41 プライドと
6月1日は雨だった。
外練習のローテーションが雨の日は、校舎の中を上ったり下りたりしながら走ったあと、体育館の地下にあるトレーニング室に行く。
トレーニング室にはルームランナーや筋トレのマシンがそれなりに揃っている。
でも、雨の日は外の部活がみんなそこに集まるから混んでいるし、地味な筋トレは集中力が続かない。
しかも今日は、葵が用事があると言って帰ってしまった。
頑張っている姿を見せる相手もいない……というのは言い訳か?
去年は葵がいなくても、それなりにきちんとやっていたんだから。
やっぱり、雨でどんよりした天気だと気分が乗らないのかも。
マネージャーがいない日の貴重品と鍵の当番は、副部長である俺ということになっている。
最後に来た1年生が着替えるのを待ちながら、ぼんやりとドアに掛けてあるカレンダーを見ていた。
(なんだ、これ……?)
カレンダーをめくったら、7月1日に『尾野だよ〜!』と書いてある。
8月には5日に『細村でーす』、22日に『☆鎌伊です☆』。
9月にも1年生の名前と『ウキタ』……?
(この前はなかったよな……?)
前に見たのは……先輩が引退したあとだから、先週の火曜日ごろだ。
俺たちの最初の試合はいつだろう、と思って。
今日は木曜日。
あれからまだ1週間ちょっと。
続けて10月、11月、12月とめくってみると、やっぱりところどころに誰かの名前が書いてある。
(何かの当番か……?)
試合の前の準備とか、何かを注文するとか、掃除とか?
でも、書き込みのある日にちはランダムに見える。
それに、俺は何も聞いてない。
「蔵野。ここに書いてある名前って、何?」
着替えている1年生に訊いてみる。
蔵野の名前も11月に書いてあった。
「え……?」
返事がすぐに返って来ない。
不思議に思って振り向くと、蔵野の視線が泳いだ。
何か後ろめたいことがあるのか。
「ほら、お前の名前も書いてあるよ? この前はなかったと思うんだけどなあ。」
責めていると思われないように穏やかな口調で言うと、蔵野は気まずそうに答えた。
「あのう……、誕生日です……。」
「誕生日? これ? 部員の? え、なんで?」
「ええと、その……、葵先輩に……お祝いを……してもらうために………。」
「葵に!?」
「はい……。」
(これ全部?)
と言うほど、うちの部員数は多くないけど……。
(誕生日のお祝い……。)
というと、あれか?
あの “いい子、いい子” のことか?
「この前の槌谷の……?」
「はい……。」
呆れて黙っていると、蔵野は言い訳をしなくちゃと思ったらしい。
あたふたしながら成り行きを話し始めた。
「槌谷があんまり自慢するんで、誕生日が過ぎちゃってた古森が、葵先輩に頼みに行ったんです。」
「 “自分もやってくれ” って?」
「はい。そしたら葵先輩はちゃんと頭を撫でてくれて、一緒にいた俺たちにも『カレンダーに書いておいて。』って言ってくれて……。」
「お前たちが何か言う前に、葵がそう言ったのか?」
「あ、まあ……、少し……わあわあ言っちゃったような……。」
そうだろうな。
1年生に囲まれて困っている葵が目に浮かぶようだ。
「はあ…、まったく。そんなことでマネージャーを困らせるなんて。」
「あの、でも!」
俺が顔をしかめたのを見て、必死な様子で蔵野が弁解する。
「相河先輩はOKしたって聞きました! 槌谷のときに、葵先輩が相談したって。」
「う、まあ…、それは…そうだけど……。」
(俺は一回だけのつもりだったのに! しかも、あれだって予想よりも長かったんだぞ!)
心の中でそう叫んでも、まさか1年生に、自分が焼きもちを焼いている姿なんて見せたくない。
“見せたくない” だけじゃなくて、気付かれるのも嫌だ。
俺は尾野とは違う。
(ああ……。)
あのとき、半分浮かれてOKしたのは自分なんだから仕方ない。
「分かった。葵が言ったんならいいよ。」
「はい。じゃあ俺、走りに行きます。貴重品、入れておきます。」
「うん。」
蔵野が出て行ってドアが閉まった。
そこに掛けてあるカレンダーをまたじっと見つめてしまう。
(誕生日か……。)
そんなに葵に頭を撫でてもらいたいのか?
自分の誕生日が過ぎたからといって、わざわざ遡って頼みに行くほど?
(ん?)
よく考えたら、わざわざ誕生日を書く意味ってなんだ?
頭を撫でてもらうなんて、その当日に言えば済むことじゃないか。
「葵せんぱーい。今日、俺の誕生日なんです〜。」「はーい、おめでと〜。」って……。
「くっ……。」
思わず一人で笑ってしまった。
これも彼女の “うっかり” なのかも。
でなければ、1年生に付きまとわれた葵が、面倒になって言ったとか。
どっちにしても、そのときの葵の様子を想像すると笑える。
(うっかりでも何でも、可愛いことには間違いないな。)
部室に一人きりの今なら、いくらニヤニヤしても誰に見られることもない。
安心して、思う存分、彼女の姿を思い浮かべることができる。
(それにしても……。)
尾野は分かるけど、宇喜多まで、というのが信じられない。
ちゃんと分かってて書いたんだろうか?
あいつのことだから、よく分かってない可能性も高い。
それとも案外本気だとか?
いや、でも、葵に頭を撫でられて喜んでる宇喜多なんて想像できない。
頭に手を乗せられただけで、驚いて飛びのきそうだ。
(いや、違うかも……。)
彼女に触れられることで、宇喜多の気持ちが目覚めるかも。
今は恋愛天然だけど、あいつだって俺たちと同じ男子高校生だ。
いつそういう気持ちになってもおかしくない。
それに、宇喜多と葵の信頼関係は侮れないものがある。
よく真面目な顔で話し込んでいるし、葵から「宇喜多さんがね」という言葉を聞くことも多い。
二人とも無防備なところがますます危険な気もする。
宇喜多の誕生日がある9月までの間に、二人の関係がもっと近付いている可能性も高い……。
(あ〜〜〜〜〜〜!!)
ダメだ、こんなことをウジウジ考えていたら!
そうならないように、俺がしっかりすればいいんだ!
(でも……。)
俺の誕生日は12月10日。
まだ半年も先……なんだけど。
(どうしよう?)
俺もここに書いておきたい。
尾野や宇喜多に遅れをとるのは嫌だ。
それに、葵に頭を撫でてもらうことを想像すると……、そのチャンスは逃したくない!
もしかしたら彼女が2年生用に、1年生とは違うことを考えてくれるかも!
でも、あいつらに、俺がそれを期待していることを知られるのは格好が悪い。
1年生に対して、俺が偉そうに許可したという手前もあるし。
(でも!)
書いておかなかったら葵は知らないままだ。
俺の名前がないことに気付いて訊いてくれればいいけど、彼女のことだから気付かない可能性もある。
書いておけば、もしかしたら内緒で特別なものを用意してくれるかも知れないし……。
(よし。)
“特別なもの” という考えで心が決まった。
(書いておこう。)
文房具の箱の中からボールペンを選ぶ。
シャーペンだと何かのはずみで消えてしまうかも知れないから。
(12月……。)
今年中の誕生日で良かった。
来年だったら、書き忘れる可能性が高い。
(10日……と。)
ペンが紙に付く直前で手が止まった。
『相河』なんて、今まで何百回も書いてきたはずなのに。
(あー……、決心が付かない……。)
こんなところでプライドを守ってどうする!
葵からのプレゼントとどっちが重要なんだ!?
(だけど…、ああもう!)
ようやく手が動いた。
ただし、ボールペンが描いた形は……『 オ レ 』。
「はあ……。」
確認しながらため息が出た。
自分の往生際の悪さにがっかりする。
(分かってくれない……だろうな……。)
万が一、部員みんなの前で「これ誰?」なんて訊かれたら余計に恥ずかしい気がする。
でも、ボールペンの字は今さら消せない。
(あ〜〜〜〜、もういいや! なるようになるだろ! 早く練習に行こう!)
後悔を断ち切るために、きびきびと動いてみた。
ボールペンを片付け、もろもろ一式を入れたカゴを持ち、廊下に出て鍵をかける。
このドアの裏側にカレンダーがあるんだ、と思ったそのとき。
(半年もあるんだ……。)
初めてその期間の長さに気付いた。
そのときに彼女が誰かを好きになっていないとは限らない ――― 。
(その相手は俺であってほしいけど……。)
そうなるために、努力しなくちゃ。
とりあえず今日は、葵に見られていないときでも頑張る俺になろう。




