(4) 目的達成…だけど。
翌朝、俺はいつものように、学校に着くとすぐに隣の6組に行った。
6組の黒板側の入口を開けると、奥の窓の前に6、7人の女子が固まっていた。
この時期になると、女子はセーラー服の上にカーディガンやセーターを着ている。
白いカーディガンを羽織った芳原の後ろ姿も、その集団に混じっていた。
(よし!)
そこへまっすぐ向かうのは慣れたもの。
このクラスのメンバーも俺のそんな行動は見慣れているから誰も気に留めない。
俺はずんずん歩いて行って、声を掛けた。
「芳原。ちょっと。」
「え?」
芳原が驚いた顔で振り向いた。
その手首を無言でつかんで、強引に廊下へ引っ張って行く。
「え、ちょっと。」
抗議するような芳原の声は聞こえないふり。
そのまま廊下に出て右へ。
隣の選択教室の前の廊下で足を止める。
その突き当たりにも階段はあるけれど、使う生徒はそれほど多くないから、ここの廊下なら落ち着いて話ができるはずだ。
「……何よ?」
手を放して向かい合った俺を不機嫌に睨み付ける芳原。
女子の中では背が高い芳原は、俺と向かい合っても堂々としている。
その凛とした姿には、どことなく称賛したくなる雰囲気がある。
俺は何も言わずに、手に持っていた個人成績表を芳原の顔に向けて突き出した。
「……何よこれ?」
面倒くさそうな声がして、芳原がその紙をつかむ。
俺が手を離した成績表を両手で持った芳原が、それをじっくりと眺めた。
その姿を見ながら、俺は芳原が次に発する言葉を期待を込めて待った。
「………?」
なのに、言葉はなかった。
無言で尋ねるように俺の顔を見ただけ。
(気付けよ!)
思わず心の中で怒鳴った。 ……が、口に出しては静かにこう言っただけ。
「上がった。」
それを聞いて、芳原はもう一度成績表に目を落とした。
そしてまた俺を見た。
「うん。そうだね。」
(それだけか!?)
俺は叫びそうになった。
でも、どうにかそれを止めて、一旦目をつぶって気持ちを落ち着ける。
そして、自分の要求を言おうと口を開いた……とき。
「尾野くん。由衣ちゃん。」
可愛らしい声がして、葵ちゃんがパタパタと駆けて来た。
……その後ろから相河も。
「どうしたの? 何かあった?」
俺と芳原の横に立った葵ちゃんが、心配そうに俺たちを交互に見た。
隣に立った相河は、咎めるような表情を俺に向けた。
「お前、芳原に何か因縁つけようなんて思ってるんじゃないだろうな?」
(因縁!? 俺がか!?)
ものすごくびっくりした。
同時に気付いた。
俺が芳原をいきなり連れ出したから、二人が心配して見に来たってことに。
それに、たぶん俺は怒ったような顔をしていたんだろう。
それにしたって、心配したのは分かるけど、何という言われようだろう!
俺と芳原の普段の様子が目に入っていれば、芳原の方が俺よりも優勢だと分かっても良さそうなものなのに!
「ちげーよ。」
不機嫌に言い返した俺を見て、葵ちゃんが尋ねるように芳原を見た。
すると芳原は、手に持っていた俺の成績表を二人に見せながら言った。
「なんか……自慢したいみたい。」
葵ちゃんと相河が、さらされた成績表を覗き込もうとする。
「ちがう。」
それはきっぱりと否定。
3人が不思議そうにこっちを向く。
「じゃあ何よ?」
面倒くさそうに腕を下ろして、芳原が尋ねた。
それに答えようと口を開けたら、急に心臓がドクンと鳴った。
(え、なんで?)
焦りながら、今までずっと言ってやろうと思っていた言葉を絞り出す。
「俺だって、ちゃんと努力するんだ。」
今まで何度も頭の中で言い放って来た言葉だったのに、実際に口に出すのはどうも勝手が違う。
なんとなく言い訳がましいし、どういうわけか、耳が熱くなって来たし。
芳原は俺の言葉を聞いて、持っていた成績表をもう一度見た。
「うん。そうだね。確かに。」
そして顔を上げて、まっすぐに俺を見る。
次の言葉を続けようとしたとき、芳原の横で同じように俺を見ている葵ちゃんと相河が目に入った。
その途端、言葉が舌の上で止まってしまった。
「だ、だから、その。」
(なんでこんなに言いづらいんだ!)
平気な顔をしているつもりだけど、妙に暑い。
葵ちゃんたちがいなければ…と思い、そんな自分にますます焦る。
(くそっ。)
この機会を逃したら、次はいつになるか分からない。
それに、あの四連続告白攻撃に耐えた日々も無駄になってしまう。
そこまで考えて、やっと声が出た。
芳原を挑むように見つめて。
「俺を名前で呼べ。」
ようやく言えた!
……と思ったら、隣で相河の間抜けな声がした。
「え? お前の下の名前って何だっけ?」
それに答えて、葵ちゃんのこそこそした声が。
「翔馬くんだよ。ほら、空を飛ぶ馬の。」
「え、ち、違うよ。そうじゃなくて。」
葵ちゃんらしいざっくりした説明に感心しながらも、二人の勘違いを慌てて訂正。
だって、それだと俺の行動の意味が違ってきてしまう。
焦って芳原に目をやると、あまり意味が分かっていないようだった。
葵ちゃんたちののんきな勘違いと話が通じない芳原を相手に、自分だけが気持ちを乱しているのかと思ったら、やるせない気持ちになってきた。
「芳原は俺のこと、ちゃんと名前で呼んだことがないんだ。」
ふて腐れた気分でそう言うと、芳原と葵ちゃんが顔を見合わせた。
「そうだったっけ?」
「あんまり話題にしたことがないから……。」
「ああ、わたしは話すけどね。」
(やっぱり芳原は俺のことなんかどうでもいいんだ……。)
落ち込みそうになる気持ちを奮い立たせて、俺がショックを受けた原因を葵ちゃんに訴える。
「だって、面と向かって、俺に『あんた』って言ったんだぜ。」
「あ、ホントに? 由衣ちゃんが?」
面白そうに口元をゆがめながら、葵ちゃんが芳原を見た。
芳原は思い出したように頷いた。
「うーーーん、そう言えば言ったかも。」
「『かも』じゃない。言った。それに間違いなく、一度もちゃんと名前で呼ばれたことがない。」
「そうだっけ? でも、あんまり話もしなかったよね?」
「そ、それはそうだけど……。でも、『あんた』は嫌だ。だから……。」
そこまで言ったら、急に、テストを頑張ったことが意味が無かったような気がしてきた。
最初からこうやって言えば良かったんじゃないかって。
芳原なら、ちゃんと分かってくれたかも知れないって。
「ああ、そうか。」
混乱した頭でごちゃごちゃ考えていると、芳原の声がした。
ぼんやりしていた視線を芳原に向けると、なんと、芳原が可笑しそうな顔で俺を見ているじゃないか!
「だからテストで頑張ったんだ? あたしを見返したくて?」
「お、おう。」
どんな気分にしろ、芳原が俺に笑顔らしきものを向けるのは初めてだ。
それを見たら、俺の方がどんな顔をしたらいいのか分からなくなってしまった。
「ふーーーん……。」
芳原がもう一度、俺の成績表をじっくりと見る。今度は微笑んで。
その横で葵ちゃんが相河の袖をそっと引っ張って、何も言わずに廊下を戻って行った。
それに気付いても、俺は芳原から視線をそらさずに待った。
「分かったよ。」
少し経って顔を上げた芳原は、今度こそちゃんと笑顔だった。
ちゃんと、俺と話すための笑顔だ。
「ごめんね、嫌な思いさせて。あたし、 “言葉が乱暴だ” って、親にもよく言われるんだよね。」
「う、まあ、いいけど、さ。」
芳原の笑顔は彼女の性格そのままに、気取りが無くて爽やかだった。
つられて自分も微笑みたくなるくらいに。
けれど、俺のプライドがそれを止めた。
「うーん、でも……。」
「え?」
“でも” とはどういうことだ?
まだ俺の努力が足りないと言うんだろうか?
「なんか、呼びにくい。」
ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた芳原が言った。
「今さら “尾野くん” っていうのもねぇ……。」
(いや、それでいいだろ!? って言うか、言ってんじゃん!)
「なんとなく似合わないし。」
「はあ。」
なんとなく頷いてしまう。
芳原の言うことには、俺はいつも満足に言い返せないんだ。
「下の名前、なんだっけ?」
「え、翔馬…だけど……。」
再び爽やかな笑顔を向けられて、今度は妙にドキドキしてしまう。
その笑顔で「翔馬くん」とか呼ばれるんだろうか……?
「ショウマ……。」
「羊へんに羽の “翔” に “馬” で……。」
考え込んでいる芳原に説明する声が少し上ずっている。
胸の中にいつか感じたくすくす笑いが忍び込む。
(くん付けか? 芳原だったら「翔馬」って呼び捨ても有りなのか?)
待っている体が落ち着かない。
ポケットに手を突っ込んで、体重を右、左、と移し変えてみたりして。
(なんだろう? このくすぐったい感じ……?)
「うま?」
芳原が顔を上げた。
「……馬?」
「うん。馬って呼ぶのはどう?」
明るい笑顔で尋ねる芳原。
どうやら本気らしい。
だけど、いくら何でもそれはないんじゃないかと思う。
「いやだ。絶対に。」
言いながら、すーっと気持ちが落ち着いた。
芳原におかしな期待なんかしちゃいけなかったんだ。
「やっぱダメか。」
「うん。却下。」
再び考え始めた芳原を、今度は真剣に見つめて待つ。
「うん、そうだ♪」
また明るい笑顔。
でも、今度は簡単に騙されない。
言葉を聞くまでは ――― 。
「あのね、ショウタロウ。」
「は? 俺、翔馬だけど。」
意味が分からない。
俺を呼ぶために違う名前を考え出すなんて。
しかも、「尾野」よりも「翔馬」よりも長い名前をなんでわざわざ……?
「それは言いにくい。ショウタロウの方が似合うよ。」
(「似合う」って……。俺は17年間、 “翔馬” で過ごしてきたのに……。)
変だと思うけど、芳原のにこにこ顔を見たら、それ以上は反論できなかった。
それに……。
「芳原だけなら……いいけど。」
「よし。じゃあ決まり♪」
芳原は楽しそうに手を叩こうとして、まだ持っていた俺の成績表を返して寄こした。
それを受け取りながら、自分の気持ちをどう整理したらいいのか分からない俺……。
「じゃあね。またね、ショウタロウ。」
「おう……。」
機嫌良く歩いて行く芳原の後ろ姿をぼんやりと見送る。
(なんか…、芳原って、思ってた雰囲気と少し違うかも……。)
その日は一日中、芳原の颯爽とした後ろ姿と爽やかな笑顔が、何度も頭の中にちらついていた。




