55 嬉しくて
(電話してよかった〜!)
駅の階段を下りながら思う。
帰ってくる間、ずっと迷っていた。
“出かけているかも知れない” 、 “迷惑がられてしまうかも知れない” って。
(でも。)
迷惑そうではなかった。
それに、こんなに近くにいるなんて。
こんなにすぐに会えるなんて。
もしかして、会いに来てくれた…とか?
(さすがにそんなことはないか。)
でも……。
期待せずにはいられない。
俺を見たらどんな顔をする?
赤信号が、いつもよりも長い気がする……。
横断歩道を渡ってスマイルストアの自動ドアを抜けると、ひんやりと涼しい空気にほっとした。
(どこだ……?)
平日の夕方のこの時間、それほど広くないスーパーの中は結構混んでいる。
合宿の大きな荷物を持っているから、あんまり中を歩き回らない方がいい気がするけど……。
俺が入った入口は、目の前が野菜売り場、その奥に精肉コーナー。
左側にはレジが並び、駅側の道路に面したガラスの壁の前に袋詰め用の台がある。
(こっちかな。)
袋詰めをしている人たちの後ろを、レジに並ぶお客さんをながめながら進む……と。
4つめのレジに見えたふわふわのポニーテール。
お金を払おうと財布をのぞいている真剣な表情。
(葵…。)
彼女の姿は、しっかり覚えていると思っていた。
でも、記憶と実物は全然違う。
だって実物は、見ただけでこんなに心が躍る。
レモン色に白い花が描いてある袖なしのブラウスに、茶色のキュロット、足首のところを留めるようになっているサンダル。
肩からむき出しの腕が、夏休みなのだと思い出させる。
もらったお釣りを財布に入れて、グレーの買い物カゴを持ち上げながら、葵が俺に向かってにっこりと微笑んだ。
(会えた……。)
胸の中は、幸せでいっぱいだ。
袋詰めの台に葵がカゴを乗せ、隣り合ってもう一度微笑みあって。
「お帰りなさい。横断歩道を渡って来るところが見えたよ。」
懐かしい、優しい声。
言われてみると、確かに目の前に横断歩道が見える。
「ちょっと待っててね。」
彼女がカゴから袋に詰めるのは、野菜に魚……?
「夕飯の買い物?」
「あ、そうなの。今日はムニエルにしようと思って。」
ということは?
「夕飯は、葵が作るのか?」
「うん、そうだよ。お母さんは帰るのが遅いから。」
当たり前の顔をして言われてびっくりした。
うちでは俺や妹が手伝うことはあっても、作る主体は母親だ。
もちろん、そうじゃない家もあることは知っていた。
でも、こんなに身近に、しかも同い年の葵が実際にやっているとは。
(そういえば、葵は弁当も自分で作ってるんだっけ……。)
「もしかして、普段もそうなのか?」
「普段? うーん、半々かな? お買い物は、お母さんが車でまとめてやってるけど。今は夏休み中で、わたしが時間があるから。」
話しながらも手を休めずに、彼女はどんどん品物を袋に詰めて行く。
その手際の良さに、尊敬の念が湧いてくる。
俺は今まで、彼女のことは、守ってあげるべき存在として見ていた。
心配して、面倒を見て、と。
けれど、それだけではないんだ。
彼女は母親と二人だけの家族で、一緒に家を切り盛りする責任を負っている。
俺みたいに、学校のことだけを考えていればいいわけじゃない。
「はい、これ。どうぞ。」
袋詰めが終わった彼女が差し出したのは、みかんのアイス。
「ええと……、一緒に食べようと思って。」
(あ、れ?)
一瞬の何かに、心臓が、トクン、と反応した。
でも、アイスを差し出している彼女は、以前と違うところはなくて。
「うん…、ありがとう。」
「外の自転車置き場のあたりに、ベンチがあったような気がするけど……?」
カゴを片付けて、彼女が先に立って歩き出す。
ここでは、葵の方がテキパキしているような気がする。
だけど。
「ゆっくりしてていいのか? 魚買ったんだろ? 暑い中で傷まないか?」
「……あ。」
立ち止まった彼女が俺を見上げた。
何か言いたそうに。
何か迷うように。
またしても心臓が、トクン。
「あ…、俺…、一緒に葵の家の方をまわって帰るよ。」
(なんだろう、この感じ?)
「でも……、遠回りに……。」
「いいよ。もともとその予定だったんだし、たいした回り道じゃないから。」
言葉を交わしながら、彼女の様子を確かめてみる。
でも、遠慮がちなところはもとからだし……。
(勘違い……かな。)
俺が期待しちゃってるから、過剰に反応しているのかも。
「だけど……。」
「いいから。せっかく会ったんだから、その…、合宿の話もしたいし。」
本当は「合宿の」なんて言わなくてもよかったのに。
どうしても、言い訳めいた言葉が出てしまう。
「うん……。ありがとう。」
「いいよ。これもらったから。」
手に持ったアイスを振ってみせると、彼女が「うん。」と笑顔になった。
それを見たら、幸せで息が苦しいような気がした。
「ときどき思うんだけど、相河くんって、すごーくよく気が付くひとだよね?」
店を出ながら、彼女が振り向いて言う。
「お魚のこととか、買ったわたしの方が忘れてたもん。」
「そうか? ははは。」
(忘れるほど、俺に会って嬉しかったとか?)
……そんなこと、あるわけないか。
アイスを食べながら一緒に歩く彼女は、いつもよりも元気に見えた。
踊るような足取りでくるりと向きを変えたり、早口でしゃべったりして。
単に、軽やかな服装のせいかも知れない。
荷物も少ないし。
いくらそう言い聞かせても、俺の心は、自分勝手に期待してしまう。
俺に会えて嬉しい?
一緒にいると楽しい?
ねえ、葵。
ほんの一言でいい。
何か……、何か……。
でも、心の中の願いは、彼女には届かない。
空しい気分を味わいつつも、同時にアイスをかじって目が合ったときは、すごく楽しくなって、一緒にくすくす笑った。
(こういう二人連れって、どう思われるんだろう?)
スーパーの袋を提げた葵と、制服を着た俺。
高校生のカップル?
もしかしたら、二人で暮らしているみたいに見えるかな?
(二人で? いや〜、そんな!)
「どうしたの?」
「え、あ、ん、いや、その。」
ニヤニヤしてたかな?
何か言い訳を……。
「ええと、向こうで、小学生の野球チームと宿が一緒でさあ。」
「ああ。そうだったんだってね。」
(え? 「だってね」?)
「あれ……? 知ってるのか……?」
俺の質問に、彼女はにこにこと答えてくれた。
「うん。尾野くんが言ってたから。」
「え? 尾野?」
「言ってた」って、いつ?
尾野とはさっき別れたばっかりだし、俺は家に帰る前に葵に会ってるのに……。
「うん。電話をくれたから。」
(え!?)
「む、向こうから?」
「そう。夕ご飯のあととか、夕方とか。いろいろ知らせてくれたの。」
「へ、へえ……。意外に気が利くんだな。ははは。」
俺は見てないぞ。
風呂に入ってるときか?
それに、「とか」って何だ、「とか」って!
一度じゃないってことだよな?
(あ!)
「もしかしたら、宇喜多も……?」
「あ、ああ、うん。宇喜多さんも毎日メールで、みんなの様子を知らせてくれた。」
「ああ、そうか〜。さすがに律儀だよな〜。」
あの二人には、特別な用事なんてないだろ!?
用事がなくても連絡してんのかよ!?
しかも「毎日」!?
もしかして、俺、出遅れてる!?
「あ、あの、ごめん、俺、気が付かなくて…。」
「え? どうして? 相河くんも連絡してくれたじゃない?」
「う、うん、まあ…な。」
俺は1回だけ。(同時だもんな。1回と同じだよ…。)
でも、葵は気にしていない?
俺からは連絡がなくても気にならないってことなのか?
“どうでもいい” って……?
「あ、そうだ。1年生が面白い写真を送ってくれたんだけど……。。」
1年もか!
「写真?」
「見たい?」
うわ。
その顔、可愛いよ。
ぬいぐるみみたいに抱き締めたい!
「うんうん。」
「1年生を怒っちゃダメだよ?」
「うん。」
そんな顔で言われたら、何でも言うこときいちゃうよ。
1年がメールしたくらい、何だって言うんだ!
「尾野くんには内緒ね? 1年生に厳しいから。」
「分かった。」
道路の端に寄って立ち止まり、彼女がスマートフォンの画面を俺の前にかざした。
少し後ろ寄りに立っていた俺は、彼女の肩越しにそれを覗き込む姿勢になり、そのとき視界の隅に ――― 。
(え? 見え……そう、だけ…ど……。)
右隣にいる彼女が、スマホを持ち上げているのは右手。
そのポーズで、広めに開いていたブラウスの胸元に隙間が……。
(視線が落ち着かない〜!)
そのまま動かないでほしい気がする。
いや、動いたらもっと良く………?
「見える?」
「い、いや、よく… 」
(って、違うだろ!)
「え、ええと、これ何…かな?」
「え? あのね、お昼寝してる写真だよ。ほら、これ、相河くんでしょう?」
「え!?」
一気に写真に集中。
スマホを受け取ってよく見たら、座敷にトドのように転がっている自分たちの姿だった。
「……誰から来た?」
「ああ、槌谷くん。面白いでしょう? タイトルがねえ、『まぐろ漁港』って付いてたの。」
「へえ……。」
(やってくれたな……。)
俺を差し置いてメールをした上に、こんな写真まで!
「ねえ、怒ってないよね……?」
「このくらいで怒るかよ〜。あははは。」
「よかった。これはおととい来たやつで、昨日はねえ……。」
(槌谷も毎日か。)
怒らないけど特訓……と行きたいところ。
でも。
「ほら、見て。」
はしゃいだ様子で写真を俺に見せようとする葵。
いつの間にか寄り添うように近くにいて、彼女の肩や髪が触れる。
写真をのぞき込む俺とほんのわずかな距離のところで、「ね?」と微笑む。
(ま、いいか。)
葵とこうやって近付けるチャンスを提供してくれたんだから。




