64 チャンス……なんだけど。
(まさか藁谷たちが遅れるなんて……。)
準備を手伝うという名目で少し早めにやって来たけど、本当の目的は、葵と二人きりの時間が欲しかったから。
予定では10分くらいのはずだった。
だけど、もっと長い時間になるのは確実……。
(ラッキー!!)
何ができるだろう?
いや、まあ、 “何” って、べつにそんなにすごいことを考えてるわけじゃないけど。
もしかしたら、 “二人でワルツ” が現実になるかも?
ここまでだってドキドキしながら来たのに、今の話を聞いたらますます落ち着かない。
(ダメだぞ、ニヤついてちゃ!)
心の中で、思いっきり自分を叱ってみる。
葵に案内されて歩く廊下は、横向きの玄関から左へまっすぐ奥に続いていた。
左右にドアがいくつか並んだあと、突き当たりにガラスの嵌まった扉。
「ここなの。どうぞ。」
ドアを開けながら、葵が俺に笑顔を向けた。
まっすぐに俺を見て、にっこりと、嬉しそうな笑顔。
(もしかして、葵も二人きりが……嬉しい…とか。)
そんなことを考えたら、また鼓動が乱れ始めた。
彼女の笑顔から目が離せないまま、あいまいに頷いて部屋に入る。
(何か期待されちゃってたりして!?)
自分勝手な想像に顔が緩みそうだ。
そんな自分を戒めながら、落ち着くために、一旦目を閉じる。
そして、目を開くと……、そこは広いリビングだった。
左の手前にキッチンカウンターがあり、その前に4人掛けのダイニングテーブル。
正面が全部ベランダに面した左右に広がる空間の、ダイニングテーブル以外のスペースがリビングとして使われていた。
うちのリビングは8畳くらいだと聞いたことがある。ダイニングとは区切られている。
そこにソファにテーブル、テレビ、写真や土産物が入った棚、パソコン机がある。
さらにゴミ箱が分別用に2つ、新聞入れ、扇風機などがあって、こうやって数え上げてみると、よく入ったものだと思ってしまうほどだ。
でもこの部屋は、たぶん8畳よりもずっと広いし、床の上には3人掛けのソファとガラスのテーブルしかない。
いや、もちろんそれ以外の物もあるけれど、テレビは右側の壁にかかっているし、棚は部屋の隅に一つだけ。
そのほかの小さいものも壁の方に寄せてあって、ほとんど存在感がない。
「準備って言っても、そんなにやることはないんだけど……。」
尋ねるように俺を見上げる葵。
今日は丈の長いワンピースにカーディガンで、学校で見るのとは違うお嬢様っぽい雰囲気だ。
でも、相変わらずのふわふわのポニーテールと笑顔はやっぱりいつもの葵で。
「広いな……。」
(ああ、また言えない……。)
本当は「可愛い。」って言いたかったのに!
周りに誰もいなくても言えないなんて!
(俺って本当に情けないヤツ……。)
口に出せないなら、行動で示せばいいのか?
でも、それって……危険だ。
「荷物が少ないだけだよ。お母さんがずっとアメリカだったし、うちはそもそも2人しかいないから。」
ぼんやりしていた耳に、彼女の声が聞こえた。
その言葉の意味に気付いて、思わず彼女を見た。
彼女は当たり前のように微笑んでいた。
いつもと同じように、優しく。
けれど、その中に諦めのようなものも見えるのは、俺の考え過ぎだろうか。
だって、お祖母さんと二人だけの何年もの生活は、淋しかったんじゃないだろうか?
もちろん、学校の友達はいたはずだ。
でも、一番近い家族であるお母さんとはいつでも話せるわけではなく、きょうだいもいない。
そんな中で遊んだ、子ども時代のわんぱくな縞田先輩……。
(葵……。)
彼女をそっとこの腕で包み込みたい、と、強く思った。
そして、「これからは俺が一緒にいるから。」と伝えたい。
(今なら ――― 。)
「まずはソファかな?」
彼女が首を傾げるようにして俺を見上げる。
「え、は、はい。」
思わず姿勢を正してしまった。
べつに、不埒なことを考えていたわけじゃ……ないよな?
「そうだよね。先にソファを一緒に運んでもらって、そのあと、菜月ちゃんたちが来るまでちょっと休憩?」
「ああ、うん。」
(季坂たちが来るまで……。)
葵と二人だ。
この部屋で。
二人きり。
壁際に寄せたソファに二人で並んで座っている場面が目に浮かぶ。
肩が触れ合うくらい近くで、視線が合った途端に会話が途切れて ――― 。
(ダメだってば!)
どうしても落ち着かない。
そりゃあ、少しはそういうことがあるといいな、と思っていたけど。
そうなるように、早めに来たけど。
(緊張する〜〜〜〜!)
とりあえず、やることがあるのは有り難い。
3人掛けのソファの両側を二人で持って、玄関側の壁際まで運ぶ。
ガラスのテーブルは、反対側の窓際の隅へ。
麻のカーペットはくるくる巻いてテレビ側の壁に寄せた。
それでおしまい。
現れたスペースは、教室の四分の一よりも広いくらいか。
隣で「ふう。」と息をついた葵が可愛くて、思わず微笑んで隣を見た。
その気配を感じたのか、彼女が俺を見上げる。
(あ……。)
動けなくなってしまった。
(どうしよう? 二人きり…なんだ……よな……。)
“二人きり” という言葉が、頭の中に太字で浮かんでくる。
(ほかに誰もいない……。)
一瞬、クラっとした。
スピードを上げた心臓の音がドッドッドッド……と耳に響いてくる。
(今、彼女を引き寄せたら、間違いなく彼女は俺の腕の中に……。)
小柄な彼女なら、すっぽりと収まってしまうだろう。
驚いた顔をして?
それとも、恥ずかしげに?
(いや。ダメだダメだダメだ!)
顔に微笑みを張り付けたまま、自分を叱る。
力の差がある彼女をいきなりなんて、ルール違反だし。
だけど……。
わずかな時間の間に、いろいろな可能性が頭の中で渦を巻く。
そのとき。
彼女がすっと視線をはずした。
優雅に、色気さえ感じさせる動きで。
(う、わ……。)
心臓をギュッとつかまれたような感じ。
その感覚に息が止まる。
「ええと、麦茶でいいかな?」
そう言いながら、葵がキッチンの方に向きを変える。
その動きの途中で、ふわっと彼女の指先が俺の腕をかすった。
(!!)
まさに、体に電流が走ったような気がした。
心臓が止まるかと思った ――― と思ったら、さっきよりもさらにスピードアップ。
彼女が触れたのは一瞬よりも短いくらいだったのに、その場所が熱を持って、はっきりと存在を主張し続けている。
(まさか、わざとなんてこと……ないよな……?)
相手は葵だ。
もちろん偶然に決まってる。
偶然に決まってるけど、この攻撃は意外にキツい!
“微かな” ってところが余計に!
そんな俺にはお構いなしに、葵はもうキッチンにいて、戸棚や冷蔵庫を開けていた。
一旦離れている今のうちに、なんとか気持ちを落ち着けたい。
密かに深呼吸を繰り返していると、どうにか鼓動が普通の速さに戻り始めた。
(ふぅ………。)
体の力を抜いて、最後に一息。
「相河くん、こっちにどうぞ。」
葵がダイニングテーブルに麦茶を置きながら呼んでいる。
いつもの、自然な笑顔で。
「ああ…、ありがとう。」
(俺だけが一人で盛り上がってるのか……。)
目が合うことも、腕に触れることも、彼女は何とも思っていない。
二人きりでここにいることも……。
椅子に座る俺を笑顔で見ている彼女をそっと窺いながら、ものすごくがっかりしてしまった。
それに、こんなに安心しきっている彼女に “何か” なんてできない。
まるで裏切り行為みたいで。
(仕方ないよな……。)
心の中でため息をつきながら、普段と同じに見えるように、軽い冗談を飛ばすことくらいしかできなかった。




