(2) え!?
修学旅行のあと、なんとなく、芳原を見かける回数が増えたような気がする。
廊下や部活の途中。もちろん、帰りの電車でも。
地味な濃紺のセーラー服、あるいは紺色の剣道着。
ピンと伸びた背筋と赤いメガネのせいで、葵ちゃんと一緒にいないときでも、やたらと目に付く。
家の方向が同じだし、クラスが隣なんだから、仕方ない。
そう思っても、ときどき、何とも言えない気分になる。
それはたぶん、俺だけが芳原に気付いているから。
向こうは俺のことなんか、まったく気付かないみたいだから。
いつ見ても女子同士で和やかに話して、穏やかに微笑んでいる。
何の問題もない様子で。
俺だけが芳原を見付けて、葵ちゃんに気持ちが届かなかったことを思い出して淋しい思いをしている。
それが、なんだか悔しい。
もともと芳原には、男を寄せ付けない雰囲気がある。
メガネをかけていても分かるほどの美形だし、加えてすらりと長い手脚の持ち主とあれば、男子生徒の注目度も高い。
けれど、彼女と親しくなれる男は滅多にいない。
同じ剣道部の中でも数人と宇喜多くらいだ。
相河だって、芳原には話しかけにくそうにしているのが分かる。
不思議なことに、俺は芳原のそういう雰囲気は気にならない。
だから芳原が葵ちゃんと一緒にいても、平気で一緒に帰ったりしてるわけなんだけど。
べつに俺は、芳原と仲良くなりたいと思ってなんかいない。
でも、気付かれないっていうのは……やっぱり悔しい。
次に芳原と会話らしい会話をしたのは、11月の半ば過ぎ。
合唱祭で休みになった部が多く、俺は葵ちゃんをうまくつかまえて一緒に帰って来た。
当然、そこに芳原もいた。
丸宮台の駅で降りた葵ちゃんは、俺たちに笑顔で手を振ったあと、後ろの方を見て嬉しそうな顔をした。
そっちに相河を見付けたからだ。
相河が隣の車両に乗っていたのは、俺はもちろん知っていた。
あいつは前からそうだった。
男友達の前では、そいつらが優先なのだ。
でも、必ず葵ちゃんと同じ電車に乗って、隣の車両からこっちを気にしてる。
部活の無い日の帰りは、電車がすいている時間帯だから丸見えだとも知らずに。
「なんで相河なんだろうなー……。」
動き始めた電車の窓から葵ちゃんの笑顔を見ながら、淋しい気持ちでドアに寄り掛かる。
周囲に乗客がいなかったから、なんとなく声に出てしまった。
ほとんど独り言のつもりだったその言葉に、ぼそりとコメントがつぶやかれた。
「それはこの前も聞いた。」
ドア脇の手すりにつかまった芳原を、思わず睨んでしまった。
「別に芳原に愚痴ってるわけじゃねぇよ。」
ムカッとしながら言い始めたのに、最後は自信がぐらついた。
そんな俺をちらりと見て、芳原はすぐに視線を外に向ける。
(なんだよ。)
俺にしてみれば、芳原の方から話しかけて来たようなものだ。
なのにこんな態度は……。
憤りを込めて芳原を見つめていると、芳原は今度は少しだけじっくりとこっちを向いた。
そして。
「当たり前じゃん。」
それだけ言うと、また、すいっと視線を外に向けてしまった。
そういう態度はいつものことだ。
でも、言われっぱなしは嫌だ。悔しい。
「どういう意味だよ?」
「べつに。」
……悔しい。
「そりゃあ、相河の方が一緒にいる時間が長いから仕方ないかも ――― 」
「そういうことじゃないよ。」
途中で遮るんじゃねえよ! ……と思ったけど、声に出せなかった。
俺が強い口調で言ったって、芳原にとっては何の効果も無いと分かっているから。
それに、俺だけが腹を立てたなんて知られるのは、ますます悔しいから。
「……じゃあ、何だよ?」
芳原がまたちらりと俺を見る。
その視線を受け止めきれずに、何となく自分の視線はどこかへ彷徨う。
「相河くんは頑張る人だもん。」
「はあ?」
本気で言っているのかと、思わず芳原を見てしまった。
相河は結構お調子者で、軽い。
だから女子があいつに頼みごとをしに集まって来るのだ。
そりゃあ、真面目なところもあるけど、宇喜多や藁谷のように地道にコツコツ頑張るタイプじゃない。
けれど芳原の表情は、俺に冗談やあてこすりを言っている顔ではなかった。
赤いフレームの奥の涼しげな目をまっすぐに俺に向けて言った。
「あんたは逃げてばっかりいる。」
「な…。」
すごいショックだった。
いや、その原因は内容ではなく ――― 。
( “あんた” ……?)
そう。
「あんた」だ。
ものすごく傷付いた。
「逃げてなんて……。」
ショックを隠すために、 “馬鹿馬鹿しい” と言うような笑い顔を作って言い返す。
けれど、語尾に元気がないのは自分でもどうしようもなかった。
「逃げてるよ。あんたは去年もそうだったでしょ? 頑張らなきゃいけない場面が来ないようにしてる。」
俺の気持ちにはまったくお構いなしに、二度目の「あんた」の登場だ。
しかも、今度は内容も厳しい。
ナイフでグサグサと胸を刺されたような気分。
「それは……。」
理由があるんだと言いたい。
俺には俺の。
秘密だけど。
「目立ちたくないのは分かるよ。」
(分かってんのかよ……。)
またしてもショックだ。
隠してるつもりだったのに。
「でも、何かを一生懸命やってる姿がまるっきり見えない。」
「相河だって、そんなには……。」
また語尾に自信の無さが出てしまった。
そんな俺を冷たく見つめながら、芳原は言う。
「相河くんは自分から進んではやらないけど、いざとなったら逃げないで頑張るよ。あんたとはそこが違う。」
「お、俺だって、部活はちゃんと本気出してやってるけど。」
三度目の「あんた」に怯みつつ、どうにか言い返した。
そう。
部活は間違いなく一生懸命やっている。
「ふん。」
けれど、芳原は鼻で笑った。
そして。
「部活で本気出すのは当たり前でしょ? そこがいい加減だったら、葵はあんたのこと友達だって思ってないと思うよ。」
(なんか……、なんか酷くないか!?)
悲しいのか悔しいのか何なのか、胸の中でいろいろな感情が渦巻いて、何も言い返すことができない。
気付いたら、ドアに寄り掛かったまま自分の靴を見ていた。
そっと芳原を窺うと、何事もなかったようにまっすぐに立って外を見ている。
「芳原はさあ……。」
俺の弱気な問いかけに、かすかにこっちに視線を向ける。
「俺のこと、嫌いなのか?」
視線だけじゃなく、こちらを向いた。
相変わらず興味のなさそうな顔で。
「べつに好きとも嫌いとも思ってないけど。」
「ああ…、そう……。」
「なんで?」
「え?」
あれだけズバズバ厳しいことを言っておいて、俺が嫌われているんじゃないかと思うのは変だと思ってるのか?
それとも、俺にはそんな感受性はないと思われているんだろうか?
「いや……、ちょっと……。」
口ごもる俺をただ普通に見つめて芳原が言う。
「あんたが好きなのは葵でしょう? あたしの気持ちとか、関係ないじゃん。」
「ん、ああ、まあ……。」
(また「あんた」って言われた……。)
なんだかひどく悲しい。
まるで、俺には名前を呼ばれる価値が無いと言われているような気がして。
俺が降りる駅まで、俺たちはそれ以上言葉を交わさなかった。
黙ったままでいることは今までにもあった。
でも、今日は違う。
俺の気持ちが。
俺の自信が。
電車を降りるとき、一応、「じゃあ。」と声を掛けてみた。
小さい声になってしまったけれど、芳原は気付いて、「うん。」と言った。
相変わらず興味がなさそうな顔で。
ホームに立ってから、なんだか振り向かずにいられなかった。
こんなことは初めてだ。
すると、閉まるドアの向こうで、芳原が座席に移動したのが見えた。
(あ……。)
部活の無い日の帰りは、電車はすいている。
特に、葵ちゃんが降りる丸宮台を過ぎると、座る場所は選び放題だ。
でも、芳原は座らなかった。俺が降りるまで。
(少しは気を使ってくれてるのか……?)
歩き出しながら、さっきの会話を思い出してみる。
確かに芳原は、俺のことを「嫌いとは思ってない」と言った。
好かれているわけでもないけど。
「ふ……。」
嫌われているわけじゃないと思ったら、少しほっとして、あんなに動揺した自分が可笑しくなってしまった。
笑ったら、少しだけ明るい気分になった。
(それにしたって、「あんた」はなあ……。)
その言葉に、自分がこんなに傷付くとは思わなかった。
気持ちが上向いてきた今でも、胸のあたりがちくちくする。
母親にはよく言われる言葉なのに。
(あれ?)
よく考えてみると、芳原には名前を呼ばれたことがない気がする。
去年は接点がなかったし、今年だって、ちゃんと会話をしたのは最近になってからだ。
葵ちゃんと俺の会話にコメントをはさむだけなら、俺の名前を呼ぶ必要なんてなかったことは間違いない。
だけど。
(やっぱり嫌われてるのかなあ……。)
会話の中で名前で呼ばれないというのは、存在を認められていない、という感じがする。
最初から注目する価値もないような。
芳原は、口ではどっちでもないと言ってたけど、あれは単なる “人としての礼儀” 的なものなのかも。
本当は嫌われてるのかも。
だから、いつも機嫌の悪そうな顔をしているのかも。
そう思うと、また気分が落ち込む。
誰かに嫌われていると思うとこんなに淋しい気持ちになるんだって、初めて知った。
葵ちゃんに選ばれなかったことよりも、ずっとずっと落ち込む。




