8 *** 葵 : 知ってしまったのに。
「あ、葵、あの子。」
登校二日目の午前中。
健康診断で保健室に行くと、菜月ちゃんが顔を寄せて囁いた。
「ほら、あのポニーテールの背の高い子。」
「あ、ああ、うん。」
前のクラス ――― 5組の女の子。
ほんとうに大きい。
もちろん、女子にしては、だけど。
「あの子ね、箱崎むつみちゃんって言ってね、バレー部の部長さんの彼女だよ。」
(まさ ――― 縞田先輩の!?)
心臓がドキンと鳴った。
思わず声が出そうになって、慌てて飲み込んだ。
「そ、そうなんだ?」
「うん。女子バレー部のエースでね ――― あ、むっちゃん!」
「あ〜、菜月〜♪」
健康診断が終わって帰りかけた箱崎さんを、菜月ちゃんが呼び止めた。
箱崎さんは嬉しそうに両手を振りながら駆け寄って来る。
(仲良しなんだ……。)
二人で両手を合わせて楽しげに笑っている。
その笑顔を見ていると、箱崎さんも、とても素敵な人だと分かる。
「あのね、この子、藍川葵っていうの。転校生で、今度、男子バレー部のマネージャーになるんだよ。」
(あ……。)
菜月ちゃんの気持ちがありがたかった。
部長である縞田先輩をはさんで、彼女である箱崎さんとマネージャーになるわたしが気まずくならないようにと紹介してくれたのだ。
「あ〜、縞田先輩から聞いてるよ〜。幼馴染みなんだってね〜?」
「あ、はい。よろしくお願いします。」
(箱崎さんは彼女なのに、「縞田先輩」って呼んでるんだ……。)
ちゃんと「縞田先輩」って呼ぶ練習をしてきてよかった。
うっかり昔の呼び方をしないように気を付けなくちゃ。
それにしても、笑顔が可愛い。
笑うと八重歯が見えて。
「『葵』って呼んであげてね。名字がバレー部でもクラスでも被ってるから。」
菜月ちゃんが説明すると、箱崎さんが頷いた。
「うん。先輩もそう呼んでたよ。あたしのことは『むつみ』か『むっちゃん』でいいからね♪」
「はい。」
箱崎さん ――― むっちゃんと話していると、なんだか楽しい気分になる。
どんな人でも、難しい顔なんかしていられないような人だ。
「縞田先輩は人使いが荒いらしいよ〜。辛くなったら言ってあげるから、いつでもおいでね。じゃあね〜。」
小走りにお友達を追いかけて行くむっちゃんを見送りながら、菜月ちゃんが話してくれた。
「去年ね、むっちゃんが入部したとき、背も高いし、中学時代に県大会で準優勝したって実績もあったから、すごく期待されてたの。」
ああ、そうだよね。当然だ。
「でもね、高校はやっぱり中学とは違うみたいで、はなかなか調子が出なかったんだよね。先輩たちにもいろいろ言われちゃっててさ。可哀想だった。」
そんなこともあるんだ……。
「でね、夏休み明けかな、彼女、一人で朝練を始めてね。」
「一人で? 偉いね。」
きっと、いろんな想いがあったんだろうな。
さっきの彼女の笑顔からは想像ができないけれど。
「うん。それを見た縞田先輩が、アドバイスしたり一緒にやるようになったりして、付き合い始めたってわけ。」
「そうなんだ……。」
(強い心を持ったひとだな……。)
上手く行かないときに先輩たちに責められても、投げ出さないで、努力することを選んだ。
苦しい気持ちを味わったはずなのに、そんな様子はまったく見せずに、あんなに可愛らしい笑顔でいられて。
(その強さ、それと健気さに、縞田先輩は惹かれたんだ……。)
なんだか急に淋しくなった。
元気なむっちゃんがいなくなったせいでもあるのだけど……。
「な…なんだか心配になって来ちゃった。」
沈んで来てしまった表情をごまかすため、言い訳めいた話題を持ち出す。
笑顔がわざとらしく見えないといいんだけど。
「マネージャーのこと?」
「うん。だって、『人使いが荒い』って言ってたよ。使いものにならなかったらどうしよう? わたし、そそっかしくて。」
(本当はそれだけじゃない。)
ショックだった。
縞田先輩に彼女がいるということが。
自分が思っていた以上に。
そのことで、また動揺して。
「大丈夫だよ。本当に、あの部の人たちはみんな優しいから。」
「うん……。」
菜月ちゃんの笑顔を見ても淋しさが消えない。
(わたし、縞田先輩のことを好きだったの……?)
おととい、久しぶりに会って。
昔とはまるっきり違う人みたいで。
でも、昔とおんなじに優しくて。
一緒にいたのはほんの30分くらい。
会話だって、わたしは返事をするくらいで。
たったそれだけで……?
(でも……。)
この、胸が空っぽになったみたいな気持ちは………。
午後2時。
新入生の部活紹介に出るために、一人で体育館に向かっている。
尾野くんは「葵ちゃんなら大丈夫!」と笑顔で見送ってくれた。
藁谷くんは「よろしく。」とつぶやいた。
相河くんは、気の毒そうな顔をして「頑張れよ。」と言った。
菜月ちゃんも行くのかと思っていたら、違った。
男子バスケ部はマネージャーは出ないらしい。
西棟北側の階段を下りながら、何度も窓から体育館を確認する。
この階段を2階まで下りれば、体育館への通路がすぐ横にあるはず。
(うん。間違いないね。)
実は、わたしは方向音痴だ。
前の学校では仲の良い子はみんな知っていて、遠足のときなどは、誰もわたしに地図を見ろとは言わなかった。
それでも、外は大きな目印があったりするからまだいい方。
問題なのは建物の中や地下街。
階段やエスカレーターで自分が向いている方向が変わったりするともうダメ。
いつの間にか違う方へ歩いている、ということが度々ある。
しかも、自分では正しいと確信して歩いているから、気付くのはかなり遠くまで行ってからになってしまう。
そういうことを避けるために、マメに目標を確認するようにしている。
(2階……、よし、大丈夫。)
予定通り、体育館の通路だ。
よく考えたら、おととい、始業式で来た道だった。
(あのときは先生の靴ばっかり見てたから……。)
後ろからも生徒が何人か来ている。
ほかの部活の先輩たちかも知れない。
体育館に渡って中を覗くと、靴を履きかえる場所に7、8人の生徒がいて話していた。
その中に縞田先輩もいる。
「あ、来たか。」
笑顔で手招きされてほっとした。
隣で振り向いたのは、副部長の水野先輩だ。
「こんにちは。」
「おう。入部届、もう出した?」
「はい。お昼休みに植原先生に出して来ました。」
答えると、先輩たち二人が笑顔で頷いた。
「親は心配しなかったか? 帰りが遅くなるし。」
縞田先輩が尋ねてくれる。
そんなふうに気遣ってもらえることが嬉しい。
「いいえ。『頑張りなさい。』って言ってくれました。」
母の反応を思い出すと困ってしまう、というのが本当のところ。
母は高校生の頃、 “男子の部活のマネージャー” というものに憧れていたらしい。
でも、自分のキャラじゃないからと諦めていたそうだ。
そういう過去があったから、わたしの話を聞いてすっかり舞い上がってしまった。
そんな母が言ったのは「頑張りなさい。」だけではない。
「いいな〜!」「頑張るのよ〜!」「スコアの勉強もしないとね。」「やっぱり蜂蜜レモンよね!」etc……。
わたしよりも、ずっと気合いが入っていると思う。
「俺たちが話したあとに、これ読んで。」
母の反応を思い出して少しぼんやりしていた耳に、縞田先輩の少し掠れた声が聞こえた。
差し出されたメモを受け取るときに一瞬指先が触れて、そこからピリッと心臓に電気が流れたような気がした。
頬が赤くなりそうな気配に、顔を伏せてメモを一心に見つめる。
『練習は月曜から土曜。日曜日は休み。練習場所は体育館と校庭のコートをローテーションで使用。仮入部の希望者は……。』
「ゆっくり読んでくれればいいから。つっかえても構わないし。」
縞田先輩の声。
「はい。」
返事をするために顔を上げたら目が合った。
もう昔の子どもらしさはどこにもないけれど、その目はあの頃と同じように優しく笑っていて……。
(どうしよう……?)
こんなにドキドキするなんて。
縞田先輩には彼女がいるのに。
好きになったらいけないのに ――― 。