歯科検診
私は歯医者が嫌いだ。
いや、そうではない。歯医者に行くことが嫌いなのだ。
先端の細いドリルで歯を削られたり、その前準備として唇付近に麻酔を打たれることは仕方ない。それよりも嫌なことが、つい先日、私の身に降りかかった。
「あんた、来週の土曜に歯科検診行くからね」
台風直撃である。
歯科検診に行くくらいならば、まだ台風に吹き飛ばされるほうがマシだと思えるくらいに、私は歯科検診というものが嫌いだった。歯科検診という文字を見るだけで世紀末を感じる。
大体どうして土曜日なのだろう。
私が土曜日と日曜日にバイトを入れていることを知っていながら、この所業はどうなのだろう。あんまりではないだろうか。それでなくても最近インフルエンザに酷似した風邪をこじらせ、それが治ったかと思いきや細菌性の胃腸炎に見舞われたため、バイトの休みをもらったばかりなのに。少しは私の立つ瀬も考えてもらいたい。
もっとも母は言い出したら聞かないため、こうなったら最後、何を言っても時間の無駄である。
歯科検診までのカウントダウンは既に始まっていた。同時に、歯科検診という嫌悪感との戦いの火蓋も切って落とされたのだった。
*
──歯科検診当日。
私の精神はもう既に限界まで摩耗していた。前々日までは世紀の戦いを繰り広げていたのだが、前日になった瞬間、私の軍は一瞬で壊滅した。もとより吹けば飛ぶような軍である。期待はしていなかったが。
「あ…どうぞ、入って待っててください」
そうしてやってきた戦場──もとい歯医者だったが、看護婦は完全にオフモードに入っていて、待合室で談笑していた。どうやら午後の検診は二時かららしく、私たちが少し早く着いたがゆえの出来事だった。看護婦が刹那、眉をひそめたのを私は見逃していない。私はそういう気配にはめっぽうあざといのだ。
中はいつもと変わらず小奇麗だった。しかし私は目もくれず、手洗い場に置いてある口腔洗浄液(無料)をせしめに走る。あのピリピリした感じだけが、私は確かにここにいるという、院内において私の存在証明となるのだ。
「どうぞ、お待たせました」
二時になると看護婦が最後通告をしてきた。もう終わりである。私はふらついた足取りで治療台に座った。
「イス倒しますよー」
薄汚れたよだれかけみたいな布を首から掛けられ、リクライニングの治療台が傾き始める。こういう笑ってはいけない場面になればなるほど笑いたくなる私は、相変わらず今日も笑いをこらえていた。必死に悲惨な戦場を思い浮かべる。涙ぐましい努力だ。
「どこか気になるところはありますか?」
「ありません」
ものの見事な即答。こういう時だけ私はとてもハキハキと物を言えるようになる。実は左上の奥歯に少し違和感があるのはこの際黙っておこう。
「……」
看護師は目を皿のようにして私の口内を見ている。ここで異常を発見されれば一巻の終わりだ。治療に時間を食われるのはまだいい。私にとっては治療後に「あんた、また歯磨いた後にお菓子食べたやろ」と母に詰問されるのがなによりも苦痛なのだ。
「……見たところ虫歯などはないですね」
──勝った。
高らかなファンファーレが私を祝福しているのを感じる。きっと口腔洗浄を二度ほど行ったのがよかったのだろう。
しかし喜びに浸っているのも束の間だった。
「少し歯垢があるので、取りますねー」
喜びはぬるま湯だった。
──貴様は何を言っているんだ。
間延びした声の看護師にそう言いたくなったが、ぐっとこらえる。そうだ、私は大人だ。もう二十一歳にもなった。二十一世紀だから時の人だ。ラッキーセンチュリーボーイ。
「これでうがいしてくださーい」
看護師から渡されたのは濃紺の液体。恐る恐るうがいをして手鏡を見せてもらうと、その液体には歯垢がどこに付いているのか浮かび上がらせる役目があったらしい。確かにいたる所に歯垢の影が浮かび上がっていた。
「口を大きく開けてくださーい」
きっとすぐに終わるであろう──。自分自身を励ましながら、言われるがまま口をおっぴろげる。
看護師は先端の尖った細いフックのような道具を取り出し、私の歯茎に当て、一掻きした瞬間──。
痛い──。
そこには何の余分な感情もなかった。
ただ、痛い。純粋な痛み。そう…まごうことなき、ピュア・ペイン。思わず顔をしかめる。何せ歯茎ごと削り取られているような激痛なのだ。これほどの激痛をかつて首から上で味わったことがあるだろうか? いや、ない。
「……」
看護師は何食わぬ顔をし、無言で二掻き目をセットする。
待ってくれ今貴方がその器具を当てている場所は歯垢の溜まっている歯の隙間ではなくて私の歯茎ではな──。
──グッバイセンチュリーボーイ。
生爪を剥がれるような痛み。
一体私はどこの歯垢を取られているのだろうか。看護婦さんや、そこに歯垢は付いていないですよね?
「はい、うがいしてくださーい」
バレーボールで言うタイムアウトだ。私はすぐさま上体を起こし、側にあるウォータークーラーでうがいをした。
吐き出した水の色は赤。しかもよく見ると米粒ほどのカタマリがあるではないか。目をしかめるまでもなく、見間違うはずがない。これはつい先ほどまで私の一部だった歯茎である。恐ろしい歯医者だ。歯科検診に来て歯茎の肉をちぎり取られるなど聞いたこともない。これが肉薄というやつか。笑えない。私はあらためて戦慄した。背筋が震えるという経験を歯医者でするとは。
「イス倒しますよー」
看護師のターンだ。きっとずっと看護師のターンだ。
その後は二度ほどタイムアウトを挟みながらも、看護師の恐るべき手腕による猛攻は続いた。
*
悪夢の時間は去った。
私は待合室で呆けていた。私の魂は既に家に帰りついていた。
「あんた、歯垢がすごかったらしいね」
帰りがけの車内で母は私にぼそっとそう言った。看護師め、余計なことを吹き込みやがったな。
「でも虫歯はなかったって言ってたね。よかったね」
…そう、虫歯はなかった。めでたしめでたし──なのだろうか。いや、私は忘れない。あの惨劇を、今日と言う日を。こんなことがなければ歯磨き後のお菓子がやめられない私は一体…。
歯科検診。
それは私にとって、半年に一度のペースでやってくる、不可避な、精神と肉体を攻撃される日なのだ。