39 *** 葵 : みんなに感謝
(どうしようかな……。)
明日の持ち物を詰めたバッグの前でちょっと迷う。
英語の予習を進めるべきか、このままのんびりするか。
遠足でさんざんはしゃいで疲れたけれど、帰って来た時間が早かったから、体が辛いというほどではない。
夕飯もお風呂も明日の準備も全部済んだ今は、心地良い疲労感につつまれている。
(今日はのんびりしようかな……。)
楽しかった一日の余韻に、もう少し浸っていたい。
ベッドの上にごろりと転がると、今日一日のことが、次々と頭に浮かんできた。
本当に、一日中楽しく過ごした。
転校してから初めての、お友達とのお出かけ。
学校の行事でも部活でもなくて、 “お友達” との自由な一日。
お日さまの下で、潮風にあたりながら歩いているだけで心がウキウキした。
走ったりスキップしたりしたくなってしまったけど、子どもっぽくて恥ずかしいから我慢した。
でも、気を付けていたのに、迷子になって迷惑を掛けてしまったのは失敗だった。
はぐれたときに心配してくれた尾野くんと相河くんには、心から悪いと思ってる。
二人で探してくれて、その上、わたしを責めなかった。
まるでわたしを守る責任があるみたいに心配してくれていた。
女子が一人 ――― だって、菜月ちゃんは藁谷くんと一緒だから ――― だから、何かあったら大変って思ったのかも。誘拐とか。
そのあとはずっと、わたしの左右を守るように歩いてくれていた。
いつも一緒に帰る人たちで、並んで歩くのも珍しくないのだけれど、制服じゃないときは少し恥ずかしい。
何ていうか……個人的なお付き合いみたいな感じがして。男の子2人では贅沢過ぎるけど。
こんなふうに思うのは図々しいし失礼だから、もちろん内緒。
今まで女子校で、男の子と遊びに行くことなんてなかったんだもの、仕方ないよね?
でも、楽しかったのは本当。
水族館も、イルカのショーも、モモイロペリカンも、みんな面白かった!
でも、一番楽しかったのは……。
(……あれ?)
ヴゥゥゥゥゥ……ン、と繰り返す音がする。
もしかして、電話?
(どこだっけ? あ、机の上だ。)
ベッドから転がるように下りて、膝立ちのまま急いで机へ。
手を伸ばして掴んだスマートフォンの画面には。
(尾野くん……?)
なんで? と思ったけれど、待たせたら悪い。
焦って切りそうになってますます焦る。
(留守電になっちゃう〜〜〜〜!)
迷った指が、ようやく通話のマークにタッチ。
「あのっ、はいっ、葵ですっ。」
『ああ、葵ちゃん?』
(切れてなかった……。)
尾野くんの声が聞こえて来てほっとした。
わたしがなかなか出ないので、諦めて切られてしまったことが今までに何度かあるから。
「はい。あの…、何か……?」
と言ってから気付いた。
まずは今日のお礼を言わなくちゃいけないのに。
(ああ、わたしって気が利かない……。)
落ち込むわたしの耳に、いつもより静かな、でも明るい尾野くんの声が聞こえる。
『特に用事があるわけじゃないんだけど…、今日は疲れなかったかなー、と思って。』
やっぱり優しいひとだ。
それに、女の子とは違う低い声が耳に心地良い。
「うん、大丈夫。楽しかったし。どうもありがとう。」
『そう? それなら良かった。葵ちゃんは何が一番楽しかった?』
(ああ、そうか……。)
尋ねられて分かった。
尾野くんは普通におしゃべりをするために電話をかけてくれたんだ。
女の子同士のお友達と同じだ。
「ふふ、今ね、ちょうどそれを考えていたところなの。」
『お、グッドタイミング! で、決まった?』
「うん。あのね、お弁当。」
『弁当? ペリカンじゃなくて?』
尾野くんが言ってるのは、わたしがペリカンを見て大はしゃぎしたこと。
予想外の大きさと姿の美しさに驚いて、感動して、思わず大きな声で二人に話しかけたりしたから。
「うふふ、ペリカンは2番目。1番はやっぱりお弁当。」
『へえ。ああ、宇喜多のウインナーか。』
「うん、あれも感動したけどね。……あのね、実を言うと、本当はあんまり期待してなかったの。」
『あ、やっぱり?』
「ごめんね。計画は面白いと思ったけど、菜月ちゃんとわたし以外はどうなんだろう、って思ってた。無理にお料理をして、食べられないようなものばっかり出てきたら困るな、って。」
『そうだよなあ。普通はそう思うよな?』
「ふふふ、でもね、みんなのアイデアがすごくて、わたし、感動しちゃった。」
『え、そう? まあ、俺はかなり手抜きだったけど……。』
「そんなことないよ! みんながおかずのことばっかり考えていたのに、パンを持って来ることに気付いたって、すごいよ。挟んで食べられるようにしたところなんて本当に。アイデアの1番は尾野くんだと思う。」
『あ、そう…かな?』
尾野くんの声が嬉しそう。
わたしが心からそう思っていると分かってくれている?
「うん! それに、あんなに何個も切り込みを入れるのは、結構手間がかかったでしょう?」
『うん、まあ……それなりに。』
「そうだよね? ありがとう。それにお疲れさま。」
『いやあ、なんか…、そんなに言われると悪いような気がするけど。』
照れている姿が簡単に目に浮かぶ。
尾野くんは少し子どもっぽいところがあって、普段からあまり感情を隠さないから。
『あのさあ。』
少しくすくすと笑い合ったあと、尾野くんのあらたまった声がした。
「はい?」
わたしも少しあらたまってお返事をする。
また少し間があってから、尾野くんの落ち着いた声が聞こえた。
『もし…、何か落ち込んだり……辛かったりするようなことがあったら、言ってくれよな?』
(あ……。)
ハッとした。
同時に今までの……縞田先輩のことや美加さんのことが、一気に心によみがえる。
胸の痛みや重苦しい気分が。
(もしかして、これを言うために電話をくれたの……?)
『俺……、笑わせることくらいしかできないと思うけど……、その、役に立ちたいから。』
「あの……。」
声を出そうとしたら、涙も一緒に出そうになった。
尾野くんの気持ちが胸に沁みる。
お礼を言わなくちゃ、と思うのに、言えない。
(言わなくちゃ。ちゃんと。)
空気をゴクンと飲み込んで、息を整える。
「うん。ありがとう。」
何度も繰り返して言いたいけれど、口に出せたのは一度だけ。
あとは心の中でずっと……。
『うん。じゃあな。おやすみ。』
静かな声が聞こえた。
「おやすみなさい。また明日ね。」
わたしはどれほど恵まれているんだろう……。
ベッドに寄り掛かってぼんやりとしてしまう。
今まであったことが頭の中に浮かんでは消える。
たった2か月弱の間に、ずいぶんいろいろなことがあった。
その中で、辛かったことというのは多くない。
縞田先輩と美加さんのことだけ。
たった2つだけど、辛いことの方が重くて大きく感じてしまう。
(きっと、美加さんのときのことを言ってるんだ……。)
あの日、帰りの電車の中で、元気になってよかったって言ってくれた尾野くん。
わたしがあからさまな態度を取ってしまったことで、本当は傷付いていたのかも知れないのに。
(本当に、優しい。)
それは前から気付いていた。
ふざけてばかりいるけど、本当はとても気を遣ってくれている。
たぶん、それを言われるのが照れくさいから、普段は違う性格に見せかけようとしているんじゃないかと思う。
尾野くんだけじゃない。
バレー部の男の子たちは、みんな優しい。
相河くんも頼っていいって言ってくれたし、宇喜多さんも真剣に相談に乗ってくれる。
藁谷くんも、気付いて心配してくれていた。
男の子のお友達がこんなに優しいものだとは思わなかった。
もしかしたら、あの部の人たちは特別そうなのかも知れない。
最初の日に菜月ちゃんもそう言ってたし。
美加さんのことを一人で悩んでしまったのは、女の子には相談しにくかったから。
ほかの女子にもわたしが男の子に馴れ馴れしいって思われているかも知れないと思って、怖くて。
菜月ちゃんはそうは思わないのは分かっていたけれど、美加さんと仲がいいから言えなかった。
あのとき、訊いてくれたのが宇喜多さんだったから話せたんだと思う。
女子じゃなかったから。
そういうことって、これからもあるのかも知れない。
(わたしもみんなの役に立ちたい。)
役に立てるといいな。
わたしがいることを、みんなに喜んでもらえたら嬉しい。




