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彼女の瞳に映るのは  作者: 虹色
第七章 彼女の瞳に映るのは
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87  夕暮れの散歩で


葵がロビーに来たのは、もしかしたら来てくれないかも知れないと思い始めたころだった。

彼女が俺に不満を抱いているのに、一言も謝らないまま呼び出したりしたから、ふてくされているんじゃないかと。


待っている間に何人もの生徒がエレベーターから出て来た。

買い物や散歩にと俺の前を通り過ぎながら、ちらりと目を向ける生徒たち。

その視線に、最初は気恥ずかしい気分だったのが、時間が経つにつれて気まずい思いが大きくなった。

約束をすっぽかされた男と思われてるんじゃないかという気がして。


でも、エレベーターから出てきた葵を見て、そんな心配はすぐに吹き飛んでしまった。

彼女が着てきたTシャツが、見覚えのあるものだったから。


「それ、着てきたんだ?」


少し気後れした様子を見せた葵に声をかけると、恥ずかしそうに「うん。」と頷いた。


「相河くんも……?」


「うん。せっかくだから。」


二人で顔を見合わせる。

それから同時にちょっと笑って。


俺たちが着ているTシャツはおそろいじゃない。

俺のは深緑色の地に犬のシルエットが並んでいる。

葵のは、白地に大きく文字が並んでいる少しボーイッシュなデザイン。

どっちも、初めてのデートのときに、お互いに選び合ったものだ。

修学旅行に持って行くために。


「うん。せっかくだもんね。」


「そうだよ。」


笑顔になった俺たちを、優しい空気が包みこむ。

よく考えたら、修学旅行が始まってから初めてのことだ。


「やっぱり似合うよ、それ。」


葵がちょっと首を傾げて静かに言った。

面と向かって褒められるのは結構恥ずかしい。

でも、同時にとてもほっとした。

自分の服装が葵に気に入ってもらえたということが分かって。


「あ…そうか? よかった。ええと…葵も、可愛いよ。」


やっぱり口に出すのは照れくさい。

だけど、自分が言われてみてよく分かった。

こういうことって、伝えてもらったら嬉しいって。


俺の言葉に、葵は驚いた顔をした。

それから……笑顔になった。

ちょっと恥ずかしそうに。


(俺は……。)


彼女の顔を見て、情けなさと後悔が湧いてくる。


俺はいったい、今まで何をやっていたんだろう?

たった一言で、葵がこんなに喜ぶのに。

葵を喜ばせるチャンスを、俺は何回ふいにしてきたんだろう?

こんなに可愛い笑顔を見られるチャンスを。


「行こうか。」


ビーチ側の出入り口へと歩き出しながら、葵を喜ばせることは、自分にとっても楽しいことなんだとあらためて思った。

心の中で思っているだけよりも、二人で一緒に楽しい気分になる方が、ずっといいに決まってる。




ホテルの庭とビーチのあいだにある小道は、ところどころ植え込みで視界を遮られながら続いていた。

ビーチでは家族連れがまだ何組か楽しげに遊んでいる。

うちの生徒らしい2、3人ずつ連れ立った人影も見える。

風に乗って聞こえて来る声は昼間のような賑やかさではなく、どこか温かくて優しく、そして少しだけ秘密めいた雰囲気をまとっていた。


俺たちは、歩き始めてすぐに「気持ちいいな。」と頷き合っただけで、そのあとは無言で歩いた。


本当は葵に言いたいと思っていたことがあったのだけど、昼間の疲れと、二人でいられることの満足感で、気だるい心地良さに浸っている。

隣を歩いている葵も、ゆったりと景色を見ながら、穏やかな微笑みを浮かべている。

二人で同じ空気を味わっている今は、何も言わなくても十分に心が通い合っている気がする。


しばらく歩いたところで、ビーチの端に据えられた木製のベンチに腰掛けた。

正面に海と夕日が見えるベンチはロマンティックかと思ったけれど、まだ太陽がまぶしくて、二人でくすくすと笑った。


「今日の午後さあ…。」


笑いがおさまって一息ついてから、眩しさを避けながら葵の方を向いて、静かに切り出した。


「葵、ちょっと怒ってた?」


彼女はぱちりと瞬きをし、それからバツの悪そうな顔をした。


「……分かった?」


「うん、まあ、はっきりとじゃないんだけど、なんとなく。」


「……ごめんね。」


「あ、いや、違うよ。謝らなくていいんだよ。そうじゃなくて。」


謝ってほしいんじゃない。

悪いのはたぶん俺だから。


彼女が尋ねるように俺を見る。

その顔をしっかりと見つめて。


「俺が、何か足りなかったんじゃないかと……思うんだけど。」


葵が小さく「あ…。」と言った。


「教えてくれないかな?」


太陽の光が目に入るのを避けて、ベンチに半ば横向きに、向かい合って腰掛けている二人。

ほかから見たら、恋人同士で見つめ合っているように見えるのだろうか。


何秒か迷ったあと、葵が曖昧に微笑みながら言った。


「ええと……、ちょっと、興味がないのかな…って、思って……。」


「『興味がない』って……?」


曖昧な説明に尋ね返すと、彼女は言いにくそうに、海の方に視線を移した。

そして。


「あー、その……、水着、に。」


気まずそうにぼそりとつぶやかれた言葉。

その内容は、俺にはかなり予想外だった。


「え? みず、ぎ?」


(どうして? 見られたくないのかと思ってたのに!)


驚く俺に、葵が拗ねたような顔を向けた。

そんな顔も可愛いけれど……。


(俺が水着姿を褒めなかったことが原因なのか?)


とにかく、今は弁解が優先だ。

格好つけたばっかりに、こんな誤解をされているとは!


「き、興味がないなんて、そんなことは。」


実は興味津津だったとはさすがに言いにくい。

でも、語尾をごまかしながら、ここは言った方が良かったのかとも思ったり…。


「でも、べつに見なくてもよかったんでしょ?」


(うっ!)


ここは言うところだ! と、心を決めた。


「いや。見たかった。本当は。すごく。」


言ってみたものの、かなり恥ずかしい。

自分の下心を告白しているわけだし。

どこまで言わなくちゃいけないのかと思うと、ドキドキして、汗が出てきてしまった。


でも、葵はそんなことにはお構いなしだ。

まだ拗ねた顔のまま、俺を責める。


「うそ。だって、Tシャツを脱がない方がいいって言ったもん。」


(原因はそっちか!)


誤解のもとが分かってほっとした。

同時に、彼女の勘違いと抗議のしかたのあまりの可愛らしさに頬が緩む。


「そういう意味じゃないよ。」


言いながら、思わず人差指で彼女の頬をつついた。

けれども彼女は納得せずに、俺を恨めしそうに見ている。


(こうなったら、最後まで説明するしかないのか……。)


男がどんなことを考えているのかを葵に説明するのは、例えば季坂や榎元に説明するのとは少し勝手が違う。

でも、言葉で言わなければ葵は納得してくれないらしい。


「ええと、あの、ひもが気になっちゃって。」


「ひも?」


「あー、ほら、首のうしろで結んであったやつ。」


「あ、ああ、あれ? え、どうして?」


不思議そうな顔。

やっぱり分かってないんだ。


「その…、とれちゃったらどうするのかなーって……。」


具体的に口に出しづらくて、ちょっと目をそらしながら言ってみる。

ちらりと葵を見ると、目を丸くしていた。


「え? リボンがほどけて水着がはずれちゃうと思ったの!?」


(でかい声で!)


「え? あ、は、はい。」


確認された内容が恥ずかしい。

同時にその景色も頭に浮かんできちゃったし。


「えぇ? やだ、相河くん。」


(ほら見ろ、嫌がられたじゃないか……。)


何が “ほら見ろ” なんだかよく分からないけど。


「あのリボンは解けないんだよ。飾りでくっついてるだけなんだから。」


(え……?)


「それに、もし解けたとしても、簡単には落ちないよ。水着ってピッタリしてるから。」


「……そうなのか?」


俺の心配は、いったい何だったんだ?

しかも、俺の夢的にはがっかりでもある……。


「そんな危ない水着、買わないよ。」


葵が呆れたように笑った。


「そんなことを心配してたの?」


「……うん。」


「訊いてくれたらよかったのに。」


「あ…、だって、水着の話なんかしたら、なんか……やらしい感じかな、と思って。」


「そう? 尾野くんは平気で『どんなの?』って訊いてきたけど。」


「あ、そうなのか?」


あいつならそうかもな……。


「うん。さすがに宇喜多さんはそんなことなかったけどね。うふふふ。」


あいつは知ってたんだから、わざわざ訊くわけがない。

1年生が情報を仕入れて来たとき、俺と一緒になって真剣に聞いてたんだから。


(宇喜多だって、俺や尾野と同じなんだぞ。)


そんなことを考えながら、葵の気軽な態度に気が抜けてしまった。

そのはずみなのか、何もかも本当のことを全部言ってしまいたくなった。


(うん、そうだ。この際なんだから。)


これからの俺たちのために、格好悪いことも言ってしまった方がいい。

葵の勘違いを少しでも減らすために。


「葵。」


あらたまって名前を呼ぶと、彼女は大きな目を俺に向けた。


「はい?」


「本当は、それだけじゃないんだ。」


「え?」


ぱっちりと目を見開く彼女。

まっすぐに見上げる瞳には俺が映っている。


「ほかの男に見せたくなかったんだ。」


「……え?」


葵がゆっくりとまばたきをした。

開いた瞳には、やっぱり俺だけが映っている。

尾野でも宇喜多でもない。

福根でも、縞田先輩でもない。

俺が。


(こんなに近くで見つめ合っていられるのは……俺だけ。)


胸に生まれた温かい幸福感が体中に広がって行く。


「俺は見たかったけど、ほかの男には見せたくなかった。俺……すげぇ焼きもち焼きなの。」


言ってしまったら、顔を見られているのが恥ずかしくなってしまった。

だから……、そのままぎゅっと彼女の背中を抱き寄せた。


胸のところで「ぅぎゅ。」と色気のない声がした。

思わず笑うと、腕の中の彼女が何度か深い呼吸を繰り返し……、最後にことん、と、肩に重みがかかった。


海の上では、俺たちを見ていた太陽が盛大に顔を赤らめた。








次回、最終話です。

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