35 見つけた。
尾野はすぐに、部屋の奥へと消えた。
もう一度この部屋をチェックし直すつもりだ。
俺も一瞬そうしようと思った。
見失ってからそれなりに時間が経っているから、俺たちに遅れたとしても、もうこの部屋に着いていてもいい頃だから。
でも、それではあまり芸がない。
尾野と同じ行動というのもなんとなく気に入らない。
これも対抗意識のせいなのか。
(まさかとは思うけど……。)
ここはざっと見回すだけにして、クラゲの部屋に戻ることにした。
もしかしたら、まだぼんやりとクラゲを見ているかも知れない。
彼女ならそんなこともあるのかも。
(さっき、尾野と二人で2周もしたんだけどな……。)
入口を抜けてくる人たちの横をすり抜けながら、彼女がもっと先に行ってしまっている可能性も浮かんだ。
そうなると俺か尾野じゃなくて、宇喜多と先に会ってしまうということも有り得る。
――― 『二人とはぐれちゃって……。』
――― 『まったく、大きな体してるくせに、全然役に立たないよなあ。』
頭の中に、ほっとしている葵と呆れ顔の宇喜多の会話が聞こえてくる。
それから仲良く並んで水槽を見ている二人の後ろ姿。
魚を指差して何か言っている宇喜多に尊敬のまなざしを向ける葵……。
(宇喜多め! 女子に興味がないような顔してるくせに。)
フン! と鼻息を荒くしたとき……。
(葵!)
長方形のクラゲの部屋の反対側の入り口から彼女が入って来るのが見えた。
キョロキョロと周囲を見回していて、明らかに迷子になっている様子だ。
大きな声で呼びそうになって、危うくやめた。
急いでクラゲの水槽を囲む人々の間を縫って、彼女を見失わないようにしながら進む。
心細そうに水槽じゃない場所を見回している彼女は、人混みの中では見分けやすかった。
(それにしたって……。)
どうして彼女は、今ごろこの部屋に入って来たんだろう?
さっき、間違いなく彼女はここに俺たちと一緒にいたのに。
何か忘れ物でもして、前の部屋に戻ったのか?
だったら、俺たちに一言言ってくれればよかったのに。
それに、忘れ物を取りに行ったとしたら、ずいぶん遠くまで戻ったような時間だけど……?
(あ。葵! こっち!)
彼女がこちらを向いた瞬間に手を挙げる。
すぐに俺に気付いた彼女が、ほっとした顔で「よかった……。」とつぶやいたのが見えた。
(やったぜ〜〜〜〜!)
尾野に勝った!
それに、彼女が俺を見て安心してくれた!
邪魔にならないように壁際に寄った俺のところに、彼女が足早に人混みを抜けて来る。
そのままポンと抱きついてくれてもよかったのに、一歩手前で止まった。残念。
「ああもう、ごめんなさい!」
彼女が勢いよく頭を下げる。
そしてすぐ顔を上げると、申し訳なさそうに俺を見上げた。
「迷っちゃって……。」
「迷ったって……どこまで行ってた?」
「深海魚と、ここ……。」
「え?」
深海魚は一つ前の部屋だ。
それと、 “ここ” だけ?
「結構、時間が経ってるけど……?」
俺が尋ねると、彼女は情けなさそうな顔をした。
「ここの円柱形の水槽が並んでるのを見てるうちに、どっちに進んでるか分からなくなっちゃって……。」
言われてみると、そうなのかも、と思った。
彼女の背の高さだと、人混みで部屋を見回してもあまり見通しは良くなさそうだ。
それに、ここの水槽は全部同じ円柱形で、違っているのは入っているクラゲの大小くらいだ。
「出口だと思って行くと、さっき見たところで…、っていうのを延々と。もう、タカアシガニなんか何度見たか…。」
二つの部屋を行ったり来たりしながら途方に暮れる葵の姿が目に浮かんだ。
いったい何度あの入口をくぐったんだろう?
「大変だったな……。」
気の毒に思って言ったけど、そのあと急に可笑しくなった。
こらえ切れずに「フッ…。」と笑いが漏れてしまう。
「笑われても仕方ないよね……。」
葵ががっくりと肩を落とす。
そんな態度をされると、彼女を慰めたいという気持ちが湧いてくる。
肩に手をかけてあげたいけれど、今はまだ、そんな立場ではなくて……。
「もういいよ。とにかく行こう。尾野も探してるから。」
(あーあ。チャンスなのになあ……。)
はぐれるのを防止するという名目で手をつなぐことだって可能かも知れない。
あるいは、彼女に「俺につかまってろよ。」なんて言うとか。
なのに俺は、わざわざ尾野の名前まで出したりしているんだから……。
「ああ…、みんなに迷惑かけちゃって……。」
しょんぼりと後をついてくる彼女。
本当は彼女を元気にするための遠足だったはずなのに。
「気にするなよ。」
必死で考えても、出て来たのはこんなありきたりな言葉。
俺を見上げた彼女の表情は、こんな言葉くらいでは変わらない。
落ち込んでため息をつきながら、彼女が言った。
「今日だけじゃ済まないかも知れないんだもん……。」
「え?」
「みっともないから黙ってたんだけど……、わたし、方向音痴なの……。」
「方向音痴……?」
それを聞いて思い出した。
試合の日の朝、丸宮台の駅で会ったとき、彼女はとてもほっとした顔をしたのだった。
初めて行く場所だから不安だったと言って。
「そうか。じゃあこれからは、俺も気を付けて見てるから心配するな。」
「え、でも……。」
「それに、遠征のときは、丸宮台で待ち合わせをして一緒に行こう。」
「いいの……?」
「あはは、いいよ。べつに遠回りするわけじゃないし。」
待ち合わせをする口実ができたし!
「うん……。ありがとう。」
そう言いながらも、彼女はまだ笑顔になりきれないでいる。
迷子になったことをやっぱり気にしているんだ。
「今日のことも、もう気にするなよ。その…、かくれんぼみたいで面白かったぜ?」
やっと探したセリフ。
彼女になんとか笑顔になってほしい。
「かくれんぼ……?」
「そう。俺と尾野がオニ。」
俺が笑顔で言うと、つられた彼女も少し微笑んだ。
「迷子になっても、必ず俺が見付けるから。」
言葉にしてから “そうだ。” と思った。
必ず見付ける。
ほかの誰よりも先に。
「……見付けてくれる?」
「おう。今のでコツが分かったかも知れない。これからは頼りにしててくれていいぞ、ははは。」
笑ってみせた俺の前で、彼女がふっと真面目な顔をした。
それからようやくにっこりと微笑んだ。
「この前も、そう言ってくれたね。」
「え?」
「ほら、この前の試合の帰り。副部長だから、って。」
「ああ。」
(そうだった……。)
葵に頼りにしてほしい。
そういう存在になりたい。
あのとき、心からそう思った。
ただ、本当はそれだけじゃなかった。
その裏に、俺の本当の気持ちが隠れていた。
縞田先輩の代わりになりたい ――― 。
彼女に、俺のことを見てほしかった。
彼女の心が欲しかった。
「俺……、もっとしっかり者にならないとダメだな。」
なんだか俺は、いつも言葉が先に出ている気がする。
そして、言ってしまってから気付く。
それが自分の本心であること、あるいは、それが失敗であったことに。
「今でも頼りになるよ。」
そう言った彼女の目は、優しくまっすぐに俺を見ていた。
彼女は本心からそう思ってくれているのかも知れない。
でも、そんなに立派な男じゃないことは自分でよく分かっている。
俺は口先ばっかりで、そのせいで榎元が葵を脅すようなことになってしまったんだから。
「……ありがとう。」
彼女に答えながら、心に誓う。
(約束する。頼りになる…、もっと信頼できる男になるって。)
そのときには俺を選んでほしい。
ほかの誰かじゃなくて、俺を見つめていてほしい。
「あ、尾野くんだ。」
大きな水槽の部屋に入るとすぐに、彼女が尾野を見付けた。
尾野もすぐに気付いて、ほっとした顔でやって来る。
「葵ちゃ〜ん、心配したよ〜。」
「わーん、ごめんなさい! クラゲの部屋でわけが分からなくなっちゃって……。」
「いやいや、目を離した俺たちが悪かったんだよ。ごめんな?」
(あ……。)
尾野の言葉にハッとした。
その優しさに。
負けてる、と思った。
心配したのは俺も同じだ。
でも、見付けたときに、尾野はこういうことを言うことができるんだ。
(今まで俺は、仲間の何を見て来たんだろう?)
2年生になってから、自分が他人の気持ちを深く考えていなかったことに気付いた。
今までは尾野のことも、たぶん、藁谷や宇喜多のことも、表面に見えるものだけを見ていた。それが全部だと思っていた。
でも、見えないものもあるんだ。
人は、見える部分だけで全部じゃない。
(俺は……?)
俺にもあるのだろうか?
俺自身でも気付かないものが?
尾野と葵の親しげなやり取りを見ながら、焼きもちも焼かずに、ぼんやりとそんなことを考えた。




