後編
何から話そうか、と赤いジャージの少年は言った。
ヤミアカリの畑に風が吹き、ほの甘い香りが漂ってくる。ミウは思わず食べたくなり、手を伸ばした。
「ヤミアカリは毒だ」
釘を刺すように、少年は言った。
「祖父は脳腫瘍で入院していた。表向きはそういうことになってる。でも本当は、ヤミアカリのせいだ」
「ど、どういうこと」
じゃがいもに毒が含まれているのは、ミウも知っている。芽だけでなく、食べる部分にもほんの少しだけ毒があるのだ。でも大量に摂取しない限り、命にかかわることはないと理科の時間に習った。
「頭の中に実ができる」
少年は手前に生えている株に近づき、根元を掘った。土の中から大きないもがごろごろと現れる。
「食べると胃の中で芽を出す。身体中に蔓を伸ばして、トマトそっくりの実ができたら最後、人格を乗っ取られる」
忌々しい思い出を掘り起こすように、少年は続ける。
「祖父は入院中、どんどん凶暴になった。毎日のように、シーツを引き裂いたり看護師に殴りかかったりした。俺たちのこともわからなくなって、本当にもう……別人だった」
「それは、病気のせいで」
「ああ、みんなそう言ったよ。でも違う。祖父は乗っ取られてた。花が咲いて実がなって、脳が破壊されたんだ」
この人は、おじいさんの病気や死が受け入れられなくて、めちゃくちゃなことを言ってるんだ。ミウはそう思おうとした。それでも聞き流せず、話に引きずり込まれていく。
少年の話によると、祖父は趣味で家庭菜園をやっていて、いろいろな野菜や花を育てていた。まとめて買ったじゃがいもの苗の中に、ヤミアカリが混じっていたらしい。
ヤミアカリは驚くほど早く成長し、たくさんの実といもを付けた。そのおいしさと珍しさに魅了されて、祖父は種芋からまた苗を作った。
ケン君と従兄の少年は、二人で祖父の家に遊びに行った。太っ腹な祖父は、苗をたくさん分けてくれた。夏休みの宿題で困っていたケン君は、それを育てて自由研究にすることにした。
祖父の様子がおかしくなったのは、その夏の終わりだった。
「待って。じゃあ、あなたもヤミアカリを食べたんですか」
「いや、俺は食ってない。苗はもらったけど、じゃがいもなんてスーパーで買えるし、育てるのも面倒だし、結局植えなかったんだ」
ケン君の両親も、息子の自由研究には手を出さなかった。食べたのは、おそらく祖父とケン君だけだという。
「何度も忠告したんだ。このままじゃ、お前もじいちゃんと同じになるって。あいつ食いしん坊だから、聞かなくて」
「ここでずっと育ててたんですね」
「ああ。でも、野放しにしておくわけにはいかない」
少年は株を一本引き抜き、その隣の株も、次々に根こそぎ抜いていく。抜いても抜いても、きりがないほど生えている。ちょっとした農園のようだ。
ケン君のことを考えた。優しい笑顔と残酷な目つきが混じり合い、どちらもうまく像を結ばない。
あのケン君が、別人のようなケン君が、ヤミアカリのせいだとしたら、どうしてミウの前にだけ現れるのか。偶然なのか、それとも何かに呼ばれているのか。
「あの、ケン君はどうなっちゃうんですか」
ミウはおそるおそる聞いた。少年は汗をぬぐい、ため息をつく。
「わからない。入院するだろうな。手遅れじゃなければいいんだが」
「頭が痛いって言ってましたけど」
「それはやばいな。もう花が咲いてるか、あるいは……」
少年はぶつぶつ言いながら、株を抜き続ける。赤い実と大きないもが、山をなしていく。
ケン君の頭蓋を突き破り、花が咲くところを想像した。目から耳から、血のように溢れてくるヤミアカリ。
ふと、ミウはあることを思い出した。
「実のほうを食べるとどうなるんですか? おへそから芽が出たりしますか」
「食ったの?」
「はい、一つ」
昨日、ケン君にすすめられて食べた。あの一粒だけだ。持ち帰ったほうは、干したまま手をつけていない。
どうだろうな、と少年は難しい顔をして言った。
「祖父はやたらとよく寝るようになって、記憶が飛ぶようになったけど、それこそ薬の副作用かもしれないし」
「記憶が飛ぶんですか」
「人の顔とか、時系列とかね。でもまあ、一粒なら大丈夫だと思う」
ミウにではなく、自分に言い聞かせるような口調だった。しばらく黙々と作業を続けた後、振り返った。
「謝って済むことじゃないけど、ごめんな。俺たちのせいで嫌な目にあわせて、本当にごめん」
「そんな」
ミウは慌てて言った。
「話してくれてありがとうございます。でも、ちょっと寂しいな……好きだったから」
少年は顔を上げた。まじまじとミウを見つめ、ふっと笑う。
「そういうことは本人に言えよ。退院できたらの話だけど」
「違うんです」
ミウは考え、言葉を選んだ。初対面の少年にこんなことを話していいのだろうか。でも、この人はケン君の従兄だ。それに、ケン君本人とはもう会えないかもしれないのだ。
「ケン君が、急に変わるのが……それがいつ来るんだろう、って思いながら一緒にいるのが、好きなんです。叩かれるのも、悪口言われるのも好きじゃないけど、でも、ドキドキするんです」
自分が呼んでいたのかもしれない、と思った。
ケン君のスイッチを入れたのは、ヤミアカリではなく自分だ。
そうか、と少年は言った。ヤミアカリの株はようやく、四分の一ほどが片付いた。
投げ出された蔓と葉に、大きないもの山、そしてきらきら光る赤い実を見ていると、頭がぼんやりとしてきた。
全部忘れてしまうのかもしれないと、ふいに思った。
ケン君のことも、従兄の少年のことも、今日話したことも、何もかも忘れて、平然と日々を過ごしていくのかもしれない。だって自分は、ヤミアカリの実を食べたのだから。
「なくならないよ」
少年は言った。
「ケンが助かっても、助からなくても、それは変わらない。だってミウちゃんの気持ちだろ?」
「でも私は」
「忘れたら、思い出させてやる。俺が何度でも、思い出させてやる」
少年の声が、ケン君の声と重なった。
少年のくっきりした輪郭と目鼻立ちが、ケン君のぽんわりした笑顔と、なぜか重なった。
どこまでが本当なのかわからない。
それでもいいんだ、とミウは思った。胸につかえていた欠片が、溶けて落ちていく。
少年はジャージの袖をまくり、次の株を掘り始める。夕闇の迫る空の下、緑とでんぷんの香りがいっぱいに広がっている。
ありがとう、とミウは言った。
夜に飲まれていく景色のように、ミウの記憶は薄れていくのかもしれない。家までたどり着く間に、ぱらぱらと落としていくのかもしれない。
そして、部屋の隅に赤い実が干してあるのを見つけ、不思議に思う。
トマトは嫌いだけど、この実はなんだか……。そう思って食べてしまう。最後の一粒まで。頭の中に、白い霧が立ちこめるまで。
記憶はどこから来て、どこへ行くんだろう。
帰りかけたミウの背中に、少年が呼びかけた。
「また会おう」
ミウは振り返らず、小さくうなずいた。森がざわざわと揺れ、甘い香りをさらっていった。