたと同じでガウスやラグランジュが好きなんです。彼と話していると、自分がだいぶ数学から離れていた事を思い知らされます」
「だってイヤなんです……私から大切なものを奪っていく数学が……」
「でもそろそろちゃんと向き合わないといけませんね。“万物の理論”は本当に手ごわいですから」
「もう時間ですね。また来ます。これから寒くなるので風邪なんかには気をつけてくださいね……と言っても、あなたにはあまり関係ないかもしれませんね……」
夕暮れ時。会いたい人と。
カール・フリードリヒ・ガウス――ドイツの数学者。
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ――イタリア生まれだがフランスで活動していた数学者。




