5 決まった。
(何か言ってあげないと……。)
じっと藍川を見ている先輩が、今にも怒り出してしまいそうな気がする。
焦って口を開こうとした瞬間、先輩が急に笑顔になった。
「なんだ、葵じゃないか! 変わんないなあ! 転校? ってことは、引っ越してきたのか?」
ハッとしたように彼女が先輩の顔を見上げた。
その彼女に先輩は笑顔で言葉を続ける。
「あれ? 忘れちゃった? H市に住んでただろ? 庭の広い家でさあ。」
その言葉にコクコクと頷く彼女。
「そうだよなあ、あの頃と同じ顔だもん。全然変わらないよ。俺のこと分からない? 毎年夏休みに一緒に遊んだのになあ。ああ、でも中学に入ってから行ってないからなあ。5年…6年ぶりか?」
一人で納得している先輩を見ながら、俺たちは三人とも言葉が出なかった。
「ほら、真之だよ。一緒に塀の上歩いて、お前んちのばあちゃんに怒られた真之。木登りも教えただろ?」
(一緒に塀の上……。)
このおとなしそうな藍川がそんなことをしていたとは信じられない気がする。
でも、中学生になってから会っていないということは、小学生のころの話か……。
「あ……。真之くん……?」
藍川は、名前を言われてようやく思い出したらしい。口元に手を当ててつぶやいた。
「そう。思い出した?」
「はい……。はい。」
「そうか、転校かあ。大変だなあ。でも、あの家って『アイカワ』なんて名前だったっけ?」
縞田先輩はさっきの厳しい顔はどこへやら。
今にも彼女の頭を撫でそうなくらいにこにこ顔だ。
「あ、ううん、違う。あれはお母さんの実家で『佐々木』って…。」
「ああ、そうだ! でっかい表札に書いてあったよなあ、『佐々木』って。そうかー。マネージャーやりたいのか。」
「あ……。」
リラックスしたようだった藍川が、また固まった。
「そうなんですよー。」
先輩の機嫌が良くなったタイミングに乗じて、尾野が調子を合わせる。
藍川は何か言いかけたけれど、結局何も言わなかった。
「うん、たしかに途中から入るのは気を遣うよな。」
「それにね、先輩。」
そこまで言って、尾野は先輩に何か耳打ちした。
何を言ったのかは聞こえなかったけど、先輩はハッとして、尾野を見た。
それから、
「うーーーん……。」
拳をあごに当てて考え込む。
そして、最後に尾野に向かって頷いた。
「うん。そうだな。」
(え? 決まり……?)
先輩が俺たちには絶対に見せない優しい顔で藍川に向き直る。
「葵なら大丈夫だな。手伝ってもらえれば俺も助かるよ。あ、水野、ちょうど良かった。」
バッグを担いでやって来た副部長の水野先輩を呼び止めて、縞田先輩が事の次第を説明する。
最後に水野先輩にも何かを耳打ちすると、水野先輩がハッとして縞田先輩を見た。
それに頷く縞田先輩。
藍川を見てから縞田先輩に頷き返す水野先輩。
(何なんだ……?)
「よろしくね、ええと、藍川? え、 “アイカワ” ?」
水野先輩が藍川と俺を交互に見る。
彼女の名前を聞くと、みんな必ず俺のことも確認したくなるらしい。
二人で頷くと、尾野が俺たちの間に入って肩をバンバンと叩きながら言った。
「この二人、名字が被ってるんです。だから、こっちは『葵ちゃん』なんですよ。」
「ふうん。まあ、縞田も名前で呼んでるし、そういうことならいいか。よろしく、葵ちゃん。」
「は、はい。よろしくお願いします。」
藍川は、今度は迷いなく頭を下げた。
(本気で覚悟を決めたのか……。)
彼女の決意を固めた表情に、なんとなく凛々しさを感じる。
その一方で、俺はやっぱり責任を感じてしまう。
「今日はもう帰るのか? じゃあ、その前に顧問の植原先生のところに行こう。ああ、その前に3年生全員と顔合わせするか。」
縞田先輩がテキパキと手順を決めて行く。
藍川は、それを聞いても動揺せずに「はい。」と頷いた。
「葵のことは俺と水野が世話するから、お前たちは戻っていいぞ。弁当食って1時に集合だからな。」
「はい。」
「失礼します。」
先輩たちにあいさつをして藍川を見ると、彼女は微笑んで軽く頭を下げた。
まだ心配だったけど、縞田先輩が彼女と知り合いだと分かった今は、少しだけ気持ちが軽くなった。
「尾野。お前、縞田先輩に何を言ったんだ?」
階段を上りながら、気になっていたことを尋ねてみる。
「さっき、俺たちに聞こえないように何か言っただろ?」
たぶん、縞田先輩が水野先輩に耳打ちしたのも同じことだ。
「ああ、あれ?」
ニヤニヤしながら答える尾野。
そんなに面白いことなのか?
「まさか、あの子に何か変なことをさせるつもりじゃないだろうな?」
「変なこと!? まさかだろ!?」
大袈裟に驚く姿がますます怪しい。
「そんな目で見るなよ〜。俺はただ、部活紹介に出てもらえるって言っただけ。」
「部活紹介?」
「そうだよ。ほら、新入生に毎年やるだろ? あれ。」
「あれは毎年、部長と副部長が出てるんじゃないか。」
「そうだけど、べつにマネージャーも出たっていいだろう?」
それはそうだけど……。
(あ。)
「お前、もしかして、あの子を餌にしてうちの部員を増やそうと……?」
「うわ。『餌にして』とか言うなよ、品がない。 “憧れの女子マネージャー” だよ。うちの学校にはバスケ部とサッカー部にしかいなかった貴重品だぞ。」
しれっとした顔でそう言う尾野に少し腹が立った。
確かに優しそうな雰囲気の彼女がマネージャーだったら、うちの部の入部希望者は増える可能性がある。
年々部員が減ってきている男子バレー部にとっては、まさに起死回生とも言える作戦かも知れない。
けれど、そんなふうに彼女を利用することが嫌だし、可哀想だ。
彼女は自分から希望してうちのマネージャーになるわけじゃないのだから、なおさら。
「そんな顔するなよ。」
尾野は相変わらずニヤニヤしている。
「葵ちゃんが困ってるときは、俺がちゃーんと助けてあげるんだから。くくくく……。」
(最終目標はそっちか……。)
どうやら尾野は、本当に彼女のことが気に入ったらしい。
名前を褒められたからか、彼女の笑顔を見たときか。
(ってことは、やっぱりうわついた理由じゃないか。)
呆れてしまう一方で、出会ってから何分かでそこまで筋書きを立てた尾野を、ある意味尊敬する。
でも……。
(何かあったら俺がフォローしてあげよう。)
今日の様子では、藍川が尾野の勢いに勝てるとは思えない。
コイツが一直線に彼女に向かって行ったら、わけが分からないうちに、コイツの彼女ってことになってしまうかも知れない。
尾野だけじゃなく、女子校だった彼女は、男全部に対してどう接したらいいのか分からない可能性だってある。
(まあ ――― 最初に口を利いたのは俺なんだから。)
俺の代わりに出席番号1番になってくれたし。
同じ「アイカワ」だし。
まったくの他人だとは思えないんだよな。
「そういえば相河、お前、1年のときの仲間と離れちゃったんだな。」
「ん? あ、ああ、そうだな。」
1年のときの仲間。
尾野が言っているのは、同じクラスで俺がつるんでいた4人のことだ。
俺のほかに男が2人、女が2人。その中にカップルが1組あった。
校内ではたいてい一緒にいたし、よく遊びにも行った。
春休み中も、一度みんなで出かけた。
女子は「また同じクラスになりたいね。」なんて言っていたけど……。
(よく考えたら、あいつらが何組になったのかも確認しなかったな。)
始業式の行き帰りにちらりと見かけたけど、それぞれ誰かと話していたし。
(そんなものなのかな。)
結束が固そうだったのに、離れてしまうとそれほど未練がない。
一緒にいると楽しいけれど、深い付き合いではないのかも知れない。
(なんだか淋しい付き合い方だな……。)
ふと、そう思った。
高校に入学してから、ずっと楽しく過ごしてきたつもりだったのに。
(今年は?)
これからの一年を予想しようとしたら、なんとなく胸が温かくなった。
微笑みを浮かべそうになっている自分に気付いて、慌てて真面目な顔を取り繕った。